商品としての日本映画論 
                 
藤岡紫浪
                          

  現実とはあまりに遊離した、
  日本映画における男たちの夢━━

 
10月27日、金沢大学法文学部経済学科第18期の同窓会が、6年ぶりに金沢の地で挙行された。長年、会の幹事役を務めてきたのだが、片腕となって世話をしてくれていた山形県天童市在住のE君が急逝したため、すっかり脱力感から同窓会の準備をする気持ちが起こらず、石川県庁で重要なポストを担っているS君に代表幹事を依頼して、ようやく今回の開催に漕ぎつけた。発起人が分担し電話で連絡しまくったかいもあって、男子ばかりの卒業生約百名中、四十名以上が参加して盛会であったが、おそらく還暦前後の団塊の世代が、人生の新しい出発点に立ち、互いの近況を確かめ合って、何らかの糧にしようと考えたのであろう。ただ驚いたのは、6年前の同窓会の雰囲気との大きな差異である。頭が禿げたり白髪になったりして、外見的におじいさんになってしまったという感慨もさることながら、前回はネクタイを締めたスーツ姿やカジュアルでもお洒落に決めた同窓生が多かったのに、今回は格好を構わずに普段着で参加している人がひどく目についた。仕事にも遊びにも意欲的だったのが、しばらくの間に余生をあるがままに生きるとでも言いたげな枯れた風情を全身に漂わせているのである。それぞれのスピーチを聞くと、自営業や第一線で今も働いているサラリーマンのごく一部を除いて、年金まで失業保険でつないでいる人やアルバイトで稼がなくては生計が維持できない人など、総じて金銭的な余裕が乏しい気がした。いよいよ自分の好きなことができると胸を膨らませている人なんて見あたらず、妙に和気あいあいとして、体力の衰えや病気の悩みをそれぞれ披瀝し、いたわり合うといったありさまである。つまりは、これまでの人生を自分に言い聞かせるように納得してはみるものの、将来への意欲や希望となると途端に肩を落として萎えてしまうのである。どうしてこうなってしまったのだろうか。
 平均的な団塊の世代の男たちの本音を語れば、次のようなところであろう。両親とは個人の権利を主張してぶつかりながらも、つかず離れずいい関係を保ってきたし、子供には十分過ぎるほどの教育の機会を与えながらも、何の強制もせず自由放任でやらせてきたし、何よりも妻には夫唱婦随ではなく男女同権で仲良く過ごしてきたつもりだ。そして会社では、前の世代のように上から頭ごなしに命令するだけでなく、部下との意志疎通も欠かさず、それでいて上司にも気配りをしてきたはずだ。これだけ一生懸命に家庭に、仕事に尽くしてきて、誰からも後ろ指をさされるはずもないのに、現在の境遇はどうしたことか。高齢に達した老親の面倒は自らの肩に重くのしかかって大きな負担だし、ようやく一人前になったはずの子供たちは、教育費の重荷から解放されて一息つく暇もなく、今度は結婚だマイホームだと、さらに親のすねをかじり取ろうとするパラサイトぶりである。何よりも許せないのは、自分の親世代のようにこれからの余生を一緒に楽しもうとしていた妻が、老いさらばえ金も稼いでこなくなった夫に振り向きもせず、夫の世話を放棄して、好き勝手に友人や子供たちと遊びに出かけ、元気いっぱいで嬉々としていることだ。ここに到ってようやく、団塊の世代の男たちは悟るのである。俺たちは個人主義を信じて、みんなを束縛しないで生きようとしてきたのだが、ところが本心では、妻や子供、あるいは両親との濃密な関係をいつまでも保っていたかったのだ、ということを。そして、結局は関係性の中でしか生きられなかった自分には、揺るぎない世界を自身の中にしっかりと作るという個人主義でもっとも大事なことを完全に忘れていた、ということを。団塊の世代の大きな喪失感の理由は、ここにあるような気がしてならない。
 さて、自分だけの世界を強固に築くということは、孤独にも同時に耐える覚悟をよぎなくされるが、自己本位な個人主義と家族との良好な関係性を両立させるという、今の時代では信じられないような映画が相次いで封切られ、揃って大コケしたのは当然の結果というべきだろう。すなわち『自虐の詩』『象の背中』『サウスバウンド』の3本なのだが、いかに阿部寛や役所広司、豊川悦司らの人気俳優を起用したとしても、妻や子供たちが無条件で追随するストーリーは、とても女子供に受け入れられるはずもなく、中年以上の男性にとって面映ゆいばかりだろう。
 堤幸彦監督の『自虐の詩』は、無職でちゃぶ台をひっくり返すしか能がないパンチパーマの元ヤクザ・阿部寛と、子供の頃から不幸の連続なのにめげることなくダメ亭主に献身的な愛情を注ぐ中谷美紀の、腐れ縁的な夫婦愛を描くものだが、リアルな猥雑さはあっても、ここにはファンタスティックな人情はなく、人々が映画に期待する「昭和」と大きな隔たりがある。脇役のあさひ食堂のマスター(遠藤憲一)や親友の熊本さん(子役が秀逸!)など面白いキャラクターも多く、業田良家の4コマ漫画が原作なのだから、料理の仕方によっては全然違った作品になって、興行的にも通用したのではないか。
 井坂聡監督の『象の背中』は、秋元康の新聞連載小説の映画化らしいが、これまた身勝手な男の夢物語と言うほかない。緒突猛進型の建設会社部長の役所広司が50歳目前で、末期の肺ガンを宣告され、象のように群から離れて死に場を求める旅に出るという発想自体は悪くない。しかし、それが初恋の人や喧嘩別れした親友、絶縁していた実兄との再会であったり、しかも結末では、妻の今井美樹やその子供たちに温かく看取られ、愛人の井川遙にまで別れを惜しまれて、海辺のホスピスで安らかな死を迎えるというのでは、どこに象の背中たる、個性ある厳しい男の生死があるというのだろう。
 森田芳光監督が、奥田英朗の小説を映画化した『サウスバウンド』もまた、全共闘の心情をそのまま持ち続ける破天荒オヤジの豊川悦司が、次から次へと周囲と揉め事を起こして、東京から沖縄の西表島へ、さらには地図にも載っていない南の島へと雄飛していく。長いものには巻かれろと言わんばかりの事なかれ主義の世の中に、一石を投じようとする豊川の行動はよく分かるが、全幅の信頼を置いてどこまでも行動を共にしようとする天海祐希、父親を尊敬するようになって応援する子供たちとなると、現実と大きく遊離した絵空事としか思えない違和感が拭えない。
 ありえない筋書きと言えば、河瀬直美監督の『殯の森』も似たようなものだ。若い頃に亡くした妻の思い出だけに生きる認知症の老人が、不慮の事故で子供を失って離婚した新任の介護福祉士の若い女性と、妻の眠る森へ墓参りに出かけ、生と死の境界線にあるような神秘的な森の中で裸身を絡ませるという展開だ。自然の迫力ある描写と要領を得ない説明不足には、監督の変わらぬ個性と苦笑いするほかないが、わがままな老人の気持ちにここまで寄り添うのは、どうしてなのだろうか。
 一見すると手垢にまみれた抗争ものに見えて、徹底した個人主義でベタな関係性に陥らないのが、高橋ヒロシの漫画に題材を得た三池崇史監督の『クローズドZERO』の優れたところだ。あくまで個人の腕力を素手だけで競って、陰湿な権力闘争とは無縁なのも潔いし、周囲の大人たちがよけいな手出しをせず、遠くから思いやっている姿勢なのも好ましい。得意のアクションに三池演出が冴えわたる一級の娯楽作品で、ヒットするのも不思議ではない。