駅前シネマニュース250号に寄せる23人からのメッセージ

                                                    

渡邊元嗣(映画監督)

 僕の手元にある最初の駅シネニュースは、88年7月号通巻第118号である。ということは、この7月号で丁度丸11年間毎月送っていただいていることになる。僕は、84年に東映セントラル作品で映画デビューし、新東宝・日本シネマ・国映・にっかつ・ミリオン・エクセス・ENK・大蔵と、東活を除く当時のほぼ全社で監督させてもらい、作品数も64本になった。デビューの頃、「ロリータ喪失」「ねらわれた学園」等で地方の館主さんから名指しでよくクレームが来ていた。今の四天王の比じゃなかったようだ。「ふざけている、バカバカしい、色気がない」というのが大半であった。東京と違い、地方のコヤになればなる程、常連客が多く、今でも監督名をあげて怒って帰って行く人があると先日、大蔵の担当者から聞いている。駅シネの番組表を1号1号見ていると、88年以降、僕の作品が新版(旧作のタイトル変更版)を除いて7月番組で40本も上映されている。営業的にはずれの多い僕の作品を、よくぞこれだけ買っていただきとても有り難く思っている。駄目と云われている作品もちゃんと上映して自分の目で確かめる、藤岡支配人の映画好きな所がよく表れているプログラムである。金沢のお客さんが少しでも駅前シネマに通って、僕の作品を楽しんでいただければ幸いである。これからも宜しくお願いします。藤岡さん、ガンバッてください。

 池島ゆたか(監督/俳優)

「駅前シネマニュース」も創刊250号を数えるとりこと、誠におめでとうございます。毎号楽しみに読んでおりますが、一番楽しみなのは藤岡さんの映画評です。実に鋭い! 映画評論家は(「自称」も含めて)世の中に数多く存在していますが、藤岡さんはその中でも飛び抜けた「論客」であると感じています。シャープな論旨、鋭さ、自信タップリの切り口。読んでいて心地よく、何度も頷かされてしまうのです。
「そうだ! まさにその通り! よくぞ言ってくれた!」
 と快哉を叫びたくなることも多々あるほとです。これに比べれば、既成の映画雑誌に載っている映画評のナント生ぬるいことか。(映画評論家とは名ばかりのパブリシティマンが多くはびこっているせいもありますが)
 藤岡さんの映画評の魅力とは何か? それはおそらくご自分の「経験」「生き方」「知識」「知能」のすべてを総動員した「生きた言葉」で語られている点ではないでしょうか。だからこそリアルなのです。ウソがないからこそ、読み手は説得されてしまうのです。
 また、映画館主として「生のお客さん」と長く関わって来ているという背景もあるでしょう。多くの館主は「入った、入らない」が重要であり、「客が入った映画はいい映画。入らなければ良くない映画」と短絡的に判断しがちなものですが、藤岡さんはそこからもう一歩踏み込み、「なぜこの映画に客が入ったのか? あるいは入らなかった?」
 ということを、今日の風俗、流行などをふまえ、論じてくれています。時にはこじつけ的な場合もありますが、それでも「藤岡さんの言葉なら納得できるぞ」と僕は思ってしまうのです。
 いつか、藤岡さんと酒でも酌み交わしつつ、映画論を戦わせることが出来れば……と思っております。ますますのご活躍をお祈り申しあげます。


山崎邦紀(ピンク&ホモ映画専門監督)

 最近つくづく感じるところだが、地方の映画館の館主には、劇場を根城として一家言を持つ、奇人変人が少なくないのではないだろうか。わたしが藤岡氏の名前と駅前シネマニュースを知ったのも「ピンク四天王」ブームの真っ只中に、氏が編集後記に当時の新東宝のプロデューサーの実名を挙げ、痛烈に批判しているのを目の当たりにしてからだ。わたしもまた、この人物ならびにブームの批判においては人後に落ちななかったので、すっかり嬉しくなって金沢に電話し、以来ニュースを送ってもらうことになった。しかし、氏の批評の本領に触れたのは、やはり「ポルノ映画の両性具有」の論に眼を打たれた時だろう。この時も金沢に電話したのだったが、男が作って男に見せるピンク映画の、たまらなく通俗的な枠組みを突破する視点があり、浜野佐知監督の脚本を担当し、「ホモ映画」の監督に熱を上げるわたしには、啓示のような理論であった。その割りに、わたしのこしらえる映画が代わり映えしないのは、残念ながら力量の問題だが、これからでも遅くはない、藤岡理論の忠実な映画化を試みたいものである。

平柳 益実(シナリオライター)

 十三年ほど前、編集者の一人、山崎浩治氏に誘われ執筆者の一人に加えていただいた。当時、都内にはまだあちこちに名画座があった。その頃自分にとって「映画を見る」ということは、見たい映画を番組予定から選び、劇場へ出かけて行くことだった。そんな習慣も、名画座の消滅と共になくなった。今は封切りで見逃した作品を、ビデオやCS放送で追いかけるという味気ないことになってしまった。ここ十余年間の出来事である。
 “駅シネニュース”は二〇余年に渡って、映画と映画ジャーナリズムに向け、本音を吐き続けて来たのだろう。編集兼発行人藤岡紫浪の過激さとバランス感覚が同居するコメントは、欺瞞とおべんちゃら、誹謗中傷がまかり通るこの世界で、耳を傾けるに値する。
 昔、スピルバーグはこんなことを言った。「近い将来、映画館で映画を見る習慣はなくなるかも知れない。けれど、ぼくが生きている間は大丈夫」
 藤岡さんの胸中にも、似たような覚めた視線と、自分の仕事への自信が宿っているような気がする。

山崎 浩治(ライター)


 駅シネ・ニュースのホームページ版「駅前シネマニュース ON WEB」を4月の半ばから作らせてもらっている。やがて2カ月経つが、アクセス数は300を少し切るくらいだ。僕んとこが9カ月で1700だから内心そんなものかと思うのだが、僕のホームページと比べても仕方ありませんね(笑) 先日、「スチール映画館」というページも併設し、また少しアクセスが伸びた。コンスタントにアクセスを稼ぐには更新をマメにした方がよいので、近いうちに「ピンク映画日記」みたいなのもWEB上で勝手に開いてしまおう、と目論んでいる。当初、「駅シネニュースのホームページ作りましょうよ」と僕がお願いしたところ、藤岡さんはいとも簡単に「いいよ。やって」と仰ってくれたのだが、このあたりの柔軟さというか鷹揚さが駅シネニュースの本領でもあるのだろう。
 微力ながら応援させて頂きますので、今後ともよろしくお願い致します。


 古川 amor 望夢(昼間は薬剤師)

 駅シネニュース創刊250号、おめでとうございます。Chu、Chu、Chu!!
 小立野にある某ビル1階奥で営業していた『JO-HOUSE』で初めて出会って以来、特に1ページ目の作品のタイトルセンスと紹介文、そして、「編集人より」を楽しんでいます。
 今年に入って発売になったバイアグラが相当売れているところを見ますと、「勃つ」ことへのこだわりがある限り、海綿体へに血液を送り込む映画は不滅なのでしょう、きっと。
 小林ひとみの乳首がピンクだった頃、何度か「駅シネニュース」に原稿を書かせていただきました。すべて、文字の裏側に秘められたものが全くないという、かる〜い読み物。当時のK編集長から、お叱りを受けました。
 駅前シネマでは、股間近くで隣に坐ったおじさんの手と偶然に遭遇したりなど、色んなことがありましたが、健在なのが嬉しい。
 ここ10年、ブラジル音楽にハマっていて、ご無沙汰しています。ごめんね。

赤須治郎(コピーライター)

 ひとつ釜の飯を食った仲の実感はないが、オールナイトで席を並べた仲というのはあるかもしれない。会わなくなってからずっと経っても、映画をずっと観続けていて、久々に会っても昔のように今の映画を語ることができる人たちを知っている。私はとうの昔に酔うなら酒と決めたのだから、せめて、観もしない映画のことを語るのだけはよそうと思う。それにつけても250号は凄い。

宮田 勝(プランナー)

 駅シネをめぐる想いの出発点と云えば、『八月の濡れた砂』にある。この映画を初めて観たのは高校2年、小立野のスタア劇場だった。併映は『遊び』と『野良猫ロック・ワイルドジャンボ』だったように記憶している。当時のスタアにはワイドスクリーンがなくて、シネスコもビスタサイズで上映していたが、日本映画の虜になるには充分すぎる程にエキセントリックな番組だった。後にこの3本は駅シネでシネスコで再見し改めて、ショックを受けた。
 こうして駅シネとはさまざまなシーンで関わりを持つようになる。当時の映画館通いから染み着いた映画観は、原理的には「光と影のアート」、表現的には「時代を先鋭に写す鏡」であり、これは今でも心の奥底に銘じている。気が滅入るのは、かつては映画観に13年もいた私自身の現状だ。
「あの夏の光と影はどこへ行っていまったの」「思い出さえも残りはしない」「私の夏は明日も続く」。映画でメシを食っていない分、フレキシブルに関われる筈なのに。自戒をこめての宣言は、「私の想いは明日も続く」藤岡さん、今後もよろしく。

かどみえこ(フリーライター)

『金沢の人』となって20年&1カ月。『駅シネニュース』風に言えば、241号となりました。うむ?まてよ、本当かいな。というのが私に関しては実感。でも、250号を数える『駅シネニュース』に関しては、心より敬意を表します。
 想えば、あのパッションに満ちた時空間は、と突然ノスタルジックになりますが、映画を、映画館を、と思いを巡らせていけばやはりそこを避けては通れない。果たして、血となり肉となったかは定かではないが、今、とりあえず語るべきスペースが見当たらないだけで、結構、体の隅々まで浸透している自分がいる。
 わけても「日本映画連続上映会」――じんわり泣けたし、シニカルに一匹狼女にもなれたし、元気の素をもらったし、生きる美しさって何だろうと考えさせてももらった。あそこまで感情移入できるって、素敵な熱い季節だったと思う。年をとらない<映画たち>にこれからも思いを馳せ続けていくことが、若さを保つ秘訣かもしれない。とはいえ、シネコンのお世話になることが多くなった今日この頃、借り物の椅子に坐っているような、ポッと浮いているような、妙に落ち着かない自分がいることも確か。


橋本 浩一(COMUIN)

「RONIN」を観て、ジョン・フランケンハイマーのキレ味壮快なアクションに元気づけられた。前進あるのみ。この人は「ブラック・サンデー」の頃と全く変わっていない。ちょっと調べてみると、駅シネニュースの発刊は「ブラックサンデー」事件の翌年ということであり、相変わらず辛口アクション映画を作り続けるフランケンハイマーのように藤岡さんもキレ味壮快な駅シネニュースを発刊し続けて欲しいと願います。
 しかし、実をいえば僕の駅シネニュースとの出会いは83年4月でして、それ以前の号は見たことがないのです。収集マニア的な感情もあって、一度藤岡さんに一号からのバックナンバーはありませんかと尋ねてみたのですけれど、残っちゃいませんよとの答え。「何でも鑑定団」ではないが、83年3月以前の駅シネニュースを譲っていただける(コピーだけでも……)方がいたら是非ご一報を!!

 寺脇 研(映画評論家)

 深駅前シネマニュース250号と聞き、おめでとうと祝うだけでなしに、ご苦労様とねぎらいたくなるのは、わたしも月刊ミニコミ(「B級映画評論家通信」)を発行した経験があるからです。当方は60号そこそこでダウン。さまざまな意味でいかに大変かを知っているつもりなので、なおさら頭が下がる思いです。それと、藤岡さんの「論敵」たるわたしにもご丁寧に毎号御送付いただきありがとうございます。隅々まで愛読している映画メディアといえば、これが一番かもしれません。
 もう9年前になりますが、「映画芸術」誌(これも今や藤岡さんの「敵」?)で駅シネ三人娘のピンク映画座談会を企画させていただいのたのが最大の思い出です。あの金沢の一夜は忘れられません。もちろん、藤岡さんとの「論争」も、わたしの映画に対する考えめてくれた貴重な出来事だったのは、言うまでもありませんが。


大高 宏雄(映画ジャーナリスト)

 私へのイチヤモンが時々あるので、あまり見たくないニュースなのだが、おめでとうと素直に言ってしまうのは私の性格の故です。250号ですか。その蓄積から単行本も生まれたわけで、他の地方の劇場主からしたら、垂涎の的ということでしょう。陳腐な言葉ですが、これは映画への愛が為せる業ですよ。映画への愛と言ってしまえばいいのです。
 逆イチャモンですけど、一つの党派性で紙面を埋めつくさない方がいいと思いますね。山崎浩治が「ビッグ・ショー! ハワイに唄えば」を、小さな声でしか好きと言えないような雰囲気。この雰囲気が党派性なのです。そんなもの、ぶっつぶしましょうよ。仲良しクラブはやめましょう。
 ただ私もそうですけれど、ニュースも揺れてますよね。映画のクォリティと興行の相関関係。実を言えば、これは戦前からある、映画との大衆性の問題なわけです。これに関しては、私は簡単な答えは出しませんよ。テレビが良くて、映画がダメだなんて言いません。徹底的に揺れてやります。ニュースも、もっと揺れるべきだ。その時、矮小な党派性はぶっつぶれ、見えない新たな党派性が個々人の内部に生まれていくわけですよ。そこに賭ける以外ないじゃないですか。


前多 三喜男(無職人)

 79年に、故あって、東京を去り、金沢で暮らすことになった僕にとって、(金沢)駅前シネマと、そのチラシ・駅前シネマニュースは、僕と僕の観たい「映画」を結ぶ重要な窓口だった。その頃あった日本映画連続上映にも、何回か足を運び、駅シネニースを見て、金沢にも、こんな「映画馬鹿」がいると嬉しくなり、何度も、僕のオシャベリを、のせて貰った。ついには渇w前シネマに、半年程ではあるが、籍を置いたことさえある。
 気がつけば、あれから20年が過ぎた。
 今は、駅前シネマも、とんとご無沙汰で、駅シネニュースも、東京に居た頃の古い友人に、送るだけになっている。
「作品」がなければ、「批評」もない。
 駅前シネマで、観たい「映画」が上映されなければ、駅シネニュースも、道楽の「ヒョーロン」ペーパーでしかない。
 サイコ背に、駅シネニュースは、「上映」と「評論」を連動できる評論誌なんですよ、とだけ書いておきます。


原 達也(決まった肩書きなし)

 駅シネニュースに初めて原稿を書いてから、もう20年。折角なので、この間(79年〜99年前半)封切られた日本映画の極私的ベスト10を考えてみる事にした。

 十九歳の地図(79年 柳町光男)

 ヒポクラテスたち(80年 大森一樹)

 風の歌を聴け(81年 大森一樹)

 天使のはらわた・赤い陰画(81年 池田敏春)

 闇のカーニバル(81年 山本政志)

 キスより簡単(89年 若松孝二)

Aサインデイズ(89年 崔洋一)

 ノーライフキング(89年 市川準)

 監禁・わいせつな前戯(90年 佐野和宏)

 ヌードの夜(93年 石井隆)

 映画観で映画を観ること、それは僕にとって、LIVEだ。「いい時は最高、悪い時は最低」(BY 遠藤賢治『東京ワッショイ』)で充分なはずなのにそうも書いてられない、というのがここ10年くらいの実感です。ではまた。


寺尾健一(石川県立美術館学芸専門員)

 250号という長年の歴史の積み重ねにまず敬意を表します。藤岡さん自身のコラムや後書きにはいつも啓発されることが多く、毎号楽しみにしています。その成果は『映画観番外地』に既に公判されており、野球に例えれば、直球ばかりでなく多彩な変化球と、ボール球も生かした幅広いストライクゾーン操る巧みな配球を心得た一流の文章術に感心し、一気に読み終えてしまった方も多いと思います。また、かつてのオールナイトをはじめ、意欲的なプログラム編成は、どれだけ自分の中での<映画>の世界が拡がったことか。そうした上映会での熱気や連帯感は、とても貴重な体験であり。藤岡さんはもとより、当時企画のあたった方々に改めて感謝させていただきます。最後に貴重なミニコミ誌の発行人として、またライターとしてご苦労の多いこととは思いますが、とりあえずは300号、そして更に続くことを期待しております。

平賀 正樹(もっきりや)

 普通なら、250号、おめでとうございます、でいいのですが、近頃の紙面での藤岡さんの孤軍奮闘の姿を読むにつけ、一時、自主上映だ、カントク呼ぶんだ、などといっていた僕の責任放棄を含めて、かなり申し訳なく思っております。
 とはいえ、この間のシネモンドの任侠映画(セレクションの問題はあれ)を観た時の感慨などを思い出すと、いい時に日本映画を観ることができ(再映でも)、いい時に勝手な文章を書かせて頂いた、と本当にありがたく思っています。映画は観る楽しみと、その思った事を書いて、それを読んでもらう楽しみというのもあると思うんですが、まあ、いい時代だった、ということで……。


つじかわひろみ(COTTON HOUSE金沢)

 250号おめでとうございます。
 駅シネニュース創刊時もあの頃は何かしら面白かった。今程も疲れてはいなかったし、ただ歩いているだけで楽しかった気がする。その頃の金沢不良映画青年の拠点の一つが駅シネだったし、ニュースの初代編集人の二木正さんから山崎浩治君、金丸拓司君と見事なまでに不良が続く。恒例の駅シネベストテンや緒々の文章で、不良たちが映画への愛を語っていた。僕たちの上の世代が日本映画批評戦線を作り、後年、山崎・金丸両君らと自主上映団体COTTON HOUSE金沢を旗揚げした。記録映画から劇映画、8ミリまでも自主上映した。2カ月に一回の上映を!と頑張ってみたものの、無理だった。今では芝居の組織になってしまったが、あの当時、上映会ばかりやっていて、最後の自主上映「へのじぐち」は藤岡さんも来てくれていて、翌月号のニュースにしっかり書いてあってのを憶えています。
 あの頃、駅シネニュースは教科書だったのかもしれません。いつまでも不良で、頑張って続けてください。

 矢野達史(NHK報道局ディレクター)

 駅シネの土曜のオールナイトに通っていたのはもう15年位前のことです。今回で250号ということはその頃100号を迎えていたのでしょうか。
 駅シネニュースは必ず家に持ち帰っていました。映画に何を求め何を感じるのか、人によって随分違うものだということを、学んだような気がします。
 実は今、藤岡さんの書く映画の興行価値についての意見にインスパイアされたこともあって、ビジネスとして復調の兆しが見えてきた日本映画業界を取材しています。大手3社や独立系制作会社、ワーナーマイカルまで片っ端から話を聞いていますが、藤岡さんにも電話をかけてお話を聞きたいと思っていたところでした。
 今後も刺激的な紙面を期待しております。


田中 学(自称文筆家)

 おめでとうございます。「継続は力なり」と言う。しかし、油断すると形骸化して惰性となっていく。だが、本紙は違う。真の力を持っている。常に日本映画の現状を見つめ、その行方を案じてきた。
 私が本紙を読ませてもらうようになって、はや10年(当時は年末に「駅シネ邦画ベストテン」の選出があり、GWにはオールナイト上映会もあった)。1999年7月に250号発刊というのも、何か運命を感じる。
 こうして年月が流れてきたなかで、映画館も大きく変化した。香林坊シネマストリートの縮小、シネコンの進出、ミニシアターの出現……。その一方で、変わらなかった事もあるだろうし、これからも変えてはいけない事もある。
 本紙には、これらの一端を背負う力がある。今後も楽しく読ませてもらいます。


MRS.BOO(春日部の淫乱主婦)

 この記念すべき250回のおめでたい時に、こんな失礼な事を言っては、非難の嵐ゴーゴーかもしれませんが、男と女(だけとは限りませんが)のSEX話はもうネタ切れです。
 何やかんや、私も1P目の番組紹介をさせてもろうて12年になりますが、レイプだの不倫だのSMだの近親相姦だのいろいろバリエーションを変えたとしても、究極の真実は一つ――お○んこにチンポを挿入いするだけの事やないけ。
 ただそれだけの事のために、尾ヒレやらえヒレやらつけて、ストーリーをこねくり回して、あ〜メンドクサーの心境なのだ。SEXするのにいちいち理由をつけようとするからつまんなくなるわけで、1000本近く作品を紹介してきた私としては、どうでもいいようなドラマはもうたくさんといったところだ。
 よって、これからの駅シネには垂れ流しチャンネルの如く、男と女のピストン運動ばかりが見れるような金太郎飴ポルノでいいんじゃないかと思うんです。ま、私の出番はなくなるけどね。これって邪道なのかしらん。

藤谷 朋成(元駅シネニュース主筆)

 1994年ごろから先月まで、私は駅シネニュースの主筆をつてめてきた、はずである。その間いくたびか休止をはさみながらも、常に抜きんでた水準の映画批評を展開してきた、はずである。駅シネニュースのみならず、日本映画に一時代を期した、はずである。まさに私こそ駅シネニュース中興の祖と呼ぶべき人物である、はずである。
 しかしながら、駅シネニュース編集人は、この偉大な映画批評家に対して、あまりにも不当にして冷酷な扱いをしてきた。
「勝手に自分で主筆になるな」
「2時間の映画を見る体力も無い男が」
「ペッペッペッ」
 このような扱いに耐えかねて、私は駅シネニュース主筆の座を降りることにした。
 やんぬるかな。やんぬるかな。人知ラズシテイキドオラズ。駅シネニュースが500号を迎える日がもしも来たなら、感傷とともに思い出してほしい。かつてはなばなしく咲き、はかなく散った主筆の居た事を。

三輪 精一(薬局店員)

 駅シネニュース250号おめでとうございます。これからも楽しい紙面作りをお願いします。
 僕の駅シネニュースの思い出といえばとにかく毎月のネタがなくて苦労した事ですかね。そんなに毎月面白い映画、あるいは本気で腹が立つような映画がある訳ないですからね。できる限りおすすめ映画を紹介しようと思っていてもなかなかそうはいかないので自然と切り捨て御免方式になって行き、それが定着してしまった、という感じでした。それでも何回か連載していると次第にそれが自分でもおもしろくなってきたんですけどね。
 それにあの頃はレギュラー陣が何故にか毎月怒っていたしね。それも怒りのぶつけ方にも個性が出ていて面白かったし。
 駅シネを辞めてからはつまらない映画を見ても前ほど怒りのパワーが出ないのは、もうそれをネタにしなくてもいいからでしょうね。

河田 克一郎(自称・芸能ライター志願者)
 
 駅シネニュースに感謝すること

 筆者の私見(私憤?)を表明させてくれる、数少ない場であることもさることながら、やはり映画の「見方」を教えてくれたことが一番だろう。映画も商業である以上、ヒット作にも大コケにも、そこには何らかの理由がある。それを洞察することで、映画の作り手の思想、引いてはその背景となっている社会事象にまで考えを及ぼすことが可能だと、思い知らされたことである。まあ、そのような域に至るため、試行錯誤する現状であるが。

 駅シネニュースで道を誤ったこと

 こと邦画の場合、映画そのものよりも、映画の完成に至るまでの経過、作り手の思惑の方に関心を持つようになったこと。これで筆者は映画そのものを楽しむことは出来なくなってしまった――。何のことはない。結局、表裏一体のことではあるのだが。
 これからも死ぬも生きるも我々?人! 映画か、この世か、我が身のいずれかが滅亡するまで、共に歩み続けたいものであります。