雲を食べる
木間 一角


 かっちゃんは四階の遠く、本当に遠くにうっすらと白山が見える小学校の二年生です。
 にいにい蝉の鳴くこの頃は、四年生で従兄弟のたっちゃんと、蝉を追いかけながら、と
きどき空にぽっかり浮かぶ白い雲を見上げています。
「あの雲は船だ、あれに乗りたいなあ。」とか「あの雲綿菓子みたい。食べてみたい。」と
かいっています。
 夏休みの始めの日もそうでした。そうしたら突然、たっちゃんが叫びました。
「おじさん….かっちゃんのお父さんに頼んでみたら連れていってくれるかも知れない。」
「ほんとう!でも、お父さんいつも仕事で疲れてるってお母さんはいっとる。無理でない
かねえ。それに雲までどうやったら行けるか知っておるかねー。」
「ものは試しや。頼んでみまっし。」

  「じゃあ日曜日に連れてってあげるわ。」
お父さんは答えてくれました。
 かっちゃんはびっくりしました。こんどの日曜日はあさってです。いつも日曜日も「仕
事のつきあいで忙しい。」というお父さんです。そんなにかんたんに連れて行ってもらえる
って思ってもみなかったのです。
だから頼むときも大きな声を出してみたのでした。ヘリコプターで行くのでしょうか?
「たっちゃんも誘って四人でいこうね。」 かっちゃんはうなずいて「うんわかったわ。」
といい、三軒向こうのたっちゃんに伝えてきました。次は買物から帰ってきたお母さんで
す。
「お母さん、ふわふわした空の雲を食べたいてお父さんに頼んだら、日曜日につれていっ
てくれるって。」
 かっちゃんは当然お母さんも喜んでくれると思っていたのです。ところが、それを聞い
たお母さんは困った顔をして「またお父さんの勝手なくせがはじまった。」というのです。
 かっちゃんは知らなかったのですが、お父さんが山にいくと、泥だらけの靴などの後始
末はお母さんにまかせっぱなしにするので、お母さんがたいへん忙しくなるのです。
 お母さんがぜんぜん喜んでくれないのでかっちゃんはまた泣き顔になって、そうしたら
肩もあがって首が固くなってしまいました。
「でもかっちゃん、雲をつかんでみたいしい。」もういっかいそういい直してみたら、お
母さんはやっと「いいよ、たまには高いとこに行こうか。」といってくれました。
 かっちゃんはほっとしました。涙が引っ込み肩は下がりました。首も柔らかくなりまし
た。
 こんどは「高いところってどこかなあ。ほんとうにあの雲と会えるのかなあ。雲まで手
が届くのやろか。」って聞きました。お母さんは笑っています。
 次の晩のことです。
「かっちゃん、寝る前に着替えも用意して。白い帽子と長袖シャツもね。」とお母さんがい
いました。
「白いのはどうしてかなあ。雲と仲良くなるために白い色なんかなあ。長袖はどうして、
お空の上は寒いのかなあ。」いろいろ考えると、タンスの中の上着まで「一緒にいきたい。」
といっているようです。
 白い色の帽子はすぐみつかりました。縞々のひさし付の帽子です。長袖のシャツは、季
節はずれで、なかなか見つかりません。やっと出したのは、春休みに着ていた薄緑色の縞
模様の服です。

 日曜日の朝が来ました。お父さんはクルマにザックの荷物を積んでいます。空には白い
雲がぽかりぽかりと浮いています。
(かっちゃんは雨の日は空を見ると怖いので黒い雲は知りません。)
 たっちゃんもリュックをもって来て後ろに乗りました。やがてお母さんがおにぎりをザ
ックにいれて乗り、最後にかっちゃんも後ろの席に乗り、ドアを閉めました。
 みんなで「しゅっぱーつ」といってクルマはすいすいと走り出しました。
   平野の中を三十分ほど走ったとき、かっちゃんは「どこにいくの。」と聞きました。お父
さんが運転しながらぱっと前を指差します。白い峰筋の山が大きく並んで見えます。
「あー、白山だー。」
たっちゃんが叫びました。白山スーパー林道の入り口の標識がありました。
 山の中を一時間ほど走ったらクルマが停まりました。
「料金所でーす。」と窓の外のおじさんがいいます。
「あー、さるがいる。」たっちゃんが大声を上げました。
 また一時間走ると五角山岩駐車場というところにつきました。すぐそばに湧き水があふ
れています。
 飲んだらつめたくてとってもおいしい水です。水筒につめて背負うと腰のあたりが急に
涼しくなりました。何かが、かなかなと鳴いています。「ここは山の上かあ。」やっと少し
解ってきました。「かっちゃん、日差しが強いから長袖着て、帽子もかぶって。」お母さん
がいいましたが、ほんとうに日差しがつよくて両腕がじりじり焼けます。
 でも雲がありません。「お父さん雲はどこ。」聞くと
「もう少し上にあるよ。」と前を指差します。
 ヘリコプターではなかったのです。目の前に長い坂があって登る人達がゆっくりゆっく
り、歩いているのが見えます。雲にあうためにかっちゃんもえっちらおっちら登りはじめ
ました。
「ゆっくり、ゆっくり。」
といいながら半歩づつ歩いては休み、また歩いては休みで登ります。
 最初は別にどうということはありませんでした。ところが、だんだんと息は切れ、脚は
疲れて苦しくてたまらなくなりました。額は汗だらけです。
「もういやっ。」といって停まったかっちゃんの目からは涙がぽろっぽろ出てきます。
 初めて山に来た人はただ坂を登るだけなのでたいがい泣きたくなるのですが、四年生く
らいの大きい子どもはがまんをします。でもかっちゃんはまだ小学校の二年生なので、涙
が出てしまったのでした。
 そのときホーホケキョ、ケキョケキョ、という鳴き声とカッコウ、カッコウという鳴き
声が上のほうから聞こえてきました。
 空を見て歩いていたかっちゃんは何かにつまづきました。丸い小石のようです。それが
足元にびっしりと並んでいます。でも小石と違って踏むと割れるのです。色も茶色です。
 どんぐりでした。見渡すとどんぐりは路の先まで並んでいます。
 その奥には黄色い花が咲いています。思わず近寄ってみると、葉を広げたところはかっ
ちゃんの頭ほどもあるたんぽぽが並んでいるのでした。いつも見ているかわいいタンポポ
と違います。
「こんな、大きいたんぽぽがあるんや。」かっちゃんは本土たんぽぽを見たのは初めてなの
です。
 でも「もうじきよー。」とお母さんは先にいってしまいます。たっちゃんはしばらく待っ
てくれたのですが、やっぱり行ってしまいました。
 もう誰も待ってくれていません。泣いても泣いても一人ぼっちです。しかたがないので
ちょっと疲れのとれたかっちゃんは泣きながらまた歩き始めました。
 そのとき、いきなり赤い野イチゴがじゅうたんのように並んでいます。
 ここはどんぐり、たんぽぽ、野イチゴのじゅうたんが続く三色原っぱだったのです。

   かっちゃんは野イチゴの実を口に入れてみました。いつもは泥の上のものを食べてはい
けないのだけど、イチゴ刈りの時の畑で食べたことがあるので、ここもいいと思ったので
す。
 甘いイチゴで疲れが取れたとき、前からふわふわした綿のように白い雲が降りてくるの
が見えました。前の道では小さな猿がしっぽを振りながら山を登っています。
 先にいるお父さんが「ここが五角岩の山頂や。」と大声でいいながらカメラをザックから
出しています。槍のような山の頂きからは船の先のような形の雲も見えます。
 かっちゃんも涙を忘れて急いで坂の上まで登ります。雲は広がって船の甲板にいるよう
でした。
「眼を閉じて、口をあけてごらん。」
 口をあけてみるとひんやりした粒々、ちょっと塩辛いけどおいしい粒がわっと入ってく
るのが判りました。