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白の疾走
生田 きよみ


 はてしない雪原。音もなく降りしきる雪。遠くかすかにけむるタイガの森。
 ピシッ
 セルゲイじいさんの鞭がなる。そりを引く12頭のシベリアンハスキー犬。 犬たちは弾丸のように猛スピードで走る。
「ミーチャ、ねむっちゃだめだぞ」
 じいさんはひざにのった孫の顔をのぞきこむ。小さな毛皮のぼうしがかすかに動く。
 (3月も末だというのに。なんてこった)
 じいさんはぎりぎりと歯をかむ。
 3日前、海にしかけておいた網にはコダイ、カレイ、ハナサキガニがいっぱい はいっていた。ひさしぶりの豊漁に時を忘れて魚をとった。
 (もう少しはやく帰ればよかった・・・・・・)
 じいさんはミーチャの身体を毛皮ごとだきしめる。

 朝、サハリンの空は真っ青に晴れわたり、雲ひとつなかった。吹く風は、 これから訪れるかぐわしい春のいぶきをとかしこんだようだった。じいさんが 犬ぞりににのろうとしていると、ミーチャが家から出てきた。
「じいちゃん、ぼくもつれてって」
 息子の嫁のアンナがいそいでミーチャの肩をだいた。
「だめよ、ミーチャ。漁の手伝いなんてとんでもないわ。それに、ふぶきにでも なったらどうするの」
「だいじょうぶだい。ぼく、もう、5歳もん。じいちゃんが魚とるの、みたいよう」
 ミーチャはアンナの手をするりとぬけると、そりにのってしまった。じいさんは、 わきあがってくる喜びをかくして嫁を見る。そこへ、息子のコーリャがきた。村役場 へ出かけるところだった。
「まったく、ミーチャはじいちゃん子なんだから。こまったやつだ。今時、犬ぞりで 海にいくなんて、父さんも父さんだ。ミーチャ、きょうだけだぞ。ミーチャ、おじい ちゃんのいうことをよくきいて、危ないことしちゃだめだよ」
 話は決まった。アンナはふくれっつらして、ミーチャの毛皮をとりにいった。
「早く帰ってきてくださいよ。昼すぎると天気がかわるかもしれませんからね」
 そりを走らせて、しばらくしてからじいさんはふりかえった。豆つぶほどになった アンナがまだ家の前に立っていた。

 孫をつれてのはじめての漁。ミーチャはよほどうれしいのか、はしゃぎまわっている。 犬たちと遊んだり、網にかかった魚を箱にうつしたり。
 じいさんは自分の子供のころを思い出した。
 (わしは、3歳から海へいった。おやじといっしょに犬ぞりにのって・・・・・・・。 それがどうだ、村で犬ぞりにのる者はわしだけになってしまった。スノーモービルだか なんかしらんが、みんな機械に頼ってしまって。もしかしたらミーチャはわしの後継者 になるかもしれんぞ)
 じいさんは、ふつふつとわいてくるしあわせに時間を忘れた。海のむこうに雲があら われたとき、あわてた。いそいで帰りじたくをしたのだった。

 静かにふっていた雪がしだいに吹雪にかわる。横なぐりの雪がじいさんの顔を打つ。 まゆげが、鼻が凍りつく。そりの引き綱を持つ手がこわばり、感覚が失われていく。 まひしたような頭の中で、じいさんは必死に祈る。
 (おお、神様、わたしの宝ものミーチャをお助けください。ミーチャだけはどうぞ・・・・ どうぞ・・・・。まだたった5歳なのです。ここで、あの子の未来を閉じさせることは できんのです。わしはどうなってもかまいません・・・・・・どうぞ、どうぞこの子だけは・・・・・・)
 じいさんはおそってくる睡魔と闘う。激しい意思の力でふりはらうう。それでも、 睡魔は静かにじいさんをつつんでいく。
 やがてたずなを持つじいさんの手が止まった。犬ぞりも止まった。

 ウオーン    キュウーン  ワン ワン
 犬たちのなき声にじいさんははっと目をさました。うでの中を見た。ミーチャが犬の 腹にくるまれている。じいさんとミーチャは12頭の犬にびっしりとすきまなく囲まれ ていた。犬たちのあたたかい体温が手足や身体ぜんぶから伝わってくる。犬がめざめた じいさんの頬をなめた。ミーチャの顔もなめた。ミーチャは大きな青い目をぱっちりと あけ、くすぐったそうにわらった。
 じいさんのからだにふたたび力がみなぎってくる。じいさんは深い感謝の気持ちで犬 たちの背を1頭、1頭なでた。
「ミーチャ、もうひといきだ。がんばれ」
 ミーチャは大きな声でいった。
「ぼくは、だいじょうぶ。もう寒くないよ」
「ようーし、出発だ。そーれ」
 じいさんがかけごえをかけると、犬たちは再び整然とならんだ。
「たのむぞ、わしの大切な大切な友達」
 じいさんは鞭をならした。
 犬ぞりが走りはじめる。タイガの森がだんだん近づいてくる。あの森をこせば家だ。 犬たちの体温をもらったセルゲイじいさんは、しっかりとミーチャをだいた。犬ぞりは  疾走する。
 吹雪の白い荒野を。