映画に関して語る四の五の事柄

                       河田克一郎
 
 映画禁断症状らしきものが
  出ている者の雑文をお許し下さい。

 
映画が見られないでいる。
 こんなに映画を見られないまま、伝統ある本誌本欄をやっつけの拙文で埋めるのは、甚だ申し訳ない。だから、もう筆を折り(実際にはパーソナルコンピューターだが)、腹を切ると称して髪を切り━━そういえば、本欄の連載を始めたころ、かの大毅クンはまだ五、六歳だったのだねぇ━━引退してしまおうか‥‥。そこへ編集人様のありがたいお言葉。「河田さん、あんたどんなにネタに詰っても適当なことで乗り切ってきたんやから、なんとかできるやろ」。信頼とも催促ともつかぬ言葉に励まされて、髪を切らずにパーソナルコンピューターに向かう。何かネタになることはないだろうか‥‥。おっ、これだ(どうでもいい注。ここから後の文章は三回目にして、ようやく自分でこれで行こうと決意したものです。それだけ苦しんでいるんだよっ。って、打ち切り寸前の鴨川つばめか吾妻ひでお状態)。
 かつては東宝でも松竹でも自社作品、ないしは自社と別のプロダクションの提携・共同作品を「邦画系」と「洋画系」に分けて上映していた、ということを覚えている方は少なくなったのではないだろうか。よくよく考えてみればなぜ、れっきとした自社(が絡んで)製作の邦画を「洋画系」の館に掛けたのだろうかと思ったりもするが、総じて自社のウエイトが大きいのが邦画系、小さいのが洋画系だったのだろう。で、邦画系が手堅い作りでロクに客が入らないのに対し、洋画系は一ひねりした作りが大いに受けて大入満員。邦画系のあまりの不入りに、一度公開が終わった洋画系作品を併映にして急場をしのいだりもした(例・は挙げない。気の毒だから)。
 ええーっと、少し本筋から逸れてしまった。要するに、かつてはある映画会社の系列の映画館にも邦画系と洋画系が分れていて、時折洋画系にも日本製の映画が掛かっていたということ。だから洋画系に掛かる作品は、ちょっとひねった狙いを持っているのだな、と見る側が予備知識、あるいは構えて見ていた部分があったということだ。ところがシネマ・コンプレックスの台頭で旧来の映画館系列(ないし、映画館そのもの)が消滅して、これらの差は曖昧、というより解消されてしまったと言っていいだろう。
 ここからやや本論に入っていくのだが、現在ウェッブで公表されている東宝の年末ラインナップによると、十二月一日公開が「椿三十郎」で、これは日劇PLEX系、八日公開が「マリ子と子犬の物語」でこれもPLEX系。十五日公開で「えいがでとーじょー!たまごっち ドキドキ! うちゅーのまいごっち!?」。これは全国東宝系ということになっている。さらに二十二日が「劇場版BLEACH(中略)もうひとつの氷輪丸」で全国東宝系。全国に「●●プレックス」がはびこって、映画会社も無関係に上映されている現状で、東宝系もPLEX系もないもんだと思うのだが、旧来の感覚で分類するなら、「たまごっち」が正月映画で、「椿三十郎」はうまくいって年越しできれば万々歳、BLEACHは出版社がイニシアチブを握るマニア層向け、という図式なのだろう。
 かつての平成ゴジラも、冷静に客観的に見ればマニア&ジュニア向けだった、とは言え、その会社の顔ともいえる正月番組がたまごっちとはねぇ。無論、日本社会、経済におけるたまごっちの存在は確かに大きかった時期があった。が、もうピークは過去のことだろう。今じゃどうぶつの森もさほどでは無いし、ラブ&ベリーもムシキングもどうだろうか。そういえば松竹の「シナモン」なんて、何をいまごろ?ってなものだ。そこまで家族連れにターゲットをしぼらなきゃならんのか?
 仮に「椿三十郎」が正月番組だったら「過去の遺産に‥‥」という誹りは免れないだろうが、「正月映画(番組)」という言葉の重みを感じていた世代にとっては、複雑な気分にさせられるのではないだろうか。恐らくは、シネコンの普及による映画鑑賞の動機付けの変化(映画は買い物のついでに見るもの)によるものとしたら、事態は単純ではない。