<第二十話>
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 その、出立の日。
 朝はやくに周家を発つ孫文台は、そこから、舒城の外に留め置いた手勢と合流し、いったん長沙へと赴くのだと云う。
 伯海と、祖茂。そして伯符を伴い、周家の門を出る姿を見送るのは、周子虞と、小佚、そして次男の孫権に手を引かれた、三男の孫翊である。女主である蒋氏と、孫文台の妻である呉氏、そして残る子供たちには、邸の内で既に挨拶を済ませていた。
 「ご武運を」と告げる呉氏は、もはや己のもとを離れる夫を見送ることに慣れたものか、その寂寥を面に顕すことはない。寧ろ、微笑と共に、孫家の子供たちを連れて房(部屋)より出た蒋氏の背後で、その妻の躬を、ほとんど力任せと云わんばかりに抱き緊めた夫の方にこそ、微笑ましい未練の色は見えたかもしれぬ。
 そして、馬上よりいちど、小佚を振向いた伯符は、何かをいいたげな眼を向けたが、やはり言葉はなかった。「またな」という素っ気無いともいえる言葉のみを残し、小佚もまた「ああ」としか応えることはない。
 同じ館に起居すれば、幾度も貌を合せ、言葉を交わすこともあった。しかし、互いが互いに、云うべき事に触れぬように、当たり障りのない会話ばかりが存り、また必ず弟妹の誰かを伴った伯符は、敢えて互いにとっては深刻とも言える話題を切出せぬようにしている気味もあった。
 もしや、それが伯符なりの配慮なのかもしれぬと思う。「来い」という言葉にたいするこたえを、切出せぬ小佚を慮(おもんぱか)ったものであるのやもしれぬ。そう、小佚は感じている。
 しかし。
 その夜まで、何事もなかったかの如く、家人の前では平静に振る舞い果せた小佚は、邸のうちの気配が静まる頃合を見計らい、そっと旅装を整えていた。
 そして、もはや灯りも落ちた、兄の房(へや)、母の房(へや)を伺うと、意を決したように、己の部屋の窓を跨ぎ、庭へと忍び出た。


  
「伯符の友人て云うにゃ、大人しそうな、品のいい郎子(坊っちゃん)だと思ったさ」
 いったん宿営地に着いた伯海は、幕舎の外で、祖茂にそう語った。
「で、その伯符どのは、どうしたよ」
 問い掛ける祖茂に、もう寝たと、伯海はにやりと笑った。
「追い掛けて貰えるんじゃねェかって、ちったぁ期待してたんだろ」
 ありゃフテ寝だな、と続ける伯海に、祖茂は遠慮のない言葉を向ける。
「なるほど、孫家の血筋らしい。自惚れたもんだ」
「孫家の血筋って云われちゃぁ、俺まで入っちまう」
 孫文台の息子だからだろ、と反論を向けた伯海に、酷ェ言いようだと、己を棚に上げた祖茂が笑い声を立てた。
 しかしなァ、と笑いながらも祖茂は、己の顎を撫で、あとにした舒城のほうに眼を向ける。
「あの周家の郎子(わかさま)も、あれで大人しく引っ込むタマかねェ」
 親父殿そっくりの面構えだった。あれが、そんなに聞き分けがいい性質たァ思えねえと、彼は続け、伯海はかるく、その言葉に片方の眉を上げる。
「面だけじゃなく、気性も瓜二つだってェ話だ」
「周家の先代ってのは、そんな悍馬みてェな御方だったのか?」
「悍馬ッてぇ類いじゃねェが」
 まァ、あの孫文台とウマが合ったってんだ。ただの名家の郎子(坊ン)とは少し違ってたなァ、と祖茂は更に、苦笑を深める。
 その祖茂の表情に、そいつァ楽しみだな、と伯海は喉奥で笑った。
「大人しそうにゃぁ取り繕ってたが、暫く見てて判ったさ。あァ、伯符に振り回されて、ブッ壊れない程度にゃぁ、頑丈に出来てるらしいってな」
「俺もそれには同感だ」
 あの伯符どのが、なんだかんだ云って、無理に引っ張って来たいと願ったのは、あの郎子(若様)が初めてだからなァ、と祖茂は呟き、運命ってやつかねえ、と云い添える声は、半ば惘れたような、揶揄うような響きすら帯びていた。

 
 庭から外へ。門を潜らずとも、邸の外に出る術はいくらもある。そういう抜け道を、小佚は子供の頃から幾らも知っていた。それ故に、先まで邸に存った姿が、気付けば城市のなかに顕れて人を驚かせる事も叶う。先に伯符があの頬の疵をつけた折のように、子供ふたりで邸から抜け出す事も叶う。
 昼ほど多くはない。しかし、未だ立ち働く家人も存る。家宰(執事)などは、家人の全てが寝静まるまで、眼を覚ましているだろう。その眼を掠めて、小佚は、そっと植込みの蔭から、塀のほうを伺った。
 誰かが、気付いた気配はない。灯りも熄えている。月も雲に隠れた闇のうち、彼は小さく息を吐き、最後にちらりと、兄の房(部屋)の存る離れへ眼をはしらせた。
 その、刹那。
「佚さま」
 ひそやかに吐き出された声に、思わず息を呑んだ鋭い音が響き、その思いがけぬ大きさに、小佚は自分の口を手に押え、声のほうを振向いた。
「小佚さま」
 女の声だった。
「裨児、」
 常なら、ほぼ片時も離れず兄の側に存る婢の姿が、夜陰のうちに沈み込み、それに小佚はけわしい眼を向ける。
 気配など、微塵も感じられなかった。しかし、兄の傍らに存りながら、常に己の存在そのものを隠してしまうこの婢ならば、夜陰に紛れた小佚に近付くことなど、造作もないことであろうか。
「大哥(あにうえ)に云われて、止めにきたか」
 声をひそめて身構える小佚に、裨児は更に近付き、跪く。
「於莵さまは、何も仰せではありませぬよ」
 そしてわたしは、命じられぬ事は致しませぬ。そう裨児は答え、その手に大切そうに携えていたものを、小佚に差し出した。袋に入っているそれは、布帛であろうか。
 怪訝を眉宇にあらわした小佚の気配に、裨児は貌を俯向けたままに告げる。
「夜に、これを佚さまに渡すようにと、於莵さまより仰せつかいました」
 その言葉に、小佚は未だ何のことか判らぬという風情で、その袋を手に取る。それを見届けて、一礼し邸へ退がろうとする婢に、小佚は問い掛けた。
「いいのか、これで」
「わたしは、ただ渡せと告げられたのみです」
 小佚さまをお止めせよとも、部屋におらぬことを誰ぞに告げよとも、承ってはおりませぬ。そう応えた婢は、恐らく闇のうちに咲(わら)ったのであろう。
 その気配が、声に滲んで、そして小佚は覚えず、離れの蔭を伺った。
 星灯りばかりの闇に、月明かりが薄雲に滲み、僅かに濃い影に濃淡が現れる。
 そこに、兄の姿が見えたと、そう思えた。
「於莵さまは、何も見えぬと、仰せでした」
 そして裨児にも、暗くて何も見えませぬ。その言いように、小佚は孫文台が掲げた檄文を「見えぬ」の一言で一蹴した兄の、その表情を思い出した。それが、己の行動に起こした兄のこたえであるのだと感じた。
「大哥…」
「今、お渡ししたものは、本当は小佚さまが加冠(成人)の折に、渡すようにと、於莵さまが、亡きお父上さまより託されたものでございます」
 けれど、形ばかりの儀式よりもなお、今の小佚さまには相応しかろうと、於莵さまは仰せでした。続けられる女の言葉は、暖かみを帯びて小佚の胸に浸み、受け取った袋を、きつく握り緊めた。
「於莵さまは、己が家督を嗣いだなれば、次男である佚さまは己の途を探るべく、外に働いて然るべきと」
 ただし、それは周の家の意志ではない故、それを心得よと。そして、それを承知したうえであれば、今暫し、好きにするがよいと。そう云ったのだと、裨児は告げる。
「裨児、」
 小佚は、低く告げた。
「大哥と、母上をたのむ」
 婢はただそれに一礼をもって返し、小佚は再び、躬を翻した。
 その刹那に見えた兄の影は、冠を付けたあの兄の姿ではなく、幼い頃より見慣れた、髪を緩く束ねたばかりの、あの姿であったと、そればかりが伺えた。
 見えぬ兄の眼は、しかし確かに、彼の姿を捉え、貌を向けていたと、そう思われた。

  
 夜は静かで、僅かな風の音ばかりが響く。その中にある気配に、陋屋(あばら屋)に踞るように眠っていた少年は、瞬きして躬を起こした。
 その物音を警戒するように、そっと布を掛けたばかりの入口へ近付いた少年は、外を伺い、気配の正体に気付くと同時に、その表情に安堵を見せる。
「郎子(若様)…」
「すまない、貢(コウ)」
 こんな夜中に、と呟く声は、小佚のそれである。かつて賊との諍いのうちに倒壊させた貢のちいさな隠れ家は、再び子供たちの手によって立て直され、雨露を凌ぐ用を、立派に足している。
「お前にだけは、黙って行くのは忍びなかった」
 それを云う小佚に、貢は笑う。
「やっぱり、行くんだ?」
「うん」
 もう決めた、と小佚は応え、そして貢は、外に出ると、酷く大人びた仕草で頷き、言葉をかける。
「がんばれよ、郎子」
 俺も、奉公に出ることに決めたから。それを告げる貢に、小佚は眼を瞠り、そして驚きを微笑に変える。
 貢は続けた。
「皆が喰ってく為にゃ、働けるようになった奴から、ちゃんと口を見付けなきゃならねぇだろ?」
 だからまず、俺が。それを云う貢に、小佚は頷き、「頑張れよ」と告げる。
「何かあったら、俺の家を頼ってくれていい。大哥も、きっと貢ならば、よいようにして下さる」
「よせよ」
 郎子に頼ってばっかもいられねェよ、と貢は照れたように笑い、続けた。
「以前に、郎子に貰った玉があるだろ。あれ、まだ金子にしてねえんだ」
 いざとなったら、それを使って、皆でなんとかする。だから大丈夫だと、少年は告げ、そして不意に居心地の悪そうな風情を見せた。それに首を傾げれば、少年は屈み込んだ小佚の耳元に口を寄せ、そして酷く早口で告げる。
 阿妍を、ちゃんと迎えに行けるようにならなきゃいけねえだろ、と。
 それに小佚は笑い、拗ねたように横を向いた貢は照れ隠しのように頭を掻いて続けた。
「あいつは俺が拾ってきたんだ。婆ちゃんも一緒に、責任とって面倒みなきゃ」
「本当に、」
 お前のほうが余程大人だな、と小佚は呟いた。
「郎子こそ、あいつに敗けンなよ」
 泣かされンなよ、と軽く小佚の腕を叩いてみせた貢に、誰が泣くかと応えた小佚は、ふとその場に近付いてくる蹄の音に気付いて、貢を庇うように、闇の中に気配を伺った。
 蹄の音は、2頭ぶん。貢もそれに気付いたか、はっと表情を引き締め、身構える。
 しかし、簡単な旅装のうちにも、そればかりは携えていた剣に手をかけた小佚は、その馬上から投げられた声に、構えを解く。
「佚どの。佚どのだろう?」
「子烈兄…」
 やっぱり佚どのか、と笑みを含む声は、陳子烈のそれであった。

 
 何故、子烈が。そう、ほとんど茫然とした思いで闇に眼を凝らす小佚の前に、その馬が現れる。そして、子烈が伴う、今一頭の馬に乗っているのが、裾の長い衣服を着た女であることに、更に驚いて眼を瞠った。
「この狡童(遊び人)。また夜歩きしてンのかい?」
 悪い女に食べられちまうよ、と。女乗りに馬に坐る、その姿から発せられた声に、小佚は息を呑み、そこに女の笑い声が重なる。子烈の隣に並ぶのは、あの夜に雑人溜まりに歌い、また賊と争った後に現れた、あの女だ。許昭という男の使いで現れたと告げた、巫女とも遊女とも付かぬ女。
 何をしに、そして何故、こんなところへ。全く事態を呑み込めぬまま、茫然と立ち竦む小佚に、女は告げる。
「悪たれ孩子(こぞう)を家から攫ってやるつもりが、自分から出て来ちまってるじゃないか」
 手間が省けたよ、と告げる声に、子烈を伺えば、馬の上で子烈の巨躯が肩を竦めた気配があった。
「佚どの。少し前に、あんたのお母上から、俺のところへ使いが来た」
「母上から?」
「ああ、そうだ」
 何やらうちの郎子(わかさま)が、柄にもなく愚図愚図と思い悩んでいるようだ。鬱陶しいことこの上ない。いっそ家から無理無体でも構わぬから攫って、尻でも叩いて舒から追い出してくれ、と。
 その言伝てを受けたのだと、子烈は苦笑混じりに告げる。
「それで、ならここにいる餓鬼に手伝って貰おうかと思えば、」
 まさか佚どのが、先に飛出して来ているとはなァ、とにやにやと笑いながら、子烈の赤い眼が馬上より小佚を見降ろす。餓鬼たァ何だよ、と貢はぼやいたが、その声が届いたらしい子烈は悪怯れた風情もない。
「母上、が…」
「破落戸(ごろつき)に攫われたとなりゃ、女のか弱い手で守ってやれる筈もなし。泣く泣く諦める他はなかろうよ、とね」
 母上様は、そう仰せだそうだ。なんとも凄まじい女丈夫を母上に持ったもんだなァ、と子烈は笑う。それに、傍らの女が応えた。
「当然じゃないか。洛陽の月嬋姐さんだもの」
 そこらの男が敵う相手じゃァないさ、と女は笑い、そして、未だ納得のゆかぬ小佚に向かって、婀娜めいた笑みを向ける。
「先に容子を伺いに来たときは、挨拶をする暇もなかったからねェ」
 いったん許昭さまに次第をお伝えした後、帝が崩御なされた折も折、孫家の家人が周家に間借りしたってんで、もう一度、御機嫌伺いもかねての使いに寄越されたのだと、女は云う。
 そこで、小佚の母親である蒋氏に、子虞が家督を嗣いだことを伝えられた。そして、そのまま子烈の許まで使いをしてくれるようにと、頼まれたというのである。
「郎子。あンたが不景気な面をぶら下げて家にいちゃ、母上様は余計に心を痛められるってンだよ」
 行っちまいな、それが母上様の望みだよ。そう、女は告げると、馬の上から子烈に向けて、腕を伸ばす。その嫋娜(しなやか)な腕をとり、腰を掴んで己の前に坐らせた子烈の首に、女の腕が巻きついた。
「人攫いってのも穏やかじゃねえが、説客がこんな姐さんじゃぁ、舌先三寸で丸め込まれて本望だ」
「あたしも相手がイイ男だもんで、蕩し込むにも気合が入っちまってさ」
 馬上で子烈に抱き寄せられて、女は笑い、それに小佚は未だ戸惑ったような眼を向けている。
 その小佚に、子烈は云った。
「徒歩じゃ、いくら佚どのの健脚でも、孫将軍にゃ追い付けねェ」
 そっちの馬を使え、と子烈は顎で空いた馬を示す。早くしろ、と。
「子烈兄、」
「ろくな支度もなしで、徒歩で飛出して来るたァ、佚どのらしい無茶だ」
 あの一件以来、ひどく大人しかったようだが、ようやっと「らしく」なったじゃねえか。子烈はそう云って笑い、女もまた、その躬に凭れたまま、高く笑い声を立てた。
 暫しその笑い声を聞いていた小佚は、幾度か眼を瞬くと、ひとつ頷いて、空いた馬のほうに近付き、その手綱を取る。
「そうだよ、」
 早く行っちまいな。でも、あのお母上を泣かせるんじゃないよ。そう云って小佚に向けられた女の眼が、ちらりと光った。
「生きて帰りな。あンたが我侭に、けれどしっかりと、己に愧じないように生きてくのが、母上さまの望みだ」
 あンたの為に心をくだいて下さる方が、家であンたの無事を願ってる。それを忘れたら罰があたるよ、と女は続け、小佚はそれに、酷く真摯な表情で頷いた。
 そしてひらりと馬に飛び乗ると、今度はあざやかに笑顔を向けて、手綱を握り直す。
 しかし、そこで不意に何かを思い出したように、手をとめた。
「郎子?」
「貢、これを預れ!」
 唐突に投げて寄越されたものの重さに、貢は驚いて、反射的に受け止めたそれをまじまじと見た。
 小佚が携えていた剣。あの賊退治の折に使った、それだ。その以前からずっと、貢の家に預け置いたそれを、再び小佚は少年に投げて寄越す。
「何かあったら使ってもいい。けれど、俺はそれを取りに必ず戻る」
 お前に改めて、礼をするために。そう、小佚は馬上から笑い、貢が何かを叫ぼうとするより早く、馬の腹を蹴り、駆出した。
「じゃあ、行ってくる!」
「行ってくるって、郎子、」
 莫迦、怪我すんじゃねえぞ、と叫んだ声に振向きもせず、小佚の姿は闇のうちに蹄の音のみを残して、熄えてゆく。
「行ってくる、ときたか」
 軽く云ってくれるもんじゃねえか。そう子烈は苦笑を向け、けれど託された剣を握ったままに、貢は思わず笑い声を立てた。
「あいかわらず、郎子らしいや」
「全く、」
 とんでもない狡童(わるがき)だねェ、と女は呟き、流石は月嬋姐さんの息子だよ、と喉奥で笑った。

 
 
 灯りもつけず、蒋氏は窓辺に佇み、夜闇の影ばかりを、その眼に追っている。
 そこに、衣擦れの音と共に気配が近付き、燭に灯りが点された。
「姐々(あねさま)…」
「小妹か」
 灯火に浮ぶ姿は、呉氏のものであった。しかし蒋氏はそれに眼を向けることもなく、ただじっと、窓の外に眼を向けている。
 ちらりと覗く項と顎の皎さが、薄らいだ闇に浮び、いっそその色彩は儚さすら思わせる。それが顫え、低い声が溜息の如くに吐き出された。
「行ってしもうたな」
 その声の終わりが顫えを帯び、細い顎もまた顫える。それを隠すように掌で蒋氏は己の面を覆い、そのまま頽れるように窓辺に腰を折った。
「姐々、」
 小走りに呉氏が近付き、その躬を支える。そして、顫える女の躰を抱えるように抱き、繰り返した。
「お赦しなされて、姐々、どうか赦して」
「小妹、」
 そなたが謝ることなど、なにもない。そなたは悪い事などしておらぬ。そう応える蒋氏の声が、常ならぬ潤みを見せ、幾度も跡切れる。
「わたしが…わたしが弱いだけのこと」
「姐々、」
「小妹は、夫と子供を見事に見送ったというのに。小妹は、こんなにも勁いというのに」
 私はなんと不状であろう、と呟く蒋氏の、貌を覆った指の間から、幾度も嗚咽が零れ、それを追うように、はらはらと雫が落ちる。
「怖い。万が一、もうあの子がこの手に戻らなんだらと思うてしまう己が、厭わしい…」
「姐々」
 呉氏は、更に啜り泣く女の躬を腕に引き寄せ、その背を撫でる。幾度も、己の娘にするように、柔らかな手が宥めを与えてゆく。
「姐々、だいじょうぶ」
 我が夫がついていますもの、と蒋氏の耳元に自身の頬を寄せながら、呉氏は続ける。
「我が夫と、我が息子と共に存りますもの」
 私もこわい。いつも、夫を送り出す時、こわくて溜まりませぬ。けれど―――と。
 けれど信じて待つのが務め。帰る家を守り、残る子等を確(しっか)りと育てるのが、戦に征(ゆ)かぬ女ができる、ただひとつの事ですもの。
 そう、呉氏は己にも言い聞かせているかの如くに続けながら、蒋氏の背から、髪へと手を動かし、抱き緊める。
「小佚どのも、伯符も、まだ母親の恋しい年頃ですもの」
 外に出て悪戯(おいた)をするときは忘れていても、遊び疲れれば戻ってくる。それと同じこと。
 その声に、蒋氏は僅かに、笑ったようだった。
「夫も似たようなものですわ―――」
「小妹、」
「姐々の、亡き夫君も、きっと守って下さいます」
 姐々はじゅうぶん立派な女人です。そう、呉氏は云う。
 女手ひとつで苦労をなされて、あのように立派なお子をふたりも、お育てになられたのですもの。この家を、守って来られたのですもの。それを小佚さまも、ちゃんと判っておいでですよ、と。
「母上さまに、感謝しておられましょう」
「小妹」
 すまぬ、と蒋氏は己を支える柔らかな肩に頭を預け、その相手に、呉氏はにっこりと笑って告げた。
「少し、お酒でも、頂いてみましょうか」
 唐突な言葉に驚いた蒋氏の顫えが止まり、ふふ、と呉氏は少女めいてすらいる笑いを零す。
「思い屈(くん)ずることがある時は、呑むのが一番」
 文台がいつも、そう云って呑んだくれておりますもの。呉氏は貌を上げた蒋氏の頬を袖に拭いながら、小首を傾げてみせる。
「女が真似をして、悪いこともありますまい。それに、この世に私たちを叱ることができる者が、どこにおりまして?」
 男ばかりに好き放題させてやっているのですもの。女同士で憂さを晴して、何の悪い事がありましょう。
 あてつけて、男たちのように、倒れるほど呑んでやりましょうか。そう云って笑う呉氏に、蒋氏は暫し無言で眼を向けていたが、やがて恥かしげに、涙に濡れた面を伏せ、吹出した。
「孫文台の妻女は、天晴な女将軍であることだ」
「まあ、姐々が褒めてくだすった」
 嬉しいこと、とはしゃぎながら蒋氏の手をとった呉氏は、立ち上がりながら、ふと窓の外を見た。
「あら、きれいな月が」
 雲が晴れて参りましたわねと、呟いた声の如く。先まで雲に覆われた夜空からは、あかるい月の姿(かげ)が覗き、その光が漣のごとく静けさのなかを満たしてゆく。
「この月亮(つきあかり)が、進む途(みち)をも、照してくれるか」
 蒋氏は呟き、なれば恐れることもあるまいかと、おそらくは同じ月亮の下に存るであろう姿を見霽かすように、光のうちに微笑をうかべた。

 
 不意にさす月亮(あかり)。そのあかるさに馬上の小佚はふと貌を上げ、そこに月を見た。
 微笑んで、馬の歩を緩める。雲の絶え間より現れた月は、そこに存る影を浮び上がらせ、すべてを漂泊してゆくような心持ちがする。
 そこで、先に家を出る折、裨児より渡された袋のことを、思い出した。先には中を改めることもしなかったが、いったいそこに、何があるというのか。
 あざやかな色で織られた、錦の袋。その紐を解けば、中からはごく質素な布帛がいちまい。
 それを見た小佚は、途の脇に馬を寄せ、歩みを止めて、改めてその布帛を拡げてみた。認められてから年数が経ったものか、それでも色褪せぬ墨の色が、月亮のうちに浮び上がり、それを持つ小佚の手が、不意に顫えた。
 ―――公瑾、と。
 字(あざな)。恐らくは父の存命のうちに与えられたまま、兄の手元に留め置かれたか、父の撰んだ字が認(したた)められて、彼の手のうちにある。
 酷く不思議な心持ちがした。容貌(すがたかたち)は肖ていると云われたが、手蹟まで肖ているのだと、己の文字によく肖た筆の運びを、小佚はそっと指に辿る。
「ちちうえ…」
 殆ど、記憶にはない父の姿。それを、その文字の裏に感じ取ろうとするかの如くに、小佚は辿る文字を握り緊め、そしてきつく、瞼を閉じた。
 やはり、何も思い出すことはできぬ。けれど、その声は幽かに覚えていると思えた。兄によく似た声で、そう、確かに幼い自分は、その父の膝の上に抱き上げられたことが、あったと。
「公瑾…か、」
 父から兄へ託されていた、己の字(あざな)。兄はまたそれを己に手渡し、それがこの出奔を黙認してくれた兄の気持ちであるのだと、それを思う。
 許しであるのだと。
「大哥、」
 小さく呟き、小佚はその布帛を袋に戻し、大切に襟に仕舞い込んだ。
 そして再び手綱を握り、その貌を前に向ける。
 せめて、戻る時には、その念(おも)いに愧じぬ漢となっていればよいと。
 ―――小佚(ちいさな佚)が我侭を貫いて、この夜のうちに存ることを、許した兄が、母が悔いることのないように。

 追い付くんだ、と。
 この途の先に存るだろう、漸く知合えた朋(とも)の姿を月亮の先に見て、小佚は再び、馬を駆けさせた。


 
 月の光(かげ)の落ちる階のうえに、周子虞は立っている。その背後にある婢が、敢えて手をさしのべることをせぬのは、その主人(あるじ)が盲目であっても、足許を踏み外すことはないと、熟知しているが故のこと。
「私の名も、弟の名も、すべて、父が撰んだもの」
 そして弟が字(あざな)をつける年までは保たぬと知った父は、病床で私にそれを託したと。
 誰にともなくひとりごちる様に、子虞は続け、その光を浴びるかの如くに、現れた月を振り仰ぐ。
「弟の小字(幼名)の『佚』は、常軌を逸してみだれるという意味」
 敢えて貶めるような名を小字と与えれば、子は健やかに育つと云われている。けれどその字を敢えて父が撰んだのは、と子虞は続けた。
「佚の文字に、同時に『にげはしる』という意味があればこそ」
 たとえ、余人に眉を顰められるが如き、乱行と見えても。傍若と見えても、それを貫く意志を持ち、それを望むなら、先に進めと仰せであった。
 子虞は続け、面を伏せると、月のすがたに背を向けて、邸の陰のうちへと歩む。
「恐らくは、私のように見えるかたちで縛られずとも、運命(さだめ)というものは、人であれば付いて回る」
 そこから佚(のが)れ、断ち切れと。そして、その陰を照し、陽の気を集める祭具でもある「瑾瑜(美玉)」たれと。
 続ける子虞の手に、今度こそ、裨児の手が添えられ、また笑みが向けられる。
「佚さまは、その如くにお育ちですよ」
 於莵さまの陰の気をも、そうして払われて行ったではないですか。そう告げる裨児の手が持ち上げられ、そっと、周子虞の目元を隠す布を解く。
「おそろしくは、ございませんもの」
 私は、平気でございますよ―――と。その言葉に、周子虞の瞼がひらかれ、やはり陰にあっても金にひかる眸子(ひとみ)が、二つに重なり、そこに映る。けれど、それを直視したままに、裨児は己の主人の頬に手を添え、云った。
「佚さまがおられぬ間、この裨児が於莵さまを、そして太々(奥様)を、お守りさせてくださいまし」
 この身に代えても。たとえ、於莵さまに啖らわれても。
 それを云う裨児に、周子虞はそっと瞼を閉じ、頷いた。

 
 その昼間、行軍の中ほどで、盛大なくしゃみが周囲を驚かせた。
「冗談だろ、風邪かよォ?」
 幸先悪ィな、と顔を顰めたのは、そのくしゃみの源からほど近く存った、伯海である。それに洟(はな)をすすりながら応えるのは、伯符だった。
「悪ィ。ちっと寝冷えたかなァ」
「何やってんだ。だらしねェ」
 自分の身もしっかり管理できねェようじゃ、戦に出る以前の問題だぜ、と伯海は毒づき、それに伯符は肩を竦める。
「月がさァ」
「月ィ?!」
 唐突な言葉に伯海が問い返せば、伯符は悪怯れもせず、頷いた。
「ゆうべ、不意に眼が覚めてさ。したら、いつの間にか、外に出てたンだよ」
 そうしたら、西に綺麗な月が出ててさァ、と続けた伯符に、伯海が軽く鼻を鳴らす。
「なんだそりゃ。月に惹かれて散歩だなんて、風流な性質でもねェだろが」
「俺もそう思う」
 でもさ、と伯符は呟いて。でも、ものすごくいい月だったんだ、と。
「なんか、綺麗だなァってだけじゃねえんだ。見てて胸騒ぎがするような」
 何かが起こりそうだと思えたのだと、伯符は云う。
 そしてそれは、初めて舒城の市で、小佚の姿を見たとき、その騒きを聞きつけた時と似た胸騒ぎだったと思っていた。しかし、そこまでは云わぬ。ただ、何か、のんびり寝ている暇はないと、その刹那に思ったのは事実だ。何かが起こるとしか思えない。そして、それは恐らく、悪い事ではありえない。
 面白いことになりそうだという、その胸騒ぎ。
 そして、その胸騒ぎは今この時まで続き、それに呼応するかの如くに、行軍の後尾のほうで、騒きが起こった。
「なンだ?」
 思わず振向いた伯海の傍らで、伯符はいっしゅん息を呑み、そして一瞬の火花が弾けるような笑みとともに、馬首を翻した。
「来たァっ!」
「伯符?!」
 危ねェだろうが、と叫んだ伯海に、笑みの残像のみを残し、その騒ぎのほうへと伯符は列を逆行してゆく。ちッと舌打ちしたものの、よもや大事は起こるまいと、伯海はのんびりと、その後を追い掛けはじめた。

 そして、見た。

 列の最後尾を騒がせたのは、凄まじい勢いで馬を駆けさせてくる砂埃。そして、その馬上に存るのは、ひとりの少年の姿。
 どれほど駆けたのか、馬が潰れんばかりの早さで列を追う少年は、もはや声も立てられぬのか、歯を喰い縛り、手綱を握り緊めている。
「小佚!」
 伯符が叫んだその声も届かぬか、近付いてくる馬の上で、少年は顔を上げることもせぬ。
 むしろ、その声に驚いて眼を瞠ったのは、馬を止めて成り行きを見守ろうとしていた伯海のほうだった。
「本当に、追っかけて来たかよ」
 自惚れてみるもんだなァ、伯符。思わず伯海はそう呟く。そしてやはり列を止めぬままに脇に逸れ、その息子の姿を眺める孫文台の姿もまた、祖茂と共に、近付いてくる砂埃を見詰めていた。


 

 月の光が似合う女だったのだと、孫文台は傍らの祖茂にのみ聞こえる声で、そう云った。
「陽の光に当ったら、死んじまうんじゃねェかって思えるような、そんな女だった」
「殿、」
 それは、と問い掛けた祖茂の声が、呑み込まれる。それは誰の事かと問わずとも、祖茂だけは知っていた。そして、その女の事を云える相手は、今となっては祖茂一人しかおらぬのだと。
「伯符は、もしかすると気付いてるぞ、大栄(祖茂の字)」
 云いながら、孫文台は息子の頬に残る疵を示すように、己の頬を指先にかるく触れ、そして、それに息を呑んだ祖茂に向かって、苦笑を浮かべる。
「その女の最後の望みが、黄色い河を見せて欲しいって事だった。江も渡った事のねェ女が、どこか遠くへ連れて逃げてやろうかと云った破落戸(ごろつき)に、そう強請(ねだ)った」
 けどなァ、と彼は僅かに眉に陰をおとす。それをしたら、本当に河水の神様にでも招(よ)ばれて、手の届かねェとこに消えちまうんじゃねえかとも思えた、と。
「伯符も、知らず知らず、その女の言葉みてぇに、その黄色い河に惹かれていっちまうんじゃねえかと。ふっと、そう思ったことがあった」
 産まれる前に死んでしまった女の思い。それをいつしか、嗣いでしまってはおらぬかと。孫文台は、不意に、遠くを見霽かすような眼で、何かを探すような風情をみせる伯符に、それを危ぶんだのだという。
「埒もねェと思うけどな」
「まだ忘れられねェか」
 仕方ねえけどな、と祖茂は肩を竦めた。
「けどな、殿には、大姐(姉貴)みてえな、陽の下でしっかり生きて、家を守って、亭主の背中をどやしつけてくれるような女がついてるじゃねえか」
 孫家の女将軍がさ、と揶揄う相手に、孫文台は悪怯れもせず応える。
「俺が選んで、あっちの親に頭下げて、無理矢理貰ってきた女だ。そりゃぁ、いい女房に決まってる」
 でも、それとこれとは別だろうと、よくある苦しい言い訳を、孫文台は口に上らせた。
「第一、あっちは死んじまった女だ」
「そう、もうこの世にゃいねェ」
 誰を引き摺る事も、できやしねえよ。そう揶揄うような口調で続ける祖茂の声は、しかし、どこか労るような響きを帯びて、孫文台はそれに、僅かに含羞の色彩を帯びた笑みを浮かべた。
「そうだな」
 それに、と列の後ろへ、ゆっくりと馬を進めながら、孫文台は、ようやく姿の見えるほどに近付いてきた、一頭の馬と、それを迎える己の息子の馬とを眼に映す。
「それに、あの莫迦息子が引っ張られていきそうになっても、」
 その陰すらパァっと祓っちまうような、陽の光の申し子みてェなのが、意地になって呼び戻してくれそうだ。
 そう、孫文台は喉奥で嗤いながら、呟いた。

 
 
 孫文台の言葉は、無論、その砂埃のところまでは届かぬ。そして、当の「陽の光の申し子」たるや、埃塗れ汗塗れの姿(なり)で、どうにか眼の前に、目指す姿を認めるや、馬を止めると同時に、気が抜けたように、その背から転がり落ちた。
「小佚!」
 慌てすぎだ。もう少し落着け。そう伯符は自らも馬の背から飛び降りて、身を起こす姿に手を差し伸べる。それに、息を弾ませた小佚は、安堵したように笑い、そして云った。
「字(あざな)がついた」
 そっちで呼べ、と言葉を向けられ、伯符は虚を衝かれたように表情をうしない、それから大笑した。
「いきなりそれかよ」
「夜、駆けとおしてきた。朝から、水しか飲んでいない」
 相変わらず無茶しやがる、とその腕を掴んで引き摺り起こした躰を抱えてやれば、漸くに小佚は起上がる。
 その小佚に、伯符は訊ねた。
「で、何てンだ?」
「何が」
「字(あざな)だよ」
 ああ、と小佚は己で云いながら、他人ごとのように呟き、「公瑾」と応える。
「公瑾か」
 まァ俺は、諱(いみな)を呼び捨てても構わねェんだっけかなァ、と揶揄うように伯符は呟き、それを聞きとめた相手は、一瞬その意味をはかりかねたように瞬きした。
 しかし、すぐにその経緯を思い出したものか、あッと呟いて、血を上らせた顔を背ける。
「余計な事は、しっかり覚えて…」
「余計な事じゃねえだろ」
 大事なことだ、と伯符はくすりと笑った。
「少なくとも、俺には大事なことだ」
 嬉しかったもンなぁ、と続けた伯符に、小佚は絶句し、勝手にしろ、と吐き棄てた。
 その二人に、近付いて来た姿がある。
「本当に、来ちまったか」
 惘れたように苦笑を浮かべる孫文台に、小佚は伯符を振り解くと、姿勢を正して馬上の姿を拝した。
「これは、我が一存。周家の預り知らぬところ」
 家出をして参りました、と悪怯れた風情もなく云い放った小佚の頭上から、哄笑が響いてくる。
「出奔たぁ、ますます、父上そっくりになって来たじゃァねえか、佚どの」
「いや、字(あざな)がついたそうだぜ、親父」
 公瑾て呼ばねェと。そう口を挟んだ息子に、成程な、と孫文台は頷いて、そして改めて問い掛ける。
「じゃァ、公瑾。ひとつ訊くが、」
 家に反対されてるってのに、なんでそんな無茶をした。
 その言葉に、小佚は貌を上げ、きっぱりと応える。
「来いと、云われたからです」
 伯符が、あのとき俺に、来いと云ったからです。そう、彼は真っ直ぐに、問いを投げた男を見上げる。
「そして俺はそれに応えるべきだと思った。応えることで、俺の進むべき途が見えると思った」
 その応えに、またも「成程」と苦笑を深めた孫文台は、改めて埃塗れの姿を見降ろし、そして乗ってきた馬を見遣る。
「丸腰で来るたァ、いい度胸だ」
 馬もあれじゃァ、潰れちまうぞ。そう呟いて、彼は背後に向かって、替えの馬を寄越すように言い付ける。
 そして自らは、携えてきた一本の刀を外すと、しげしげとその柄を眺めた。
 その刀のいわれを、無論、小佚も伯符も、気付くことはない。しかしそこに存るのは、亡き周家の先代の佩刀である。
 ―――伯符の守り刀にと、託された直刀がそこにある。そして同時に、伯符の生命を開いた刀と、かつての巫女であり娼妓であった女が、告げた刀でもある。
 それを握り緊め、孫文台は小佚に眼を向けると、無雑作に放り投げた。
 踉蹌きながらも、それを受け止めた小佚はその刀を眺め、そして馬上の孫文台を、何かを問いたげな眼で見上げる。
「くれてやる」
 刀を投げたときとひとしく、ごく軽い声が、それを告げた。
「お前がそれを選んだというなら、今くれてやった刀で、途とやらを展(ひら)け」
 その言葉に、何を受け止めたか。小佚は力を込めて刀を握り緊めると、その汗と埃に塗れた貌に、あざやかな笑みを浮かべた。
「ありがとう、ございます!」
 そして、その刀がいかなる意味を持つものかは、子供たちは知らずともよいと、孫文台は思う。全ては過去に存り、その刀で己が生命と代償にひとつの生命を産み出した女も、ここにはおらぬ。
 河水を見たいと望んだ女も、ここにはおらぬ。そして、その刀を持つ少年が存る事を願ったのは、己の息子。
 今ここに存る、己の息子であるのだから。
「甲(よろい)は、そのうち誂えてやる」
「随分気前がいいじゃねえか、親父」
 伯符が幾らか拗ねたように、今しがた投げられた刀を覗き込みながら云った。
「俺の時は、金を集めろだの、兵を集めろだの、さんざん無理難題を寄越しやがったくせに」
 それに、孫文台はかるく眉を上げ、そして応える。
「ただでくれてやる訳じゃねえ」
 出世払いだ、しっかり働け。
 寄越されたその言葉に、先の言葉を忘れたかの如く、伯符が貌を上げて毒づいた。
「吝嗇(けち)親父」
「尤も、俺は周家の援助は要らんと云ってしまった身だ」
 公瑾の働きは、したがって公瑾のものだ。孫文台はそう続け、そして幾分意地の悪い笑みを、己の息子に向ける。
「出世払いだと云ったのは、お前にだ、伯符」
「なンでだよ!」
「お前が引っ張って来たンだろ。きちんと責任を取れ」
 その台詞に小佚が失笑し、笑い事かよ、と伯符は貌を顰め、既に列に戻るべく馬首をかえした父親の背に、ぼそりと呟く。
「糞親父」
「聞こえてるぞ」
 肩越しににやりと孫文台は笑い、それに慌ててそっぽを向いて胡麻化した伯符に、たかい笑い声を浴びせながら、いくらか早い足取りで戻ってゆく。
 それに溜息を吐き、未だ笑いの収まらぬ小佚に、伯符は云った。
「…無礼だぞ。あまり笑うな」
 会った当初の己の口真似をされているのだと小佚は気付き、更に笑いの発作に襲われ、釣り込まれたように伯符もまた笑い出す。
 その少年たちのまえに、新たに馬が引出され、夜通し駆けてきた馬に替えて、小佚はその上に飛び乗る。伯符もまた、己の馬に飛び乗り、そして振向いた。
「来い、公瑾」
 あらためて字(あざな)を呼び掛けられたことに、幾許かの面映ゆさを覚えた小佚は、それでも向けられた視線を、此度は外す事はしなかった。
「ああ、」
 共に行こう、と――――
 

 漸くその言葉を吐き出せた喉が、新たな風を吸込み、それが酷く清々しく感じられた。
 
 
 

Sun Sep 21 20:33:11 2003 Kate Nisee
 



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