<第十話>
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 低い樹が、風に揺れたかと思えた。
 だが、その物音に、離れの房の中に存った周子虞はふと顔を上げ、手を空に泳がせる。そこに跫音もなく近付いた婢が手を添えた。
 そのまま立ち上がり、周子虞は婢に手を預けたまま、房の外へ出ると、夜明かりの庭に降りて行く。そこに、言葉が交わされることもない。絶妙の呼吸を心得た婢は、盲目の主を止める事もせず、怪訝を見せることもなく、ただそれに影を添わせる様に從って存る。
 庭に存る今ひとりの人影が、その容子を認め、その異相とも云えるいかつい顔に苦笑を浮かべた。
「なまじの用心棒よりゃ役に立ちそうだな、子虞殿」
 子烈であった。その声に、周子虞は唇許に笑みを浮かべ、子烈どの、と呼び掛ける。
「気配を読めても、ただそれだけだ。役には立たぬ」
 今も、子烈どのであると思わねば、房に篭って出ることはしなかった。そう彼は続け、私より、よほど裨児のほうが役に立つ、と云い添える。
「そうかもしれねえが、この時に主人の側を離れるようなら、あんたに付けられてやしねえさ」
 その子烈の言葉に、子虞は否定も肯定も返すことはない。ただ、僅かに頭を下げ、愚弟が手数をかける、と告げた。
「何、大した事じゃねえさ。それより、騒ぎになっても、餓鬼どもと一緒に、くれぐれも外に出るなと、それを伝えに」
「やはり、騒ぎになりそうか、」
 微笑が苦笑にかわり、見えぬ眼の代わりに耳を澄ませる様に、子虞の頤が僅かに持ち上げられた。
「邸の外で、騒ぎを食い止められりゃいいと思ってる」
 子烈はそう応えた。食い止めてみせる、という自信がその声の裏側に垣間見え、子虞は頷くと、今一度「すまぬ」と頭を下げる。
 謐かに、陽は暮れていた。賊も未だ息を潜めてなりゆきを伺っているのか、それらしい人影は見えぬ。先に蒋子翼が役所に声をかけたらしいが、相手が動かねば捕える事もできかねるのか、役人らしき影もない。
「誰かが忍び込めそうな場所は、あらかた押えてある」
 子烈の言葉に、子虞はくすりと笑い声を立てた。
「子烈どのが、門をつかわずに出入りする場所、そして小佚がひそかに家を抜け出す場所」
「その通りだ」
 悪怯れずに子烈は応え、子虞は、ならば安心だと穏やかに囁いた。
「子烈どのなら、その辺りを熟知している。加えて、」
 小佚がこっそりと戻って来るところを、捕えてくれれば尚ありがたい。
 そう続ける周家の長子に、子烈はにやりと笑ってみせた。
「俺も、そうしたいところだ」
 そちらを捕えたら、役人ではなく、子虞どのの前に引っ立てる故、宜しく仕置きを希いたいと続けられ、周子虞は全くだ、と呟く。
「己ひとりの悪戯なら兎も角、なんとも人騒がせな」
「後世おそるべしだな。やはりあの佚どの、無理に仕官をさせたところで、」
 退屈に倦んで、とんでもない事をしでかすに違いない。無責任に子烈は笑い、それに子虞はふと表情を曇らせた。
「子虞どの?」
 その微妙な表情の変化を、夜闇の中でも見抜いたか。子烈は怪訝そうに眉を潜め、子虞はそれに首を横に振った。
「いや、ならばいっそ、」
 この手元にずっと置いておきたいところだが、それも叶うまい。
 子虞は低く呟き、子烈は一瞬その言葉に、更に訝しげな表情を見せたが、しかし気を取り直した様に、肩を竦め、揶揄う様に云い放った。
「なるほど、相変わらずの兄莫迦ぶりだ」
「我ながら、そう思う」
 子虞も何事もなかったように、そう応える。
 だが、冗談に紛らせたような言葉の裏に、この周子虞が、どこかしら不穏とも云える感情の揺れを見せたように思われたか。子烈は、敢えてそこから眼を背ける様に、明るい声を出した。
「まあ、俺はこの邸の周りにいる。何かあったら、大声でも出してくれ」
 子虞殿がそれを憚るなら、餓鬼共に騒がせてもいい。飛んででも駆けつける。
 そう告げる子烈に、心得たと告げると、子虞は再び、眼ではない何かで周囲を伺う如くの仕草を見せた。
「裨児、」
 謐かに、かれは己の手を預る婢に告げる。
「水を準備させておけ。火が、出るやもしれぬ」
 そうなれば拡げてはならぬ。ここ暫く、晴れていた。いったん火の手があがれば、回るのは早い。
 淡々と告げる声に、婢は動じた風もなかった。
「承知いたしました」
 いっそ、それを端で聞いた子烈の方が、ぎくりとした様な表情を見せる。見えておらぬ筈の子虞は、それに気付いたか。
「念の為ということだ。大事には、至るまい。子烈どのもいることだ」
 そう続けられ、子烈は思わず、一瞬呑み込んだ息を、大きく吐き出した。
「子虞どののそういう処が、見えている奴よりおっかねえんだがな」
 俺が賊なら、あんたのいる家は狙わねえ。いや、狙えねえ。
 その言葉に、子虞は微笑って、買いかぶりだ、と至極穏やかに続けた。
 
 その場所は見るからに胡散臭い。まず、土地の者ならば、どんな貧者でも近付かぬ。
 その土地に縁のない流れ者や、泊まるべき場所を持たぬ旅人ばかりが寄り集まる。芸を売る者も商人も紛れてはいるが、それらが宿泊のあてを持たぬという事は、相当に格が低いか、あやしげな者であるということを示す。また、病者や老人がいるのは、身寄りを失ったか、もしくは身寄りに棄てられたか。
 ともかくも、まともな者ならあまり近付きたがらぬ。そういう場所である。
 それゆえに、何者が混じろうと、怪しまれる事はない。誰がそこから消えようと、意に介する者もないだろう。
 そして、そこに子供が二人ばかり増えたところで、気に留める者もまた、存在しない。
 子供というには、やや育ち過ぎているが、それでも、その雑人溜まりと呼ばれる場所に屯する者には、大した差ではなかった。事実、彼等は誰からも距離をおいて息を潜めていたが、それにちらりと眼を向けるものはあっても、注視する者も、いわんや声を掛ける者もない。
 その二人の片割れである小佚が、ここにいる全てが怪しく見える、と傍らの伯符にのみ聞こえる程の声で呟いたのも、むべなるかな、というべきか。
「そこに溜まってた全員が賊だったなんて話も、ざらにあるぜ」
 揶揄うように伯符は呟き、ちらりと小佚に眼を向けた。
「流石に、こんなところにまでは、紛れ込んだ事がねえだろ」
 まあ普通は、その土地に住む者なら近付かねえ。伯符はそう続ける。
 だからこそ、余処者が溜まる。そして、その土地から何らかの理由で「はずされた」者が溜まる。その土地に存りながら、その土地の内部として意識されぬ場所、住む者が近付いてはならぬと、ほんの子供の頃から諭される場所だ。それが雑人溜まりだと、伯符は謂う。
「伯符は、こういう処に泊まったことが、あるのか?」
 驚いた様に訊ねられ、まあな、と彼は応える。
「さして金を持ってる訳でもねえし。さいしょはおっかなかったが、慣れちまえば大した事でもねえ」
 実のところ、路銀というべきものはそれなりに持たされてはいたが、敢えてそういう処に紛れ込んでみようという気を起こすのが、孫伯符の彼らしいところである。
 そして、こういう場所に紛れ込んだが故に、聞こえてくる噂というものもあった。都で今、何が起こっているか。どこかで起こった小さな戦ともいえぬ乱が、どんな余波を国のそこかしこに齎らしているのか。
 ついでに、己の父である孫堅の噂とやらも耳にして、何とも複雑な心境に陥ったこともある。端で見ているよりずっと、己の父の存在が大きく感じられ、あの糞親父がそんなご大層なものかよ、と幾らか面映ゆい思いと、それに引き換え自分は、父が名を挙げた年に近くなって未だこれかよ、という焦りにも似た思いが込上げることも、あった。
 だが、今はそれよりも、目先の問題である。
 また腹が減ってきた、と呟く伯符に、小佚が苦笑を向けた。
「先刻、一応喰っただろうが」
 ここに来るまでに僅かな食物を手に入れて、けれどそれは、一日動き回った少年の空腹を満たすには至らない量である。
「腹を鳴らさないように、努力はしておく」
 後でちゃんと、何か喰わせろと続ける伯符に、家に戻ったらな、と小佚は応え、その声にふと、細い女の声が重なった。
 夜だというのにふらりと表れ、その雑人溜まりにうずくまる者の顔を、品定めするように見て歩く女は、時折どこぞに流眄(ながしめ)を送り、立ち止まってうたっている。

 ――彼狡童兮 不与我言兮(このお兄さん、私とあそんでくれないのね)
 ――維子之故 使我不能餐兮(あんたのせいで、私はたまらない思いをしてるのに)

 あからさまな誘引の歌に、常なら応えるものはあるべきか。仕草といい、その眼といい、その女が流れてきた遊女である事は伺える。もしくは、身をひさぐことをも生業とする、流れの巫女(ふじょ)でもあるのだろうか。その女に、誰かが揶揄う様な声をかけたらしい。女は立ち止まり、婀娜めいたしなをつくって見せたが、しかし冷やかしであったのか、それとも金を持たぬままに逆に女に誘いをかけたものか。「この、しみったれ!」という鋭い声と共に、女はそちらに背を向ける。
 その別の方向から、誰かが女に近寄ろうとした。しかし、誰が誘われようと、ふらふらと物影に隠れようと意に介さぬ筈のこの界隈で、その男を止める動きがある。
 まるで叱り付けられたような動きで、立ち上がった男が残念そうに、もと踞っていた辺りへと戻っていった。
 その動きに眼を止めた小佚が、僅かに身動いだ。
「あのあたりだ」
 あのあたりに溜まっているのが、多分、今から動く連中だ。
 そう囁く小佚に、伯符は頷く。しかし、頷きながらも、冗談混じりに囁き返す。
「単に、好みじゃねえだけかもしれねえけどな」
「いや、多分…」
 うたっていたのは、詩経のなかにあるうただ。それを知っているということは、流れ者ではあるけれど「本職」だろうと、小佚は謂った。それなりに教養らしきもののあった伎女か、その辺りの術に長けた巫女くずれだろうと。
「そういうのが、肆(みせ)でないところで誘うのは珍しい。それに乗らないのは、乗れない訳がある」
 一度は誘いに乗り掛けたということは、手持ちはそれなりにあるんだろう。でも、仲間が止めたということは、そんな暇はないってことだ。
「詩経ねえ、」
 よく知ってるな、と呟く伯符に、小佚はくすりと笑った。
「俺も、全部諳んじてなどいない。実は、誘いの歌だって、俺に琴を教えた娼妓が教えてくれた」
「それは、母上のことを云ってるんじゃねえよな」
「あたりまえだ。母上の眼を盗んで行った先で、」
「琴を教えて貰っただけじゃねえだろ」
「さあな」
「この狡童(遊び人)、ってところか?俺と年も変わらねえ癖して」
「誘われたのさ。今はいいだろ、そんな事」
 それより、連中が動くぞ、と小佚は腰を浮かせた。殴られたところが、今更の様に疼くのか、微かに顔を顰めたのを察し、伯符は自分の持っていた剣を、小佚に差し出す。
「俺は素手のほうが、やりやすい」
 お前が使え、とさりげなく庇われた形で、それを悟った小佚は一瞬、それを拒もうとする気配を見せた。しかし、やはり意地を張っている場合ではないのだと悟ったか、無言で頷き、剣を受け取る。
「ここじゃ、拙い。少し、後をつけてみよう」
 伯符はそう鋭く囁き、闇の中でその相手の動きを伺った。
 いちどきには動かず、何人か間をおいて、ばらばらと散ってゆく。最初に動いたのが頭か、それとも最後に残る奴がそうか。
 見極めることまでは、できなかった。だが、行く先は誰も同じ筈だ。
「先に誘われ掛けた奴を狙う」
 一番手っ取り早そうだ、と小佚は囁き、伯符もまたそれに頷いた。
 そして、その男が動くと共に、そろりと立ち上がり、何くわぬ顔でその場を離れようとしたとき、それは起こった。
「あら、いい男―――」
 先の女が、不意に彼等を見て、声を挙げたのだ。
 いかに汚れていたところで、常からこの界隈に溜まる者とは、やはり何かが違ったものか。それとも、未だ二十にも届かぬ少年の二人連れが珍しかったものか。
 さもありなん。未だこどもと言える年ではあれど、どちらもどちらで、彼等の容姿は水際立っているといえる。踞っている間はまだよし、それが立ち上がれば、いやがおうにも眼を惹くことになる。客を品定めする女の眼ならば、尚のこと。
「この狡童―――面のいいのも、善し悪しだな」
 思わず小佚に顔を顰めてみせた伯符に、小佚が、こちらは表情ひとつ変えずに反論した。
「俺だけのせいか?それより、拙いな」
 顔を見られた、と小佚が囁く。未だその場に残っていた者や、先に誘いに乗り掛けた男が、闇の中から彼等に眼を向けていた。
 暫く間を置いて、視線は外される。しかし、その中に小佚の顔を識っていたものがいるらしい気配がある。
 不穏な空気が流れた。立ち去り掛けた男が一旦仲間の側に戻ろうとする。ちっ、と舌打ちした小佚が先に動いた。
 踞る者をかきわけ、あるいは飛び越え、素速くその男に近付くと、脇から腕を掴んで微笑みかけた。
 盛大に痣をつけているとはいえ、元の造作の端正な事は事実である。だがそこに浮んだ微笑に、腕を捕えられた男は動きを止めた。
 端で見ていた伯符が、一瞬背筋につめたいものが走った程の、恫喝を込めた眼差しが、男の上にひたと向けられている。笑みの形はうつくしくとも、その眼が、そして明らかな敵意が顕れた顔は、美しいというよりもむしろ、可恐しくすらあった。
 だが男の腕を掴んだまま、小佚はふと顔を挙げ、未だ動かずなりゆきを見守っている男たちの方へと眼を向ける。
――『子不我思 豈無他人 狂童之狂也且』
 先に女がしたような節回しで、揶揄う様にうたいかけ、くすりと笑うと男の腕を掴んだまま、身を翻す。一瞬逃れようとした男の腕を、逆から伯符が捕え、走るぞ、と囁いた。
 頷いた小佚は、唇許には笑みをうかべたまま、しかし眼には剣呑とすら云える光を宿し、足早に男を引き摺ってゆく。背後から、やはり追ってくる跫音と、気配があった。
「大胆にも程があるぜ」
 苦笑する伯符に、小佚はこともなげに応えた。
「大胆なのは、俺じゃない。いにしえの鄭国の風だ」
 先に女が口遊んだのも、小佚が口の端に乗せたのも、詩経のなかにあるうたではあるが、昔「鄭」と呼ばれた土地のものである。数あるうたの中でも奔放な誘いの詞(ことば)の多い鄭風で、先に小佚が撰んだそれは、来ぬ男を嘲弄する女の誘いの歌であった。
『あたしが厭ならいいのよ?あんたひとりが男じゃなし。ねえ、このろくでなし』
 つまりは、そういう意味である。
 その意味まで賊が判ったか否かは判らない。が、とりあえずこの郎子(坊や)が、自分たちを挑発したことは判ったであろう。
 やれるものならやってみろ。そう云われた賊が、次に何をするか。
「臭小児(くそがき)!お前らだけで敵うと思うか!」
 腕を捕えられた男はふたりを嘲笑う様な笑みを見せ、それに応えたのは、捕えた腕が折れる程に手に力を込めた伯符のほうだった。
「やってみなきゃ、判らねェだろ?」
 文字通り、掴まれた腕がぎしりと軋み、それに男が引き攣った悲鳴を挙げるのと、小佚が息を呑んだのは同時だった。
「伯符?!」
「小佚、剣を抜け!」
 雑人溜まりからも離れた場所で、鈍い音と、更なる悲鳴とが響き、二人の少年の間に挟まれるように引き摺られていた男が、地面に頽れた。

 大剣は未だ背に負ったまま、子烈は未だ、周家の塀のうちに存った。
 そこから僅かに離れた場所が、崩れ掛けている。身のかるい者なら、そこを乗り越えて入る事は出来る。しかし、その箇所のみならず、辺りの動きを伺う様に息を潜め、しかし未だ、その表情にけわしさはない。いっそ、暢気とすらいえる。
 その彼の許に、不意に近付く気配があった。だが、子烈は動かない。その気配は小柄な男の影となり、そのまま子烈に近付いて、囁いた。
「陳哥(陳の兄貴)、」
 先に子烈の家で、女に化けて伯符を驚かせた、あの眼の大きな男であった。その男が、ぎょろりと闇夜に眼を光らせ、子烈の傍らに屈み込む。
「そろそろ、動くぜ。大分散ってやがるが、間違いねえ」
 こっちの気配を伺ってやがる。そう続ける男に、そうか、と子烈は頷いた。
「なら、先手を打ってやるか」
 騒ぎになりゃ、役人も動く。そうなる前に、纏めて突出せるようにしちまうか、と子烈は続け、そして僅かにその巨躯を屈めると、男に囁いた。
「お前は、佚どのを探せ。あの佚どののことだ」
 どんな事になっていようと、騒ぎの真ん中に突っ込んで来るに決まってる。そう呟いた子烈に男は吹出し、違いねえ、と頷くと、また来たときと同じく、軽く身を翻して闇の中に奔ってゆく。
 それとは逆の方向に、ゆったりと子烈は脚を運んだ。夜は更け、寝静まる空気は、未だ騒ぎの片鱗すら見せぬ。
 その中に、物音がひびいた。何かがぶつかりあう音に、ごく僅かな人の声が混じる。
「来たか、」
 呟くと同時に、夜の昏さが僅かに明るみ、そこから煙が上がるのが見えた。
「やっぱり、火をかけて来やがった」
 子虞どのは慧眼だ、と呟いて、子烈はその煙とは違う方へと駆出した。火の手のあがった側には、別に人数を割いてある。その火に気を取られた隙に、違うところから雪崩込んで来る連中がいるはずだ。
「陳哥、」
 更にばらばらと、子烈の側に駆寄る気配があり、素速くその頭数を数えると、子烈は数人のみを己の側に留め、あとは火のあがった側を手伝うようにと指図を与える。
「気ぃ抜くな。こっちに来る連中のほうが、多分、手強い」
 ひとりのこらず、捕まえろ。できなきゃ仕方ねえ、仕留めろ。
 そう告げられ、集まった男たちの顔に、それぞれに緊張が表れる。
「いいか、家人に指いっぽん触れさせるな。お前らだって、普段から荒事は慣れっこだろ?」
 そりゃそうだ、と、どう見ても堅気には見えぬ男たちの若い顔に、笑みが浮んだ。
「こういう時に株を上げねえと、ただの破落戸(ゴロツキ)のまんまだぜ」
 周家に礼を云われるなんざ、この先ねえことだ。心してかかれよ。
 そう告げる子烈の声は、相変わらずの暢気さを湛え、それに異口同音に応える男たちは、子烈の前を固める様に、そこにいるであろう賊に向かって、一斉に走り出した。
 子烈もまた負った剣を外し、いつでも抜けるように手に執ると、ちらりと周家の離れに眼を向ける。
 灯りは落とされており、寝静まっているようにも見える。だがそちらを見た子烈の眉が微かに動き、唇許に苦笑が浮んだ。
 周子虞も、この騒ぎには気付いているだろう。
「子虞どのは、佚どのと違い、己から動くことはするまいが、」
 向こうに火の粉がかからんようにせねばならんな、と子烈はひとりごち、そして思う。
 小佚が戻ったら、有無を云わせず、兄上を守れと告げて、あちらに放り込めればよいのだが、と。
 
 母上はどうなされている、と問い掛けた周子虞に、裨児がこたえる。
「起きてはおられます。ですが、太々(奥様)が出られても邪魔なばかりであろうと仰せられ」
 蒋家の郎子(わかさま)に全てを任せ、静かになさっておいでです。
 その応えに、子虞は立ち上がり、けれど手を差し伸べる裨児を、今度はかるく遮った。
 怪訝そうな表情を見せる婢に、大事無い、と彼は告げ、衣擦れの音と共に房(部屋)の外へ歩き出す。
 騒ぎは、この離れにも伝わっていた。やはり火が出たか、と呟いた子虞は、灯りも灯さぬ闇の中、まるでその布に蓋われた眼が見えているかの如くの身のこなしで歩いてゆく。否、見えているものでも、よほど夜目の利くものでなければ、かようには歩けまい。
 しかし裨児はそれも慣れたことであるのか、ただ常に人目を憚るように介添えをさせている己を遮った主人の容子にのみ、腑に落ちぬ風情を見せたが、やはり何を問うでもなく、その背後に従っている。
「盗るものを盗ってより火を放つならともかく、先に火をかけて来るとなると、」
 そちらに注意を惹きたいのだろう。さほど拡がるような、火のかけかたはしていまい。子虞はそう告げ、子供たちを匿った房(へや)の方へと歩いていった。
 満腹になるまで食べられる事など、少ない子供たちである。食べてよいと促されてすら、怯えたような風情をみせたが、それでもいつしか与えられた食事を平らげ、疲れていたものか、既に眠り込む子すらあった。
 しかし、子虞がその房(部屋)に入れば、この騒ぎを聞きつけたものか、騒がぬまでも、眠っている子供はいない。身を寄せ合うようにして、息をころして、外の気配を伺っている。
 幼いながらも、己の身は己で守ってきた子供たちである。この騒ぎになお、眠り込む鈍さのある子はいない。それを哀れと思える己は、未だ恵まれてあるのだろうな、と子虞は裨児にのみ聞こえる声で呟き、そして不意に、その表情を険しくした。
「ひとり、足りない」
 響いた声に、子供たちが顔を見合せる。暗い屋内で、眼の見えぬ彼が、どうしてそれが判るのかと云わぬばかりだ。たとえ灯りをつけていたとしても、誰かが足りぬなどと、この大家の人間が判るとは思わなかったのだろう。
「…ひとり、足りない」
 咎める様なひびきはない。だが、僅かに声が、鋭さを添えた。それに怯えたように、身を竦めた子もある。その気配すら判るのか、子虞ははっとした様な風情で、子供たちの前に屈み込んだ。
「済まない。怒ってはいないのだが、しかし、」
 ここから出ては危ないから、と云い添えた子虞の唇許には宥める様な微笑があり、近くにいた子供にはそれが見えたものか。
 おずおずと、それに応える声があった。まだ小さい女の子であろうか。
「にいちゃんは、わかさまを探すって、」
 その声を制するように、別の子供の声が重なった。
「こら、阿妍!」
「阿妍…阿妍というのかい?」
 子虞は呼び掛ける。
「心配なのだろう。今、外に出ては危ないから、だから、」
 小佚の友人に何かあっては、この私も困る。そう、子虞は穏やかに続ける。
「連れ戻しに行ってやろう」
 その言葉に、背後の裨児が眉を潜めた。子供たちにせよ、この眼の見えぬ青年がどうやって、という気配がある。
 だが、子虞の声には虚勢らしき影はない。
「大丈夫」
 そう告げられれば、本当に大丈夫であるのだろうという、そういう安心感すら覚えさせる。
「貢にいちゃんは…」
 先に、阿妍という子を制した声が、躊躇いがちに続いた。
「わかさまが捕まったら、自分のせいだから。だから、おれたちにはここで、じっとしてろって。貢にいちゃんは、わかさまを探すからって」
「その子は、先に玉環を持っていた、あの子だね?」
「判るの?」
 驚いて訊ねる子供に、立ち上がりながら、子虞は頷いた。
「きみたちを纏めていた子なのだろう。とても、頼りになる子のようだった」
 小佚の友人には勿体無いほどだ、と彼は続け、それに阿妍という女の子のものらしい、無邪気な声が重なる。
「見えるの?本当は見えてるんでしょ?」
 だって、すぐに、にいちゃんがいない事が判ったもの。そう告げる声に、莫迦、目隠ししてるじゃねえか、という声が重なる。けれど、そう告げる子の声もまた不審を隠し果せてはいない。
 怯えるというよりは、素直に驚いているらしい気配が伝わり、それに周子虞はこたえた。
「私には、判る」
 心配はいらない。ここで、待っているように。
 そう応えを曖昧にはぐらかすように告げて、彼は部屋を離れ、そこではじめて、表情に険しさが表れた。
「大少爺(わかさま)…」
 自分に呼び掛ける裨児の声に、彼はぽつりと呟いた。
「子烈どのがいるであろう場所に、案内せよ」
 無理はせぬ、という声に、裨児は無言で手を差し伸べる。今度はその手を取り、無言で導かれながら、子虞はいま一方の手で目元を押え、溜息を吐いた。
「裨児、」
 呼び掛けられ、その婢は子虞の顔に眼を向けた。
「裨児、たのむ」
 万一のときは、と呟いて言葉を切った主人に、裨児は応える。
「わかっております」
 お側におりますれば、という言葉に、子虞はちらりと唇許に微苦笑を刷き、たのむぞ、と重ねて云い添えた。
 
 往来を、二人の少年が走っている。その荒い呼吸が、跫音に紛れて響いていた。
 いくつか小路を過ぎたところで跫音は止まり、汗を拭うように腕を動かしたのは、伯符である。その手の甲に、擦り傷が見えた。だがその他は、返り血ばかりであるのか、汚れてはいても、衣が解れた気配すらない。
「向こうは、追っちゃ来ねえな」
 そう呟く伯符に、未だ剣把をきつく握り緊めたまま、小佚が頷く。それに伯符は眼を向け、幾分意地悪い声音で問い掛けた。
「何故、抜かなかった」
 剣は鞘から鍔にかけて紐が巻かれており、それが解かれた気配もない。つまり、小佚はその鞘のまま、相手を殴り倒したのである。
「判らない」
 呟いた声が、幾らかうわずっていた。そして大きく息を吐くと、殆ど独語するように、天を仰いで呟く。
「あの男、生きているかな」
「知った事かよ」
 伯符は吐き棄て、そしてこともなげに続ける。
「まァ、生きてたところで、歯は生えて来ねえし、片腕は使い物にならねえけどな」
 あまりにあっさりとそれを応えられ、小佚は息を呑み、伯符を振返る。
「何だよ、その面は」
 俺が怖ェのか。そう問い掛ける声に、応えはない。ただ、剣把を握り緊めた手に、力が込められる。
 剣を抜け。幾度もそう叫ばれたにも関わらず、小佚はそれをできなかった。抜けば、相手を斬ることになる。相手は賊だ。自分も狙われている。倒さねばならぬ。それが判ってなお、相手を殴り倒す事しかできなかった。
 幸いにして、こども二人と侮った相手は悉く叩き伏せられ、暫くは動けぬようである。その中で、最初に捕え、肩を外した男を捕まえた伯符は、賊の頭がどこに動いたのか聞き出そうとした。
 当然ながら、答える筈もない。そればかりか、助けを呼びかねない風情があった。近くに仲間はいないようではあったが、万が一の事がある。伯符はその男の口を塞ぎ、掴んだ腕を背後から捩り上げた。
 その時響いた音に、小佚はその男の腕が折れたと、はっきりと判った。同時に、己と賭け勝負をした折に、あの木剣を叩き折った伯符の膂力をも思い起こす。あの力があれば、その程度のことは軽く為果せるだろうと、そう思えた。
 それでもなお、苦痛にのたうち、腕を押えた男は、悲鳴をあげ、呷いてはいたが、口を割らなかった。割る余裕すら失われたというべきか。その恐慌状態の男を見降ろし、正気づけてやるか、と呟いた伯符は、帯に挟んでいたらしい小刀を取り出す。
 何をする気か、問う暇もなかった。地面に倒れた男の襟を掴んだ彼は、無雑作にその口を開けさせ、小刀の刃先を中に滑らせ、厭な音が響いた。
 歯の隙間に刃を捩じ込み、それを回したのだ。歯を折られた男は、血を滴らせ、口を押えて転げ回り、それを見降ろす伯符の横顔に動揺はない。
 あと1本追ってやったら、訊いちゃいねえ前科まで吐くかな、と呟いた声すら、その辺りの草でも抜いた程度の軽さしか持たぬ。興奮の色など、どこにもない。怯えの色もない。
 そして、それが故に、言葉が脅しではないと悟ったか。男は、頭領は既に周家に向かっていると、それを告げた。どの方角から狙っているか、それをも告げた。周家に先に向かった人数も。不明瞭ながらも、必死に訴え、殺さないでくれ、と哀願した。
「どうして、あんなことができるんだ」
 責めたつもりはなかった。ただ、それを云う小佚を、伯符は切れ長の眼の端で、ちらりと睨む。
「仲間を呼ばれて、それでまだ鞘ごと殴って済ませられると思うのか?」
 手っとり早く訊く事訊いて、こっちも動かねえといけねえだろ。そう、伯符は答える。
「俺は素手なんだ。殴り倒すにも限界ってもんがある」
 もたもたしてる暇はねえだろ。そう、伯符は小佚に向き直った。
「どうして、なんて考えてる暇もねえ。何も、考えてねえ。あいつは賊で、俺はそれをどうにかする側にいる。それだけだ」
「伯符、」
「ああいう手合いは、頬ゲタ張ったところで、云う事はいはい聞いてくれるほど、甘かねェんだよ。腰が抜けるほど怖い思いか、痛ェ思いをさせてやりゃいい」
 口の中ってのは鍛えようがねえからな。そこに刃突っ込まれて、血が出りゃ怖い。歯が引っこ抜かれるのも、頭に響くぶん、怖い。大の男でも大概は、そうだ。
 そう、伯符は淡々と告げ、小佚はふと唇を噛み、項垂れる。
「伯符と俺と、何が違うのか、判らない。でも、伯符はそれが出来て、俺は鞘から剣を抜くことをすら躊躇った」
 甘いと思うか。そう、己を愧じるように呟く小佚に、伯符は軽く眉を上げる。
「伯符も、俺と同じ、15の子供だと思う。いいやつだとも、思う。でも、」
 頭で判っていても、俺はそれを行動にうつせない。うつせなかった。
 答えぬ伯符に続ける小佚の声に、苦い色が滲む。
「見ていて、躰が顫えた。たぶん、可恐しかったんだと思う」
 軽蔑するか。
 小佚はそう搾り出し、伯符はそれにくすりと笑った。
「まだ、俺が怖ェか?」
 そう、答えのかわりに問を投げる声に、小佚は弾かれたように顔を上げる。
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ」
 慌てて答える小佚に、伯符は肩を竦め、なら構うこたねえ、とその腕を掴んだ。
「お前ん家に行くぜ。あれだけで終わりならいいが、あれよりもっと盛大な騒ぎになってる筈だ」
「伯符、」
「俺は、」
 その剣を、まだ抜けないお前だから、気にいってる。
 続いた伯符の声に小佚は瞬きし、どういう意味だと問い掛けた。だが、返されるのは酷くたのしげな笑いばかりで、焦れたように、彼は相手に呼び掛ける。
「伯符、いったい」
 だがその声に、聞き覚えのある声が重なった。
「佚どの!ようやっと見付かった!」
 はっとして声の方に顔を向ける二人の前に、小柄な影が駆寄ってくる。
「すぐに戻れ!陳哥(陳の兄貴)が呼んでる!」
 賊のやつら、火を点けやがった。そう続く声に、二人は顔を見合せ、それまでの遣り取りを忘れたように真剣な表情で、駆出した。



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