荒廃。春の爛熟にあって、未だ感じるのはそればかり。既に温み、陰の気を払う風は吹きすぎて、頬に触れるのは、それでも未だ枯れた固さ。
それが、この長安の風土であるのか。それとも、この都であるが故の風の荒みか。
判らぬまま、造営を中途にされた建物に感じるのは、未だ荒廃。造り掛けた家邸は廃墟のそれを思わせる。いましも麗々しく飾られる途上の筈が、崩れ行くそれと肖ている。
生まれ出るばかりの廃墟。その空漠。
その中に、彼は未だ存る。周の本家に留められ、邸の裡に無為に存る。
戻ると告げた彼に、家長たる周忠は告げた。
今暫し、留まるがよいと。
それが何のゆえか。孫軍に加わった族子が、ひとり都に歩き来たった、その長旅を伯父として労る心持ちか。自侭に振る舞う稚(おさな)い者の、その賢しらなる心根を、都の風に洗い直せと思ったものか。
否、違う。己を留める伯父にある、その表情の固さ。そこに彼は、不穏を見た。
荒廃の乾いた風の中にある不穏。何かを伯父は、知っている。この都に存る董卓の権勢はいや増して、いまに帝に禅譲のことを云い立てる、その噂も耳に届く。
もはやその暴威は、留まる事を知らぬ―――そして禅譲が成されれば、やはり伯父は―――周の本家は、それに從うか。それを朝廷(おおやけ)と認めるか。
それを云い立てることは憚られる。不穏の裡の更なる不穏は、耳となり眼となり、無数に都に放たれて、密(ひそ)かにそれを何処ぞに告げれば、そのぶんだけの金子となる。
人を売る代価を欲(もと)める耳目は後を断たぬ。
それが故の荒廃か。風の角々しさか。何くわぬ顔で続けられる日々の営みの裏に、人の心は荒んで乾く。それが、都か。
それが、董卓の強大なる力の許にある、都の風か。
それを感じる彼は、無為の中に存る。未だ、己では何ひとつ成すことはならぬ。
かつて戦場にて戈を交えた相手の、その影のおちる場所に存り、己は未だ、兵を率いる事もままならぬ孩子(こども)でしかない。いわんや、離れてある苦境の友人を、佐(たす)ける力を引出す事すらできぬ。己の甘さを指摘され、唇を噛むばかりの黄口児(こども)でしかない。
携えた剣。それを託した者が討ち果たすこと叶わなかった敵。その懐に剣を携え、斬り捨てるか。それならば叶うか?
それも、ならぬ。
周の本家に縋り、援助を乞うことも、己ひとりが董卓を討つことも、亡き孫堅は望まない。生きてある孫策も望まない。
それは、判る。
己ひとりの力で何事かを成せると楽観した甘さ。それを思い知ったいたみは虚脱感と変わり、春の中、彼はその都に存って、焼き払われた洛陽よりもなお荒廃を感じる。
そして、春の四月にそれは起きた。
剣を携えた彼ならぬ、董卓の義子たる豪勇の将、呂布。
それが董卓を討ち果たし、彼は伯父の周忠が、何ゆえに自分に暫し留まれと告げたか、それを知った。
伯父は知っていたのだ。彼は董卓がもはや亡いという実感のわかぬまま、それを思う。
朝廷に存り、その中枢とも深く繋がる伯父が、知らぬ筈もない。暴虐を揮う董卓を除くその企みを、恐らくは知っていたのだ―――
けれど暴虐が去り、大義は復したか?
畏るるべき力が漸く失せて、長安に流れたのは安堵。けれど安堵の裏に、未だ不安は残る。そのことの呆気なさに怯えるような覚束ない静けさ。春の中、栄華をきわめんとした力はいちどきに散らされ、塗り替えられて、けれどそれで、何が変わった?刈り取られた栄華の下に、未だその根は地に蔓延(はびこ)って、誰もが眼を背けたままだ。
あれほどの兵馬が、ただ董卓の暴虐のゆえに戦を起こし、けれど逆賊と呼ばれた董卓を討ったのは、ただひとりの将。その栄華の極みを刈り取る者は、その栄華に近しくありながら、根をひとつにしなかった并州の豪勇。
なれど、未だ兵馬は外に存り、何も変わらぬが如く、都は不穏を孕んで静まりかえる。外はただ騒がしいまま、何かが見えぬところでで蠢いているようだ。
董卓の一族は悉く誅され、董卓そのひとの骸は逆臣として曝された。その肥大した腹に灯心を立て、火を灯せば、蓄えられた脂を吸って、熄(き)えることなく燃え続ける。その火が洛陽を灰塵に帰した火の末路だと、彼は思う。
ただ、これだけのことが―――これを為果せることこそ大義と謳い、どれほどの将兵が死に、世が騒いだか。そのために都すら燃え尽きて、築き上げられたものは瞬く間に崩れ去った。
これだけのことを欲(もと)めて、己は孫堅の軍に加わったのか?
ちがう。
何かが来ると、予感があった。
春の風の中に身震いし、骸の上に揺れる灯を見て、彼はただ、肌身放さず携えた剣の鞘を、きつく握り緊めていた。
これだけで了(お)わってなるものかと、その思いがあった。血の沸き立つ様な顫えの中に、それを思った。
この剣を己に託した孫堅は、あの洛陽で、廃墟の中に何を見たのか。廃墟を興した力を、どう見ていたのか。
孫策と己に向かい、何を告げていたのか。
廃墟を生む炎は、この手にも存る。未だ揮えぬ炎は、確かに存る。だがそれを何の為に揮うのか、それを未だ知らぬ。
己で知れと、知らねばただ、その炎が己が身の董卓に比べれば僅かしかない脂を焼きつくし、果敢(はか)なく熄えるのみであると、それが、あの日の、あの言葉か?
問いたくとも、それを問う事はできぬ。それを謂った方は、既におらぬのだから。
会いたい。
あの日、同じことばを聞いた、いまひとりに会いたい。
会って、今ここに存れば何を思うのか知りたい。
孫策に会いたいと、泣きたいほどに勁く思った。
けれど、それは叶わぬ。ここは長安。孫策は恐らくいまは、母親の待つ江都に存る。
かすかに息を吐けば、死臭が耐え難く漂った。
相手は父親の遺骸の許に。己はその敵であった者の屍(かばね)の許に。それぞれが今、何を思うのだろう。この春の空の下。江都の風は柔らかいだろうか。もっと色彩ゆたかだろうか。
今一度、空を仰いで嘆息すると、彼は曝された骸に背を向ける。
そして何気なく降ろした視線が、同じ炎を見ていたらしい視線を、期せずして捉えてしまった。
灰色の眸が、こちらも思いがけず交わった視線に驚きを見せ、その少年の眉に、ちらりと不快が表れかけた。それを皆まで見ぬうちに、彼は眼を逸らす。
あの日、ここに辿りついたときに擦れ違った、あの少年だった。
―――父親と共に存った、あの少年。不意に、胸の奥に何かが疼く。それを感じて、彼は唇を噛んだ。
向こうは、こちらをそれと認めたかどうか。判らぬし、確かめようとも思わなかった。忘れられて、どうということもない。
再びあの真鉄の視線に、己のそれを合せることもない。
ただ、その日に遭った少年が、また今この時に、同じところを向いて、同じものを見ていたことが、不思議と心を騒がせた。
その日に孫策を思い起こさせた少年が、孫策を思い起こした刹那に顕れたことに、苦笑を禁じ得ない。埒もないことだと思った。さして肖ている訳でもないというのに、何を感傷的になっているのかと。
苦笑したまま行き過ぎて、今度は肩が触合うこともない。
「若」と、その少年を呼ぶ声。父親ではない、若い声だった。あの日に一緒に歩いていた、あの背の高い連れだろうか。
振り向くこともしない背に、少年の声が響く。「わかった」と告げる声は酷く乾いて、けれど都の風の荒廃ではなく、その荒廃をこそ吹き攫うような、爽風のような印象があった。
「結局、ただそれだけのことか」と。「それでは、さして面白くもない」と。
北の訛をつよく残す少年の声は、そう続く。
まるで己の心が少年の声となって顕れたような錯覚のなか、彼は少年の笑い声が背後に遠ざかってゆくのを聞いていた。
その少年が、朝廷により西征将軍と任じられた、馬騰という男の息子であった事を知った時、既に少年は都になかった。
馬騰は{眉β}(び)の地を預けられ、その任地へ向かい、長安を後にした。命を与えられたのは、董卓が未だ存る折。しかし董卓が亡きあとも、朝廷から発せられた命はそのままに履行される。
それだけのことだ。それを聞いた彼は、そう思った。
そして、その命を享けた父と共に長安を発った少年は、あの日見た灯を思い出しただろうかと、不意に気になった。
爛熟に達(ゆ)かぬ前の糜爛。春は荒廃に爛れて、骸は腐り、崩れ行く。あの骸と共に崩れたものは何か。都は未だ変わらずある。不穏を留め、それでも未だ、都は都。
焼かれた洛陽に存った父子。
建てられた長安に存った父子。
思うことは、同じだったのであろうか。そして、そのいずれとも同じものを見た自分は、未だ此処に存る。
成す術もないままに、それを奇妙な符牒の様に感じ、せめて長安より発った少年が、己と孫策の知った悲嘆を知らねばよいと、そんな事を思った。
そんな風に感じるのは、やはり未だ、己の心が与えられた衝撃の深さから、立ち直れてはおらぬのかもしれぬと感じる。
その己の心の弱さを自嘲しながら、会いたいと、やはり思う。
自分は今、孫策に会いたいのだと。共有した時のなかで、亡きひとに同じ言葉を与えられた相手に、今の己の中に漣立つ不穏を打ち明けたいと、そう感じる。
何故、今の自分に、これほど不穏な衝動が沸き起こるのかと、そう―――
その不穏が世に映ったかの如く、都に兵馬が雪崩込んだのは、夏の六月。
董卓の率いた涼州の兵は、その仇を討たんと、暗殺に携わったものを悉く殺戳した。じっさいに董卓を手にかけた呂布は逃亡し、しかしそれでも嵐は収まらぬ。
長安に曝された董卓の骸は、涼州の兵によって棺に納められ、代わりに巷は屍に溢れた。老若男女を問わぬ虐殺。その上に、董卓暗殺の首謀者であるとされる、時の司徒・王允の骸が曝された。
覆る力が、更に覆る。
董卓に代わる暴虐が朝廷を恣にし、その暴虐は董卓を上回った。
都は、生きながら腐れるが如くに、廃墟と呼ぶに相応しく、更なる荒廃を纏う。
けれどそれは、未だ都。
「ただそれだけのこと」だと彼は思い、「ただそれだけのこと」を踏み躪る快楽を思った。
同時に、それを救う事を為果せる快楽をも思った。それをして讃えられる意味をも。
百官は未だ、形骸ばかりの朝廷に連なり、帝の側に顫えている。彼の存る、周の本家もまた然り。そしてその中で、彼は未だ、何を成すこともない、ただの黄口児(こども)でしかない。
その黄口児(こども)であることの勁さを、あの日の孫堅は自分に告げたのか。
敬っても畏れることはないと、恐らくはこの先に存る更なる乱世を、示したのか。
廃墟から玉璽を見出すが如く、凌辱の果てに残るもの、守るべきものを見極めろと、そう告げたのか。
「やはり、戻るか」
伯父に問われ、彼は肯首した。
今、この都を敢えて出ることは、逆に難い。だが、為果(しおお)せぬこともない。
「盧江へ―――江の滸へ」
伯父が己を留めたのは、敢えてこの事態に至るまで側に置けば、逆にここから動けぬとも思っての事かと、考えぬこともない。
都の朝廷に仕える本家を持ちながら、単身で、その朝廷の頂点たる者に歯向かう軍に身を投じた族子。それを、家をも破るものと、危ぶんだのかもしれぬ、と。
世が乱れれば、一族を散らし、いずれかが斃れても、誰かが残る様に仕向ける。それが一族を存続させる法途であり、家の祀りを絶やさぬ術だ。
だが、その分けた家を預るものが、不羈(ふき)の奔馬たれば、それを預けるに、余りに危うい。されば未だ温順な者を選び、危うき駒は側に置いて、道理を識るまでに馴らすべきと考えたのかもしれぬ。
だが、伯父たる周忠は、もはや彼を止めなかった。
「我が身は―――」
この年の終わりには、三公のいずれかに昇るであろう。そう、周忠は告げる。
三公。概ね名誉職であるとはいえ、司空・司徒・太尉というその職は、帝の側にあり、朝廷において最も高い位である。
その意味が判るかと、周忠は問うた。
彼は答えぬ。答えることが、できなかった。
この暴虐の世にあって、それでも朝廷と心中なさいますかと、己の一族の長たる者に、言葉を向けることはできなかった。
「どのような者が暴虐を揮おうと、帝は帝。漢朝は、未だ滅びぬ」
だが道理を識らぬ者が側にあれば、帝の側にあればあるほど、己が身は危うい。そう、周忠は続ける。
「だがしかし、この周家はさいごまで漢朝の臣。この部曲(私兵団)も、この身も、全て帝の盾たるべき」
いつまでも、この非道が続く筈も無い。
周忠が語る邸の外では、未だ陋巷は死尸に塗れ、集る蝿が、その怨嗟の声の如くに羽音をたてる。あるいは、未だ朽ちぬ屍肉を啖らい、命を繋ぐ者すら存る。
「涼州の兵に剋てずとも、もはや手をこまねいている訳にはゆかぬ」
ただ、そなたは盧江へ戻り、守るべきものを守るがよい。
その言葉に、彼は顔を上げた。
「伯父上、」
「孫破虜が告げた言葉を守れ。ただ、この儂等を歎かせる逆臣とはなるな」
誰が上に立とうと、帝が存る限り、我等はそこに從う。愚かしいとも見えるかもしれぬが、その道理すら弁えぬ若い義憤をこそ、我等は愚かと見る。
硬い声が、そう告げる。
「よいか、国の御為なれば、この本家はそなたに手をさしのべる。乞えば力を貸す。帝に仕える意志あらば、推挙もしよう」
だが、しかし。
周忠はそこで言葉を切り、冷えた眼差しの底に、燠火のごとく熾しい意志が、閃いた。
「だが、しかし。世の道理をも識らぬ青くさい義憤や、ありうべからざる野心は撥ねる。そう心得よ」
我が族子とて容赦はせぬ。儂は、赦さぬ。
伯父の声に、彼はただじっと眼を向け、唇を引き結ぶ。
今、孫家に与する事は赦さぬと、伯父は告げていた。
「都から離れてあれば、いずれかの力に靡かねばならぬ事もある。だがそれは一時の方便と心得よ」
否とも応とも、彼は答えぬ。
ただ頭を垂れ、それ以上の言葉は、周忠より発せられなかった。
そしてその言葉を噛み締める彼の胸中は、苦い。
己は既に、その江ちかくに存って、誰に与すべきかを定めている。あの洛陽の廃墟を知り、その中に何かを見出した朋と、近しくありたいと欲(のぞ)んでいる。
比(ひと)しく廃墟に佇んで、それを見た相手は、未だ自分を欲(のぞ)んでいる。その故に―――
彼は剣把を握り緊めた。
人の定めたものは、定める者が覆れば、容易く覆る。けれど多くがそれに信を寄せれば、ひとつの力ともなる。
これほどに容易く覆り行く都にあって、帝が帝たるままである、それが既に何かを示してはあるまいか?
荒れ狂う長安を後にする彼に、吹き寄せる風は、熱い。
その風の中に、彼は、あの夜、自分が朋と選んだ男が、国の宝たる玉璽を、高く天に投げた、それを思った。
それを手にして、咲(わら)った貌を、思い起こした。
時は、未だし。
長安より発した、あの馬騰という男は、都に狂う嵐に対し、軍を発し、破れたと聞いた。
けれどその軍は、更に西へ戻ったという。
あの灰色の眸の少年も、父と共に存るか?
あの長安で見た灯を、己が炎と照してみたか?
判らない。けれど―――
己の裡に存る炎は廃墟から何かを生むことは叶うか。
彼はそれを今一度思い、進む先へと貌を向けた。
その手には、託された直刀。それを掴む力は存る。揮う力は、未だない。
今はただ、それだけのことだと、そう思った。
Thu Nov 21 22:59:31 2002 Kate NiSee
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Index
「その長安で、周瑜と馬超は擦れ違ったことはなかったかナ」という安易な考えでとりかかってみますた。IFものにカテゴライズされるんでしょうか、これは。時系列がやや物語仕様で、精密さに欠けているのはご愛嬌(ヲイ)。
しかし周瑜さん、本人が遠く離れていれば素直にに「会いたい」と思ってしまう訳ですね。本人を眼の前にしても「会いたかった」なんて云ってくれそうにもないんですが。そりゃーまあ、当の相手が「俺、愛されてるし」と自信まんまんだったら、素直にソレを認めるのは肚に据えかねるのは判るけど!あいや「愛されてる」てのは変な意味でなく。ちなみに孫策は他の配下や親父の元部下にせよ「俺、愛されてるから」と臆面もなく思ってそうですが。彼の世界は「俺を好きな奴・俺のこと嫌ってる奴」という大別が成されているようで。
にしても、ずっと地の文で「周瑜」と記述せずに進行したら、途中で辛い事辛い事。「馬超」とも出てきませんが。どちらもまだ「名前を知られぬただの黄口児」ということでそういう書き方したんですが(って後書きでそれ云うと興醒めじゃん…)、視点が周瑜さんだった所為で、馬超さんあんまり「出ている」とは言い難いような。
とりあえず騰ぱぱと堅ぱぱが書けたのは楽しかったでつ。周忠も、実は書いててちょっと楽しかった。この周忠さん、のちに朱儁と一緒に曹陽で敗けて、李カクの虐殺に巻き込まれて死んでるみたいです。なんかね、周家の皆さんて「こうと決めたらテコでも動かん!」という気性があるような、そんな印象で。名前だけ出てきた周景大伯父といい。 |