■迅(はや)き暉(ひかり)の生まれし処■
5

「小佚(しょういつ:周瑜の幼名)、」
 傍らから己を呼ぶ声に制されて、周瑜は琴を弾じる手を止め、その声の主に顔を向けた。
 唇許に微苦笑を浮かべた兄が、僅かに首を横に振る。何を以て止められたか判らぬ、といった風情で、周瑜は首を傾げた。音も節も、間違ってはおらぬ筈だった。だが兄の周叨(しゅうとう)は、先まで周瑜が奏でた音を脳裡に反芻するような風情を見せている。
 眼の視(み)えぬ兄は、常の如くに瞼を蓋い光を遮る様に、布を巻いている。だがそれでも、周瑜はその視(み)えぬ筈の兄に何かを見透かされているような、居心地の悪さを感じた。
「なにか?」
 覚えず零れた周瑜の問い掛けに、周叨は更に微笑を重ねてこたえる。
「音が荒れている」
 琴が士大夫の嗜みとされるのは、琴が「禁」に通じるが故のことである。由来、楽は神を降ろす場にあって奏されるものであり、それが故に、奏楽は神事である。従って楽を奏するものは己を正し、それが「礼」ともいうべきもののひとつの形である。邪なる思いがあれば楽もまた邪をうつす。稚い頃から楽をおしえられる折、幾度となく繰り返された言葉を、兄はまたも繰り返し、そして続けた。
「お前の琴(て)は、正直にすぎる」
 どの様に取り繕おうと、裡(うち)なるものが顕れ過ぎる。その兄の言葉に、周瑜はふと溜息を吐き、再び琴の弦(いと)を一本、義甲(琴爪)の先に弾いたが、それに今度は兄は声を立てて失笑した。
「殺伐とした音だ。さぞ、不機嫌な顔をしていることだろう」
「大哥(あにうえ)、」
「お前は、思っている事を素直に表に顕し過ぎる」
 楽の音にも、声にも。恐らく顔にも。そう続けた兄の言葉に、部屋の隅から微かに、それまで気配を殺していた婢が身動いだ気配があった。周瑜がふと眼をやれば、兄の世話のためにいつも付けられている、裨児という婢が何くわぬ顔でそこにあった。だが、恐らく先の刹那、笑ったな、と周瑜は思い、その周瑜の内心を読む様に、周叨は続ける。
「裨児が今のことばに笑うほど、お前はわかりやすいということだ」
 久々に私に琴を見てもらえと母上が勧められたのも、お前が端で見ていて見かねるほどに苛立っていたが故であろう。その兄の言葉に、周瑜は無言で義甲(琴爪)を外し、傍らに置いた。
「大哥、」
「琴の前に坐れば、己を糺すべく、己の裡なるものを鎮めるのが道理であるのに、小佚お前は、」
 お前の琴の弦(いと)の上には、己ばかりが顕れる。それでは、神気を降ろす余地がない。
 幾分厳しい声でそう告げられ、周瑜は返すことばもなく、兄に向かって坐り直した。
 項垂れる弟に、周叨は幾らか表情を和らげ、心配せずともよいと続ける。
「これまでも、お互いまともに挨拶の信(便り)すら交わす事もなかったではないか」
 それは事実だった。
 孫策と別れてより2年。互いに筆不精というべきか、その暇もないが故というべきか、ろくに連絡すらとっておらぬ。それでいて、周囲より報(し)らされる便りより、互いの状況ばかりは判っている。
 だが、今このときまで、と周瑜は思う。彼の焦燥の原因は、先に歴陽を発した孫策の軍が、全滅にちかい大敗を喫したという、その報(し)らせの故である。だがその後、孫策がどうしているのか、どこにいるのか、無事であるのか否か、それすら聞こえては来ぬ。
 せめてこの様な時くらい、と彼は思う。誰か人づてにでもよいから、無事くらいは知らせてきてもよいものだと。それとも、自分は頼むに足らぬということか。まだ、放っておけというつもりなのかと。それとも、便りを寄越せぬ程の深刻な事態が起こったということなのか。
 丹楊の太守に内々に任じられた叔父の周尚は、既に出立の準備をしている。まず、それを命じた袁術に挨拶をするべく寿春へ向かうが故、もし共に来る気があるならば、早く返答をせよと、幾度も急かされている。寿春へ向かえば、孫策の容子も明らかになると、それは周瑜にも判っている。だが、孫策より報(し)らせがあるまで動けぬという思いがつよい。
 惧(おそ)れてもいる。相手の身に、よもや万一の事でもあれば。そうでなくとも、深傷を負っていれば、それを見る自分が平静でいられるかどうか。この2年、ずっと待っていたその相手に、己が向けていた思いの勁さを、今更の様に思い知らされる心持ちで、全滅の報を受けてより、ただじっと待っていたばかりだ。だが、便りはない。
「…小佚、」
 だいじょうぶだよ。そう告げる兄の声に、はっとして周瑜は顔を上げた。穏やかな宥めは、声でなく、浮かべられた微笑からも感じられる。それに頬に血が上るのを感じ、ことさら表情を引き締め、彼は応えた。
「俺が労られる理由も、慰めて頂く理由もない」
 俺はただ、安穏と日々を過しているだけだ。苦しいおもいなど、なにひとつしておらぬ。辛いのは、あいつのほうだ。そう頑なに告げる弟に、周叨は更に微笑をかさね、云った。
「いい子だ、小佚」
「子…!」
 まるきり子供の様にあしらわれ、絶句した周瑜の耳に、部屋の外から声が聞こえた。ちらりとそちらを見れば、先に気配に気付いたらしい裨児が立ち、現れた家人と、何やら遣り取りをしているのが見える。
 暫しあって、裨児は渡されたものを捧げ持ち、周叨ではなく、周瑜に近付き、膝を折った。驚いた周瑜に、その女はひくく囁く。
「歴楊より、早馬にございます」
 渡された書簡を取る手が、顫えた。来た、という思いと、それを開くことに感じる惧れとが言葉を詰まらせ、そこに周叨の声があった。
「差し障りがないならば、読んで聞かせてはくれまいか?」
 周瑜は半ば上の空でそれに肯(はい)と応えながら、書簡をひらく。内容よりもまず、その文字に眼がいった。見覚えのある手蹟(て)は、決して下手ではないのだが、ひとつひとつの文字の神経質なまでの固さに反し、その筆の先の払いが大き過ぎ、ひとつの文字の収まる列に収まり切らぬ。それゆえ列にありながらどこか不揃いに見える勢いが、ともすれば悪筆とも見える。
 紛れもなく、孫策の手蹟だった。
 無事だったかと、まずそれを思った。己で筆を執れるならば、未だ無事かと。だがその安堵は、文字を追う視線の先に凍りついた。
「小佚?」
 絶句したままの弟の気配に、周叨は何かを察したものらしい。幾分心配げに呼び掛ける兄の声に、周瑜はそのまま、暴発しかかる感情を抑えに抑え、低い声で認(したた)められた文面を読み上げた。
 無言で、周叨も、また裨児もそれを聞いている。ひととおり読み終えた周瑜は大きく息を吐き、書を叩きつけるように床に置くと、立ち上がった。
「頭を、冷やして来る」
 そう言い置いて立ち去る弟の跫音を、周叨は暫し無言で聞いていたが、堪り兼ねた様に肩を顫わせ、笑い出した。
「大小爺(だんなさま)」
 咎める様に声を上げた裨児の唇許にも、必死に堪えているらしい微苦笑がある。だがそれをどうにか留め、周瑜が残した書を拾い上げた。
 いかがなされますか、と畳んだ書を手に尋ねれば、周叨は応える。
「母上にお届けせよ。それと―――」
 本家のある都へいったん居を移す旨、私には異存なしとお伝えせよ。その主人のみじかい言葉に、裨児はそれだけで納得したものか、はい、という返事と共に、かすかな衣擦れの音がひびく。
 未だ喉奥に笑いを残したまま、周叨は見えぬ眼でどこか悠(はる)かを見霽かす様にしながら、呟いた。
「流石は、あの小佚の朋というべきか、」
 頼もしい事だ、と周叨は止まらぬ笑いに、僅かな寂しさにも似た翳を滲ませた。
 

『随分と長い間、挨拶もしておらぬが、母上や兄上は息災か。自慢の黒毛馬の脚は衰えておらぬか。良い気候が続いているが、また共に遠乗りに行き、狩でもしたい。その暇があればの話だが―――』
 決して長くはない信(書簡)には、それでも周瑜にとっては冗長としか言いようのない、当たり障りのない近況と、御機嫌伺いとでもいわんばかりの暢気な言葉ばかりが綴られ、無沙汰を詫びる文言もない。加えて、先の戦の事については、一片たりとも触れてはおらぬ。
 己の所在も、袁術の許での己の処遇も、先に盧江を攻めた折のことも、なにひとつ。
「あの野郎…」
 巫山戯るな、と怒鳴った周瑜は、怒りに任せて柱を殴りつけ、その勢いに、たまさか行き合った家人が肩をそびやかした。だが、それをした周瑜の表情に、触らぬ神に祟りなしとでも思ったか、何を云うでもなく眼を逸らすと、小走りに行き過ぎる。
「くそったれ!」
 叔父や母にでも聞かれれば、間違いなく小言のひとつも寄越されそうな呟きと共に、彼は尚も収まらぬとばかりに柱を蹴りつけ、息を吐いた。
 無事ではあろう。空元気であれば、信(書簡)を届けた使者より、別の知らせも共に届いた筈である。孫策が伏せようと、負傷の報もあった筈である。それをする者が、孫策の側には、未だある。だが、それらしき知らせはない。加えて、寄越した信(書簡)の手蹟そのものに、そんな心配は無用とばかりのたしかさがある。
 ただ、ふと気になるのは、その当たり障りのない内容だ。自分もそうだが、孫策もまた、必要と思われる以外の書簡を、それも私的に寄越すなどという事はせぬ相手だ。そういう不精さが、2年の無沙汰となって互いの間にあったのだ。それが、どう見ても冗長としか思えぬ、内容の無いといってよい雑談をわざわざ書いて寄越すという行動が、解せぬ。
 解せぬとは思うが、心配が大きかった分だけ、それを逸らかされたようで、怒りが収まらぬのも事実だ。殆ど逆上しているといってよい。
 ともかくも、頭を冷やせ。そう己に言い聞かせ、周瑜は再び、倩妍のもとを音訪れていた。あの折には、手持ちも確かめずに肆(みせ)に飛込んだため、払いを未だ済ませてはいなかったのだ。気分を切り変えるために、明るいうちから妓楼というのもどうかと、自分でも思ったが、一番それが手っ取り早い気がした。
 さほど足繁く通った訳でもない。だが、不思議と、あの倩妍という女に会うと落着くのは事実だ。恐らくは、互いに決して深入りせぬという、暗黙の諒解がある故のことかもしれぬ。子供のように己を扱いながら、それと悟らせず、不快とも感じさせぬ手管が、倩妍にある所為かもしれぬ。
「心配してやった俺が、莫迦だった」
 そんな風に愚痴めいた呟きを漏らす事ができるのも、倩妍に対してのみだ。だがその周瑜を揶揄うでもなく、彼に背を向けて襟を整える倩妍の項が、灯火にしろく浮び上がって見える。既に、陽は落ちていた。
 牀に転がったまま、そう呟く周瑜に、倩妍はちらりと紅の落ちた唇許で笑んでみせる。
「よかったでは、ございませぬか」
 ご無事でしたのでしょう、そのあいては。その倩妍の言葉に、周瑜はこたえた。
「倩妍の云った通りだった」
 また狩にゆきたいと云って寄越す程度には、元気らしい。そう続けた周瑜のほうに手をつき、僅かに身をたおした倩妍の解れた髪が、影を揺らす。
「よかった。今度はちゃんと、お声が届いたではありませぬか」
 黙ったままでおられたのが、放っておかれたようで、面白くなかったのでございましょう?
 問われて周瑜は、女を見上げたまま、瞬きする。未だゆるい襟の併せから、倩妍の膚が影を描き、うすい布にうつって見えた。それを眼で追い、言葉もない周瑜に、倩妍は躰を起こす。それを追うように半身を起こした周瑜の肩から単衣が落ちるのを、倩妍は黙って引き摺り上げ、直してやった。
「狩に行きたいと仰せなら、一緒に行って差上げればよろしい」
 ひとりでは、つまらないと、そういう事ではございませんの。事もなげに女は続け、脱ぎ落とされた上衣を周瑜に羽織らせると、その顔を覗き込む様に、にっこりと微笑んでみせた。
「ほんとうに忘れておられたなら、このような時に、わざわざどうでもよい便りなど、寄越すものですか」
 直截なことばを寄越すばかりが、気を惹く手管ではございませんよ、と倩妍は身を引き、牀台から降りると、残った酒瓶の中身を確かめる。殆ど手をつけておらぬ酒は、そのまま冷えてしまったようだった。
「おまえも、そうだった」
 羽織らされた上衣に袖を通し、周瑜は呟く。
 さいしょに倩妍と会ったのは、この階下で、ただ酒を呑んでいた折のことだった。楽琵琶の巧い女がいると誰かに教えられて、それを聴きたいと思ったのが、この肆に来た最初だった。だからそれ以上を求める訳でもなく、ただ背を向けて琵琶に耳を傾けていたのだ。その琵琶の上手が倩妍で、そして噂になるだけの事はあり、見事な調べを奏でてはいた。酒の場にあって浮き上がらぬほどに艶やかで、けれど淫らというほどに崩してはいない。こういう弾じかたもあるのか、と周瑜が思った刹那、その背後で、音が狂った。
 大きく外した訳ではない。酔客ばかりであれば、何気なく聞き流された程度に、弦を押える指が滑ったという程度か。だがそれまでの見事さがあるだけに、酷くその外された音の狂いが気になって、周瑜が眉を顰めて振向いた、その時だった。
 琵琶を持つ倩妍の眼が、ひたと自分に向けられ、その眼に周瑜は、してやられた、という気分に襲われた。恐らくはずっと、その眼は自分の背に向けられていたことだろう。振向くことが判っていて、あえて手元を狂わせた。それも、耳のあるものにしか判らぬやりかたで、振向かぬ相手の眼を向けさせたのだ。
 あとは、ごく自然ななりゆきで、通う毎に呼ぶ女は倩妍、と肆(みせ)の主人(あるじ)に顔を覚えられる程度に脚を運んだ。そして、現在(いま)がある。
「誰にでも、音を外してみせる訳ではございませんよ」
 倩妍はこたえ、外すなりの理由がなければ、ただの失敗りです。恥じ入るばかりで、顔など上げておられませんわ、と続けた。その通りだと、周瑜も思う。そして、決して世間話などのために筆を執るなどという事をせぬ男がそれをした、その理由を思う。
 それでも、怒りが収まる訳でもない。はめられた、という口惜しさがある。けれど、倩妍の言葉に、ふっと蟠るものが解けた気がするのも、たしかだ。
「ひとりでは、お寂しいのでしょう」
 郎子(若様)をそれほどに狼狽えさせた、そのお方は。その倩妍に周瑜は苦笑し、けれど素直に頷いた。
「よかった」
 倩妍は、その周瑜に衒いのない笑顔を向ける。
「これで、倩妍の心も、軽うなりました」
 そう云われ、どういう意味かと怪訝の色を見せる周瑜に、彼女は応えた。
「倩妍を、落籍(ひか)せたいと仰せの旦那様がおります」
 唐突な言葉に、周瑜は絶句する他はない。その表情が可笑しかったものか、倩妍は声を立てて笑い、わたしももう若くはありませんもの、と続けた。
「大きな肆(みせ)をお持ちの旦那様で、奥様はおられますが、苦労はさせぬと仰せでした」
 つまりは、妾として迎えるという話があるらしい。悪い話ではないことが、倩妍の表情からも伺えた。
「本当はもう、その旦那様以外のお客は、お断りしているところでしたが」
「なら、どうして」
 事態を呑み込みつつも、反応に窮する周瑜に、倩妍は居ずまいを正し、向き直る。
「郎子(若様)と最後に見えた日より、案じておりました。このまま肆を出れば、もう会う事も叶いますまい。そうなれば、ずっとあの日の郎子が気にかかったことでしょう」
 お会いできてよかった。心残りはございません。
「もう、倩妍がおらずとも大丈夫でございましょう?」
 倩妍は尋ね、周瑜は驚きを微笑に溶かし、ああ、と応えた。
「…有難う」
 倖せに、と続けた周瑜に、倩妍は僅かに眉を顰めた。
「そこで、この倩妍を他の男に奪われるなど赦さぬと、僅かでも妬いてくだされば、」
 どんな女も、たちどころに郎子の虜になりましょうに、と倩妍は続け、絶句した周瑜に、横顔を向け、そして堪り兼ねた様に袖で唇許を押えると、肩を顫わせた。
 だが、泣いているのではない。可笑しくてたまらぬ、という風情で倩妍は声をころして笑い、そういう妄(うそ)も手管のうちですよ、と彼女は改めて、周瑜に貌を向けた。
「そういう肝心なところで外される不器用なところも、郎子らしくて、お慕い申し上げておりました」
「倩妍、」
「郎子も、どうかお元気で」
 いずれ、倩妍よりももっと、郎子に似合いのかたがお側に現れましょう。倩妍はそう続けたが、ふと悪戯っぽく眼を光らせ、そして尋ねた。
「それとも、先より散々、郎子を悩ませたお方が、そうなのでしょうか?」
 そのことばに周瑜は貌を顰め、冗談じゃない、と呟いた。
「判っていただろうに。あれは男のことだ」
 だが、いい歳をして、その男相手に散々振り回された自分が情無くもあった。その憮然とした表情をどう見たか、倩妍は立ち上がると、同じく牀より立ち上がって衣服を整える周瑜に、背後から手を貸す。
「郎子は、ひとつところに落着くことを、なさらぬお方」
 それまで男も女も、夥多の方に遇われましょうが、その中で、郎子が何をさておいても、自らその許に行きたいと思わせるだけの器は、そうはおられますまい。
「男であれ、女であれ、大切になさいませ」
 倩妍の言葉に周瑜は頷き、世話になったな、と倩妍を振向かぬ侭で呟いた。その背に、無言で寄り添う女の体温がある。
「こんな子を持つお母上は大変ですこと。けれど、」
 倩妍も、郎子のような子を持ってみたい。そう、倩妍は呟き、けれどそれでは、わたしが欲(もと)める、穏やかで平穏な人生を送る事は叶わぬのでしょうね、と笑いながら続けた。
 かもしれぬと周瑜は思い、不意に、邸にある母や兄を、思い浮べた。
 不意に、血の上った頭が醒めるような、そんな気がした。
 

 案の定というべきか、戻ってすぐに、周瑜は母の房(部屋)に呼出された。
「その様なところまで、父上に似ずともよいものを」
 妓楼に上がっていたのだと、母にはすぐ気取られたものらしい。返す言葉もなく顔を伏せる周瑜に、しかし母の蒋氏は、さしたる不機嫌も見せてはおらぬ。自身が娼妓であった母が父と出合ったのは妓楼であり、それを踏まえて揶揄われているのだと周瑜もまた判っている。そして、娼妓上がりの母を持つ故に、と母が謗られる事も判るが故に、彼も当初は己の行状をらしくもなく隠してはいたのだが、それを知った後も、母は咎める事をしなかった。
 だが、幾許か意地の悪い厭味は避けられぬところだ。
「そなたは父上によう肖ておるが、肝心なところが抜けておる故なぁ」
 父上は、遊ぶにもそれなりの器用さがある大人であられたが、そなたは、そこは肖なんだらしい。そう、蒋氏は嗤う。
「そなたの様に、姿(なり)ばかりの孩子(こども)を相手にするほど、妓楼の女も閑(ひま)ではなかろうに。逆に、それがよいのか」
「母上、」
「…まあよい」
 あまりの言葉に、いたたまれずに母の言葉を遮った周瑜は、椅子から立ち上がった母に差し出されたものに、息を呑んだ。
 先に己が、兄の部屋に叩きつけて捨て置いた、孫策からの書簡がある。
「大切にせよ。あの孫郎(孫策)が書を寄越すなど、さても貴重なことではあるぞ」
 それを受け取り、握り緊めて、周瑜は母親の顔を見た。常と代わらぬ涼しげな美貌は、ふいと己の息子から逸らされ、開け放たれた窓より覗く、夜の庭を眺めている。
「…小佚、」
 笑みはなく、ひくい声で、蒋氏は云った。
 己と、そして兄の周叨は、盧江を離れ、本家のもとに身を寄せる事に決めたと。
 それに、周瑜は言葉を失った。これまでも幾度か、本家より話はあった。分家は叔父の周尚に任せ、周瑜が官職を得て家を継ぐほどになるまでは、本家で暮さぬかと。だが、母は己が娼妓上がりであること、そして兄の周叨が病弱で、また眼が常人とは異なる異相であることを理由に、それを拒んでいたものである。
「母上、しかし、」
「そなたの叔父上も、丹楊に赴かれる。それでは、この盧江の家を、今までの様に世話をして貰うことも叶うまい」
 確かに、これまで周の分家を、亡き父に代わって裁量してきたのは、叔父の周尚であった。その叔父が任地に赴くことになれば、本家に頼るのも致し方無いといえば、そうだ。丹楊の様な騒がしい地に、病身の兄を伴う事も叶うまい。
 だが、それだけではないと、周瑜にははっきりと、母の思いが判った。だが言葉の出ぬ周瑜に、更に蒋氏は続ける。
「於莵(周叨の幼名)も、そうしたいと云うておる。私も、それが良かろうと思う」
 そして蒋氏はゆっくりと振向き、己の息子に笑みを向けた。
「小佚、そなたはどうする―――?」
 共に本家に行くか、叔父上と共に丹楊行くか。
 その母の笑みに、周瑜は一瞬、気を呑まれた。美貌の故ではない。以前からそうだが、何かを決めた折の母の表情には、一種の凄絶さが顕れる。己の心にある勁さが、そのまま面に顕れる。
 自分がこの母をこわいと思うのは、こういう顔をされるときだと、周瑜は信(書簡)を握り緊めた手に、更に力を込めた。
 そして、己がそれを決めた時、真っ先に気にかけるであろうことも、見越されていることを周瑜は悟った。即ち、仮に自分が思いに衝き動かされるままに家を出たとき、病身の兄と母しかおらぬこの家をどうするか。叔父がいれば、まだよい。だが叔父もまた、此度は任地に赴くであろう。とすれば、自分はここを離れる訳にはゆかぬ。彼は先に、妓楼で倩妍のことばを聞いて、今更のようにそれを悟ったのだ。そして、迷いが顕れた。
 だが、その息子の迷いを断ち切る様に、母は先手を打ってきた。
「母上、」
 丹楊へ、と周瑜は応え、視線を落とした。そうか、と蒋氏はごく軽く受け、そして衣擦れの音と共に、その気配が近付いてくる。
「この母は、都と呼ばれるところが嫌いではない。元は、都の歌妓であった」
 人が多いだけに活気もある。以前からそうしたいと、思うていた。
「そなたの兄も、眼が見えぬとはいえ、耳も頭も、そなたより遥かによい。良き師について学問を修めることもできよう」
 そなたの為ではない。時が来たまでの事。そう、蒋氏は周瑜の頬に触れ、幾らか寂しげな翳を、眉のあたりに落とした。
「暫く、会えぬな」
 だが、寂しくはあるまい。今は先のみを見よ。その母の声に、周瑜は頷き、一歩退くと、恭しいといってよいほどの礼をとってみせた。
「お許し下さい、母上」
「何を謝ることがある」
 息子の頬より離れた指を引き、蒋氏は先にみせた翳りを声から払い、そして常の如くに、磊落とすら言えるであろう言葉を繋げた。
「たかが母や兄より僅かに離れる程度で、仰々しい。孫郎を見よ、親元を離れても、しっかりとしたものではないか?」
 そなたもまず脂粉(おんな)の匂いを落とし、甘え癖を叩き直す心積もりで行くがよい。
 そう告げる母の、常ならば自身に向けられる筈の眼差しが、先と同じ様に窓の外に向けられている事に周瑜は気付き、無言で頭を下げると、その母の横顔から眼を逸らしたまま、房(部屋)を出た。
 

 配下には負傷したものも多く、しかし本人は幸いにして、ほぼ無傷。だが頬のあたりの窶れは隠し様もなく、その中で鋭い切れ長の眼が、異様なまでの光を帯びている。
 黄口児(こぞう)、遁げ戻ってきたものか。たかが賊ごときに手もなく捻られて。そう侮蔑を込めて左右と嗤い合っていた筈の袁術は、己の前に現れた孫策の姿に、嗤いどころか息まで呑み込み、言葉を失った。
 悽愴にして凄絶。その場にいたものが凍りつくほどの気迫が、敗残の将であるはずの、それも二十歳にも満たぬ青年から発せられ、それが膝をつき面を伏せたところで、初めて袁術はその相手に向かって言葉を発することができた。
「無事に戻って、何よりであったの」
 どの面目あって戻ったか、黄口児がいきがりおってと、衆目の前で面罵する筈の声が顫え、侮辱の言葉は労いのそれにとって代わられていた。忌々しい、と思うのは左右の者ばかりで、袁術本人には、そう思う事すら叶わなかったであろう。
「此度は、この若輩の身が不覚を取り、袁使君(袁術)の御名を汚したこと、万死に値する失態」
 孫策は面を伏せたまま、低く告げる。
「所詮は父の名のみの無力な黄口児と思われましょう。袁使君にも合せる面目はなしと思えど、しかし、」
 孫策はそこで初めて顔を上げ、その眼差しに、上座にある袁術が、あきらかにたじろいで身を引いたのが、見えた。
「しかし、このまま引き下がっては、孫家の名折れ。それを寛大なる御心にてお使い下された袁使君の名折れともなりましょう」
 どうか今いちど、この恥を雪ぐ機会をと、孫策は更に膝を進め、続けた。
「己ひとりの力では、兵も集めることままならず、賊ごときに散らされ、無駄に兵を損なう結果となりました。このままでは丹楊の叔父すら佐けることも叶わず!」
 床についた手が顫えた。決して大きな声ではない。だが、その低く押し殺した声音が獣の唸りとでも聞こえたか、その場にあるものは、一様に圧し黙り、肩を顫わせる孫策の姿を見守っている。
 血の滲むほどに唇を噛み、拳を握り、何かを耐えるように言葉をきった孫策は、再び地につかんばかりに頭を低くした。
「何卒!兵をお与え下さいませ!亡父が袁使君の許にあった折、その手足となった兵を、お貸し下さいませ!」
 さすれば、そのお慈悲に縋り、この孫策、袁使君の覇業を佐けるべく、一臂の力ともなりましょう。その御恩に報いるべく、死力を尽くし、まずは丹楊より公(との)の威を畏れぬものを討ち払いましょう。
 続ける孫策の、床に向けたままの視界が滲み、その雫が音もなく落ちた。言葉は空々しいまでに恭しいが、その涙に妄(うそ)はなかった。兵が欲しいという声にも、妄(うそ)はなかった。
 そして、ただ口惜しかった。己の亡父の兵を、その死に乗じて掠め取った当の相手に頭を下げ、辞を低くして乞わねば、兵ひとつ集めることもままならぬ己の無力さが、口惜しかった。
 その無力さ故に、兵を殺した。その自責の念が、改めて重く伸しかかる。その思い全てが堰を切った様に溢れ、言葉が詰まる。喰い縛った奥歯が、鈍い音を立て、握り緊めた拳に食い込んだ爪の痛みだけが、どうにか己をこの場に繋ぎ止めているような気がした。
 幾度か肩で息を吐き、拭うこともせず顔を上げて袁術を仰げば、蒼白な面に、何か可恐しいものでも見る様に己を見降ろす眼がある。
 哀れだ、と孫策は不意に思った。こんな黄口児を畏れねばならぬ小心な男が哀れだとも思い、そして、その小心な男に泣いて縋らねば、立ち行く事もできぬ己の今の境遇が、譬えようもなく哀れだと、そう思える。
 しかし、眼を逸らす事はせず、孫策は袁術に顔を向けたまま、胸中に「親父」と呟いた。親父、力を貸してくれ、と。もし俺に未だ、己の力を天下に問うだけの器があるのなら、まず眼の前のこの男に、剋(か)たせてくれと。
 何を云われても、足蹴にされても動かぬだけの、勁さをくれと。縋り付いてでも兵を取り戻す気力を寄越せと。
「公(との)、」
 掠れた声が顫え、その顫えに、袁術は我に返ったようであった。
「孫郎…そなた、まことに今ひとたび、丹楊に赴きたいか?」
 しかし丹楊の太守は、盧江の周尚に任せたぞ、と袁術は続け、孫策は初めてそれを知ることとなり、しかし内心の動揺を押え込むと、それでも行くと、はっきりと応えた。
「無論、新たな太守が赴くまでは、孫郎の叔父御に丹楊を頼む事になっておる。赴いた後も、状況が変わらぬ今は、その兵をもって近隣の討伐には当って貰う事になろうが、」
 袁術の言葉に、孫策は勁い声で応える。
「承知。それでも、」
 それでも袁使君にお慈悲があらば、この孫策に、袁家の御名を汚す失態を償い、恥を雪ぐ機会をお与えくださりませ。そう、孫策は続けた。
「どうか!公(との)!」
 公にお縋りせねば、賊のひとつも討伐できぬ黄口児を哀れとお思いならば、今ひとたび、その寛大なお心をもって、この若輩者に許しを与え、兵をお与えくださりませ。
 血を吐く様な声とは、かくもあろうか。孫策は己でもそう思った。声を吐き出す喉が、事実血を流しているかのように、痛む。だがそれを圧して、彼は云った。
「太守の位も、要りませぬ!ただ恥を雪げれば、それで満足にございます!」
 その言葉を、どう聞いたか。己の息子ほどの歳の青年に向ける袁術の眼が、ふと憐憫の色彩を帯びる。江東の虎と呼ばれた男の息子といえど、所詮はまだ若輩、己に縋らねば何もできぬと、改めて思おうと努力をしてみたものか。
 ただ気圧されて兵を与えれば、それは袁術が気迫敗けしたという事に他ならぬ。それに袁術は今更の様に気付いたものであろう。だが、今更それを否と拒める筈もない。拒めば己の狭量を謗られる。恨みも残す。ならば、根負けしたと謂われぬために、常の尊大さを身に纏おうと、そう思ったか。
「よかろう」
 敢えて、歳若い将を労り、あくまで上に立つものとしての威厳のみを取り繕って、袁術は鷹揚に頷いた。その眼に憐憫の色を浮かべ、かつての配下であった男の息子を見た。
「兵、一千をそなたにやろう」
 その言葉に、袁術の子飼いからも、同時に孫策の背後に控えていた孫河や程普といった者からも、不満の声が上がらんとする。袁家子飼いの配下にすれば、この黄口児に今更何故、一千の兵を与える事があろうかという不満である。己で勇み立った挙げ句に破れたものに、手を差し伸べることがあろうかと、表情にそれがありありと現れた。一方、孫家にあった者にすれば、孫文台がかつて率い、その死とともに袁家に預けた兵が、たった一千ということはあるまいという思いがある。まだ部曲の全てを返すつもりはないか、と袁術のその吝嗇に、憤りすら、感じたであろう。
 だが、その憤りのままに顔をあげた孫河が、何事かを言い募ろうとするその刹那、孫策が叫んだ。
「控えろ!」
 その勁い声に、孫河は覚えず面を伏せ、口を噤む。
「袁使君の寛大なるお心、この孫策、生涯忘れませぬ」
 兵、一千。必ずやこの兵にて、丹楊で勝ちを収めてみせましょう。
 そう告げて深く頭を垂れる孫策に、袁術は安堵したように息を吐き、期待しておるぞと至極満足気に呟くと、幾度も頷いた。
 

 袁術の許より退出した孫策は、その背後を振向く事もなく、ただ腕で顔を拭い、大きく息を吐き出した。
「…上出来だろう?」
 ちらりと孫河や程普に向けた笑みに、含羞の色彩があるのは、先に流した涙が、あながち虚涙(そらなみだ)ばかりでもなかったが故の事だ。その年若い主君に気遣わしげな眼を向けた程普は、よう辛抱なされましたな、と心よりの労りの声をかける。
 それに孫策は軽く鼻を鳴らし、だが孫河は未だ、納得の行かぬ容子である。
「しかし、一千たぁ、あんまりにも…」
「云うな、伯海」
 あれ以上を望めば、逆にあの男は渋る。そう、孫策は続けた。
「最初にぽんと一千と出てきただけでも、俺はいっそ驚いたぜ」
 泣き落としってのも、存外効くもんだな。癖にしちまいそうだ。そう、孫策は嗤い、無理なされますな、という程普の言葉に、肩を竦める。
「無理なんざしてねえさ。今の俺は、所詮この程度の器だってことを、改めて思い知るにゃ、いい機会だった」
 尤も、これからもこのままじゃ、死んだ奴等も浮ばれねえし、親父にも顔向けできねえけどな、と孫策は低く呟く。
「せめて、九泉の下で、あれだけの男の為に命をくれてやったんだと、胸を張れるだけの男になってやる」
 欺瞞だけどな。そういう欺瞞がなけりゃ、重くて堪らねえ。孫策は嗤わずに続け、その重さを表に出すことなく、堂々と顔を上げて人の上に立っていた己の父親の偉(おお)きさを、改めて思う。
 だが、それ以上にならなければいけないと、己に言い聞かせるように、更に息を吐くと、庭に続く階を降りた。
「若殿も、大きくなられたな」
 しみじみと程普が呟き、よせよ、と孫策は照れ臭げに笑う。
「有難くお借りした一千の兵で、見事に捷(か)ったら、改めて褒めてくれ」
「借りたんじゃねえ、こっちが返して貰ったんだ」
 それも全部じゃねえだろ。尚もそう続ける孫河を、孫策は至極穏やかに遮る。
「云うなよ」
 云えば、袁使君と同じ土俵に立っちまうぜ、と孫策はちらりと背後を振向き、軽く唇許を歪めて見せた。
「一生涯忘れねえぜ。高くつくと思えよ」
 この孫伯符が、誰かに這いつくばって泣いて慈悲を乞うなんざ、もう二度とねえことだからな。
 低い声で囁いた孫策のその声音と、そして刹那の視線に、孫河が息を呑んだ気配があった。
「…どうした?伯海」
 怪訝そうに族兄に向けた孫策の眼に、その刹那の光は、既にない。別に、と孫河は言葉を濁し、にしても疲れたな、と未だ傷の塞がらぬ肩を、軽く押えた。
「…祖郎に追い掛けられた時に比べりゃ、屁でもねえさ」
 ぽつりと孫策は零し、それに程普は微かに口髭を顫わせると、問い掛けた。
「余程、可恐しかったか、あの男」
「ああ、怖かった」
 あれだけあざやかにやられると、怒る気も失せる。悪怯れず孫策は応え、そしてふと、天を仰いだ。
 よく晴れた碧空が、広がっていた。
「…久々に狩りにでも、行きてぇよなァ…」
 眩しげに眼を細め、腕で光を遮りながら呟いた孫策の声に、思いがけず無防備に現れた弱さがある。それに気付いた程普は、孫策のことばが独り言ではなく、ここにいない何者かに向けられたものであることを知りながら、しかし、聞かぬふりをした。
 

 先に叩いた筈の孫策が、寿春より兵を率い、再び江東に向かっている。
 その報(し)らせは、未だケイ県の辺りに居座り、辺りを脅かす祖郎の一団にも、届いていた。
 今のうちに潰すか、という声は、少なくはない。先に当った時の大勝が、孫策畏るるに足らずという意識を生み、その奢りが祖郎の配下にはある。だが、今度はならぬと、祖郎はそれを圧し留めた。
 一千というのは、確かに兵力としては、さほど大きいとも言い難い。
「ただの黄口児(若造)じゃぁないですか。たいしたこともない男だった」
 配下の声を、祖郎は聞き、そして頷きながらも、釈然としないものを感じている。
「ああ、たいしたことはない――――」
 だから捨て置け。今は我等も力を蓄える時だと、祖郎はそうきつく云い含めた。事実、勢いよく伸びた祖郎達は、自分たちの盤踞する縄張りを大きく拡げることともなった。だが兵力がさほど膨れ上がった訳でもない。独力では、ここらが限界だという思いもある。
 もともと、山越という異民族を「賊」と呼び、闇雲にその祭祀を迫害する漢という国の圧力に抗っての、戦であった。今、この地盤の上に、かりそめにでも安定を見るなら、それを守ればよいという意識が、祖郎にはある。そして、それ以上を望む力も、己にないことも、自覚はしている。
 だが、しかし。
 先の一戦で逃した、孫策という青年。たいしたことはないといえば、そうだ。ただの黄口児(若造)と云ってしまえば、それまでだ。
 容貌も秀で、体格にも恵まれている。あの年であればこそであるのか、動きも、戦振りもまず見事だ。膂力も、並の青年よりは、はるかに勁い。
 だが、それも人の域を外れた、化物じみたものではない。あれが孫家の嫡子ならず、市井の若者としてそこにあれば、それでも一目置かれる存在とはなろうが、腕っぷしが勁くて見目のよい若造がいるという程度を超えず、夥多の人に紛れるであろう。
 だが、その極めて普通の青年に、とてつもない可恐しさを感じている己に、祖郎は気付いていた。
 たいしたことはない。そう配下が評したように、云ってみれば、そこらを見渡せばどこにでもいるような青年。だからこそ、年長の者は、そこに己の若い頃を見て、またその折に描いた夢を見る。同じ年代の者であれば、己の理想を見る。年小であれば、己もかくありたいという憧れを覚える。
 その全ての、理想と云う偶像を己に与えられれば、並の者であれば、舞上がり己の足許を見失うだろう。だが、己の上に描かれた偶像という虚構をあたりまえの様に受け容れ、平然と立つものが現れる。自身を見失うこともなく、寄せられる期待や夢を難なく己のものとしてしまう存在。それが、乱世にあって人の上に立つものだ。そして、更に多くの人を集め、それでも揺るがぬ勁さを自然に備えているものだ。
 それが、偉(おお)きさとなって、現れる。寄せられた期待以上のことを、してのける。集まる人間が多くなればなるほど、その期待は重圧となって己の身を圧し潰すであろうに、その重さすら感じぬままに、より多くを受け容れる。
 そして、その雷光のような光に当てられたものを、際限なく勁くする。
 祖郎は、己の右手に眼を向けた。顫えはない。だが、あの折の痺れは、未だに残っている様に思われる。
 己が斬り損ねたのは、まさに天運そのものか。そんな風に思われた。その天運を難なく味方とつけた、あの孫策という青年を斬れなかったのは、僥倖であったのか、それともとてつもない不運であったのか。
 逃したものの偉(おお)きさを、逃した己のみがはっきりと感じながら、祖郎はそれでも、その相手に未だ膝を折れぬ己の天運は何処にあるのかと、それを思った。
 膝も折れぬが、再び立ち向かう決意もつかぬ己に、あの青年と共にあった天運が押し寄せる日は、遠からず来るのではないかと、漠然と感じていた。
 

 よく晴れ渡った空の下に、兵の動く砂塵が見える。成程、狩をするにはいい気候だと、周瑜は己も背後に部曲を率いながら、それを思った。
 彼の叔父の周尚は、丹楊に赴く前に、寿春に向かっている。だが周瑜は、それに随行しなかった。
 寿春に向かう途上で、孫策が再び、今度は一千の兵を率いて江東へ向かったと、その報(し)らせを聞いたが故の事だった。ならば自分は、叔父上が丹楊に赴かれる前に、そこにある兵に助力し、落着いたところで叔父上は太守として城に入られればよいと、そう言い置いて、兵を率いて進路を変えた。
 叔父は、それに賛同しかねる風情を見せた。しかし、止める事はしなかった。こうなれば、止めても無駄だと思ったのかもしれぬ。だが、叔父には判った事であろう。
 周瑜は丹楊に向かった訳ではない。そこに孫家の兵が動いたと知ったからこそ、急いたのだと。
「2年ぶりか」
 呟いた周瑜の視線の先に進む軍は、紛れもなく孫策が率いている兵だ。一千と聞いたが、それより幾らか増えていると、物見に出した兵が伝えていた。成程、と周瑜は頷き、唇許に涼しげな笑みを浮かべる。
 先触れを出しますか、と尋ねる兵に、周瑜は要らぬ、とはっきり応え、手綱を取った。
「薄情きわまる仕打への意趣返しに、少し胆を冷やして貰うさ。旗も伏せろ。行くぞ!」
 尤もその相手は、近付く兵が誰のものであるか、すぐに悟るかも知れぬがな、と周瑜は胸の奥に呟き、その隊列の先頭に向けて馬を奔らせる。
 

 唐突に後背より現れた兵に、動揺がはしった。だが孫策はそれを振向き、しかしその旗も伏せた、何者とも知れぬ兵団を率いるのが誰か、はっきりと悟った。
 敵ではない。敵ならばまだしもだ、と苦笑を強ばらせ、意図して行軍の速度を緩めさせる。
 丹楊に、呉景の代わりに太守と任じられたのが誰であるか、袁術より既に知らされている。ならば、必ず奴は来ると、孫策は確信していた。そして同時に、何故自分を呼ばぬのかと拗ねているであろう事も、察しがついていた。

「やあ、孫君」
 馬上に兵を率いながらも、相変わらずの優雅な仕草で拱手してみせる姿に、孫策は反射的に応える己の顔が、まるで悪戯を見付けられた子供のようであることを感じていた。
「…やあ、周君」

 空々しい程の笑みと共に挨拶が交わされ、その間に、小声で交わされた遣り取りがどのようなものであったのか、背後の兵にはわからなかった。だが、終始、典雅としか形容のしようのない笑顔を浮かべる相手に、孫策が複雑な、どこかばつの悪そうな顔を向けている事だけは判る。
 そして、何を云ったものか。孫策が唐突に馬を止め、それより数歩先に歩み、悠然と今ひとりもまた、馬を止め、孫策を振り返る。
 その後に、孫策の大笑と共に、快哉とも聞こえる、明るい声が続いた。

 『―――吾卿得諧也(お前も来たし、これで大丈夫だな)―――!』

 莫迦どもが、とそれを見ていた孫河が幾分うんざりした声で呟き、苦笑を浮かべた。
「迷子の子供が、ようやく家に辿りついた様な面だ。そう思わないか?徳謀どの」
 そう問われた程普は、憮然とした表情のまま、咳払いをする。それに更に苦笑を重ね、孫河は続けた。
「大丈夫だ。今の伯符なら、あの隣の周の郎子(若様)にだって敗けやしねえ」
 寧ろ、居て貰ったほうが有難い。周家の部曲も一緒だしな。
 その孫河の言葉に、それもそうだな、と程普は抑揚のない声で呟いた。孫河は尚も、その不機嫌な横顔に向かって、言い募る。
「袁使君(袁術)のところで、伯符が切った啖呵を聞いたろ?」
 なまじの奴じゃ、伯符の相手はつとまらねえ。あの位で丁度いいのさ。
 その言葉に、程普は反論せず、ただ無言で馬を進めた。仕方ねえなあ、と孫河は傷が癒え切らぬ事も忘れて肩を竦め、顔を顰める破目になりながらも、その後に続いた。
 

 興平元年、丹楊の叔父のもとに赴いた周瑜は、孫策より急使を受け、率いる兵と共にその配下に入り、横江と当利の城を陥落させたと記されている。
 その折に周瑜を見て孫策が大いに喜び告げたといわれる――吾卿得諧也――は、呉書周瑜伝に残されていることばである。
 

Mon Sep 29 23:44:54 2002


INDEX
「なんで公瑾は乳ケツでけぇ姐ちゃんに慰められてんのに、俺の周りにゃ終始むさくるしいオッサンばっかな訳よ。マジ凹んでんのは俺のほうだろよ!」という孫策の抗議が聞こえてきた気がしますが、なんや異様に長くなってしまいましたスミマセン!孫策、出鼻を思い切り挫かれるの巻。当初は「祖郎と孫策の一騎打ち!」をやりたいと、ただそれだけだった筈が、「孫策、おおいに凹む」という路線に徐々に代わり、気付いたら「周瑜も一緒に凹む、そして直後に凸(でこ)る」に代わり、最終的には遠恋バカップル再会みたいな。阿呆ですか。最後に孫河が呟いた「莫迦どもが!」は書き手の心情そのまんまです。つかマジで済みません。無駄に長い。すんげえ冗長だ。
妓楼のシーンは、何故か出てきてしまったはいいが、夥多の映画その他で見た妓楼を思い浮べるつもりで、ふと気付くと「吉原炎上」に。それ違うだろ。(いや、好きなんですよアレ…)にしても娼妓の名前というのがまた思いつかず、倩妍という名前に至るまでに、この話書いた時間の半分くらいを費やした実話。そのくせ、未だどうにも女性の描写がアレでつね私。ウザい感じですね。
 ともかくも、お付き合い頂いてありがとうございました!そしていわでもがなですが、念の為「この物語はフィクションでつ」(ぺこり)