潼関。
北より河水が下る。西より渭水が流れ来る。それらがぶつかり、激しき渦を成す濁流。南にある華山はそれを見降ろし、そしてその岩肌のけわしさは、切り立つ山塊が壁なす隘路となり、関の外へと続く。その荷車1台ばかりをとおすほどの細き隘路の足許には、河水が轟音をあげる。
まさに、天然の要害。長安の東に存って、長安を目指すものを阻むが如き、難攻不落のその場所を挟み、曹操の兵馬と馬超が集めた関中の兵馬は対峙した。
東より西の漢中を目指すには、まず長安が拠点となる。だが長安に致るには、その潼関を抜かねばならぬ。そして、その潼関が敵の手に落ちれば、攻めるは難い。だが潼関を得れば、長安に至るるは赤子の手を捻るが如き容易さ。
西より至った馬超の兵馬は、長安を抜き、しかしそこに留まることをせず、真っ直ぐに潼関まで進み、そこに陣取った。東より至る曹操を睨むように、その難攻不落を誇る、西への扉を固めた。
その場に至る激戦。
己が「個」なる事を重んじ、己が矜持を重んじるのが涼州の人士。為に精強なれど、くせが強い。それを纏め、曹操の西征を阻む馬超の手腕。激戦ではあった。曹操本人が、あわやというところまで追い詰められもした。
「馬超が何を慮(おも)うて、儂を阻もうとしたかは、知らぬ」
瞑目したまま、曹操は呟く。そしてそれを見る馬騰も、果たして西に残した我が子が、何を慮うのか正確に知っているかと問われれば、「おそらく」という事はかなえど、それ以上はない。馬超には馬超の思いがある。己は朝廷に側近くあることを望み、[業β](ぎょう)へ赴いたが、それを敢えて拒む息子の語らぬ内心までは「おそらく」という推察のうちにしかない。
そして、父と弟、一族の全てを曹操の許に置いたまま、それでも馬超は、曹操が征(ゆ)けば兵を挙げるだろうということは、判っていた。だがそれをする根拠までも正確に捕えていたかと云えば、己は馬超の親であっても、馬超自身ではないという応えにしか至れぬ。
そして事実、馬超は兵を挙げた。その現実の中、それを咎める思いは馬騰の中にはない。
「馬超の許に拠った、関中の諸将の慮いは、決してひとつではなかったであろう。各々が、各々の理由で戦に集う。それを纏め上げる者が、その全てが己の号令ひとつという理由で旗下に集うと、己の偉(おお)きさを過信していたのみであれば、戦は容易く終わったであろう」
曹操は続け、唇許が嗤いのかたちに歪む。
「だが、恐らくは」
馬超は、その関中の将が己を祭り上げる信より、東より来る儂への畏れが大きい事を承知していた。
それを謂う曹操は瞼を上げ、馬騰へ視線を戻した。
「それゆえ、儂を討つという、ただ一点に狙いを搾り上げ、そして軍を動かした」
錯綜する利害を排し、一致する目標をのみ旗印として、集う兵を一体の生物として動かした。戦の場にあって、その隅まで、際まで己の意識を拡(ひろ)げ、己の動きそのものが軍の動きであるかの如く。
「互いに後に存った儂と馬超の間に、その軍の動きの中で、ひとつの道が顕れたのは、その故」
曹操の嗤いの中、嗤わぬ眼が馬騰を貫き、それを受ける馬騰はたじろぐ事もなく、相手の眸の中に、そこに見たであろう、己が息子の光(かげ)を探る。
兵馬が犇く戦場。隘路を抜け濁流を渡る騒乱の中、恐らくは曹操は、馬超を視たかと慮われた。
「視界を塞ぐ夥多が唐突に開け、気付けば眼前に己を狙う獣が存り、防げと叫ぶよりも尚迅く進む姿。群れの中で急所を暴き、射止める。それが馬超の戦であった」
曹操が語る息子の姿が、馬騰には見えるような気がした。
それを教えたのは己である。一個の武勇が際立つのは、その膂力の故のみならず、それを最もあざやかに揮う場があってのこと。その機を捕えるものが、捷(か)つ。そう、教えた。
ただやみくもに矢を射ても、夥多に遮られ、届かぬ。それゆえ、矢が射通る道を見極めよ。されば過たず矢は、狙いさだめた獲物を射ると―――
「だが、届かなんだ」
馬騰の慮いと、曹操の声が重なる。
「儂を討つことに狙いを定め、それゆえに一体となり動いた軍。なれば、その狙いを外す。それが儂の戦」
儂を討たずとも、この場を凌ぎ、自らの地盤を守ることは叶うのではないかと、その可能性を馬超ならぬ者たちに、示唆してみせた。
馬騰は眼を伏せ、曹操は溜息のような笑いを漏らす。
「そして、崩れた。儂に靡くものがあったのではない。ただ、馬超の許にあった者たちの中に生まれた疑念が、一枚岩に亀裂を入れた」
そこを衝けば、崩すは易い。語る曹操は再び、沓音を立て始める。
「潼関は、」
西に至る者を阻む関。その難所を躊躇わず奪った、馬超はただしい。
曹操は呟き、だがしかし、と言葉を繋げる。
「だが、潼関は、それより西にある城、長安を守る関」
馬超はたしかに、長安を抜いて潼関に至ったが、長安は馬超のものであったか。
問われて、馬騰は頷けぬ。長安に近き三輔と呼ばれる地を守ってきたは、馬騰である。己が所領と定められ、それゆえに心を砕き、守ってきた。
しかし、長安は。
「かつて、暴虐の果てに、荒みに荒んだ長安に人戸を増やし、人の暮せる城と戻るまでの尽力。それを成したのは、我が許にあった者たち」
そして、我が許に集う人士。なれば長安は馬超がものではなく、儂に与するもの。
曹操は、それを告げる。
「守るべき城市が背後にあればこその潼関。だが潼関より退けぬ馬超は、そこより出る事もかなわぬ」
ただ散らされて、逃げるのみ。事実、そうなったと、曹操は告げる。
「儂を防ぐべく、馬超は潼関に拠った。それは、とりもなおさず、その地より西に、儂を征(ゆ)かせずという意志そのもの」
だがそこで儂を防いで、馬超が得るものは何だ。
「ただ己が膝を折ることを厭う、それだけか。己の天地を守ることのみか」
不意に曹操の声が険しくなり、馬騰は貌を挙げ、きっぱりと応えた。
「然り」
曹操の鋭い眼差しを直視し、賊の親と断じられた馬騰は続ける。
「帝ならぬ丞相が、帝の如き権勢を揮い、国政を壟断(ろうだん)する。それを認めぬ。それゆえに、帝ならぬ丞相に膝を折ることはせぬ。それが、我が息子。そして我が意志」
それが、己の天地を守る我欲と見られようとも、我が心に愧じるべきところはなし。そう、馬騰は更に言葉をかさねる。
「帝の意志ならぬ丞相の意志で動く兵。なればそれを防ぐ。防いでこそ、我等が大儀」
「老いたか、馬騰」
「老いたとも」
揶揄するような曹操の一喝に、馬騰は怯むことがない。
「老いたがゆえに、この身は帝の側にて仕え、我が兵は息子にあずけた。だが老いたりといえども、我が意志はなお、国の行く末を案じておる」
衰えたりといえど、未だ存る国の内に、帝を凌駕する力を行使するものを認めぬ。
馬騰の声が、堂に響く。
「我は、あくまで漢朝の臣であるが故――――」
臣でありながら臣の分際を超える。眼の前の曹操という男はそれを成した。成して、愧じるところはない。それを成すに相応しいと、帝までもが認めようと謂う。
それは既に簒奪。だがその男は、簒奪の意までもあきらかにはせぬ。あくまで丞相という位、帝の臣下としての位のまま、それを平然と行なおうという。
あらたなる風と、それを認めるものも多かろう。だがそれを認められぬのは、己の老いか。それとも、漢朝の臣としての誉れを欲(もと)める、己の我欲か。
いずれとも、思われた。
そして、嫡子たる馬超とも、その思いは重なるまい。馬超は漢朝の臣としての誉れを望むものではない。臣でありながら臣を超える力に屈せよと、武を以て威圧される事をすら拒む、矜持。それを育てたのは、己だ。そして己を超えて、我が子は個として淘汰されつつある。
己の天地を塞(ふた)ぐ者の理不尽を、悪(にく)む心。それに従う謂われはないと、抗う心。勁く、ただ勁悍に駆ける姿は天を乞い、己の信ずる途を塞ぐ理不尽を悪(にく)む心を透徹させ、未だ丞相の手より離れて駆ける。
ならばこそ―――
我が子は、己ではない。己を超え、なお我が子は問うであろう。その天に。そして、眼の前の曹操という存在に。何故と。何故従わねばならぬのかと。
何故、その理不尽を呑み込まねばならぬのかと。
赦せぬと、その一点において、己と子の心はひとしい。それを認めぬと叫ぶ心のみは、ひとしい。
なれば、何故に咎めねばならぬ。寧ろ、褒めてこその父たる己。たとえそれを、賊と断ぜられようと。
そして、眼の前の男に、その子の父である事を咎と謂われるならば、その裁きにのみは、従おう。
馬騰は面を伏せ、恭しいとすら云える態度で、曹操に乞うた。
「裁きを―――」
賊たる者を子に持てば、その親がここに、臣としてのうのうと存る事は、ゆるされまい。
そう告げる馬騰に、ひたと眼差しを宛てた曹操は、いっそ労るが如き声で告げた。
「死ね」
己が子のために。
誅(ころ)してくれる――――
その声に、背後の馬鉄が動いた。
「父上!お逃げくだされませ!」
寸鉄も帯びず、けれどその体躯を以て、己の父を守ろうとするかの如く、馬鉄は曹操の前に出た。その周囲に、警護の兵が動く。だがそれに動じる気配もなく、燃える如くの憎悪を眼(まなこ)に漲らせ、馬鉄は曹操を睨み、しかし曹操は動かない。
「退がれ、鉄!」
儂が逃れてどうなる。逃れて馬超の許に奔れば、それこそ親子ともに、ただの賊。
そう、馬騰は険しい声で、面を伏せた姿勢のままに、前に立つ我が子を怒鳴る。
「儂がここで裁かれねば、馬家の名はただ穢れるのみぞ」
見苦しく抗うな、と告げる声に、馬鉄がひくりと喉をうごかし、息を呑んで、奥歯を噛み締める鈍い音が響いた。
その音に、曹操は笑みもなく、ただ謐かに告げる。
「馬騰のみではない。そなたらも生きて帰れるとは、よもや思うてはおるまいな」
馬超の為した事を以て、三族に至る死を。[業β](ぎょう)に存る一族郎党悉(ことごと)く、馬騰と同じ途を辿れ。
その声と同時に兵が動き、馬騰らを縛するべく縄がかけられる。
「曹賊ッ!貴様こそが真に賊たるものを、おのれ、」
馬鉄の叫びを聞いてなお、曹操の冷厳なる眼差しに揺らぎはない。
それを見上げ、馬騰はうすく微笑を浮かべた。
「三族に至る誅殺とは、また、大きく出た」
その微笑に応える如く、曹操もまた、唇許を歪める。
「その死を以て、貴殿の子の起こした兵乱は、叛となる」
「叛とは、誰にだ」
我が子が彎(ゆみひ)いたは、丞相にたいして。決して帝に対してではあるまいに。なれば、叛とはなるまいに。そう、馬騰は喉奥で嗤った。
「しかし、それを叛となせば、己を帝とひとしく扱う丞相こそが、逆臣と謂われよう」
縛されてなお貌を挙げる馬騰に、曹操は僅かに、眉を上げた。
「それも、よし」
しかし世はどう見るか。徒に兵を動かし、巷を騒がした者を悪(にく)むか、それとも、その地を治め、衰えたる国の、長き兵乱の世を収めようとする者を悪(にく)むか。
「大義は、いずこにあると見るや―――この、乱世に存るものは」
貴殿の大義と、儂の大義と。何れが勝るや。
馬騰は低く嗤い、応えた。
「我が力およばず、国を、帝を救わんと欲せども、ただ徒に乱のうちにあり、民を疲弊させた、それは我が咎」
それは既に、万死に値する。しかし、それに死を賜る丞相の上に、悪名は残る。
賊として死す者と、逆臣の悪名をもって生きる者と、いずれが―――
云いさして、馬騰は口を噤んだ。云うても詮無いことと、思われた。ただ己の力は及ばず、死を以て、逃れてある我が子に一条の光を遺すのみ。
天より至る、光を遺す事が叶うならば、それも天命か。
そして、その生死を如何なるものと判じ、道理とは何か、理不尽とは何かを見極むるは、己にあらず。ただ、この後も生きて存る者たちである。
「曹賊」
ひくく、声があった。
それまで一語も発せず、身動ぎすらなく父の背後に控えて存った、次子の馬休の声であった。
従容と縛につきながら、馬休はゆっくりと面を上げ、それまで決して直視することもなかった曹操の貌を、射るような眼差しで睨み据えた。
「たとえ、父と我等が死せども、大哥(あにうえ)は未だ、敗けてはおらぬ」
丞相こそが逆賊であると、大哥が生きてある限り、それを世に問う事が叶う。そう、馬休は謂う。
「大哥が生きてある限り、丞相は死せども葬られる場所すら、この天地にはない。大哥が率いる兵が、その屍(かばね)を裂いて、その肉を啖らうてくれよう」
逆賊と、その生命を以て、丞相の御身に烙印を圧し続けてくれよう。
呪うかの如き声。それを見降ろす曹操に、表情はない。
「承知しておる」
その呪詛にも等しい声を己の身内(みぬち)に容れるように、馬休の視線を受け止めたまま、曹操はこたえた。
行け、という言葉もない。ただその手が空を切り、それに応ずる兵が、縛された父子を引き立ててゆく。だが、その刹那、馬騰が声を上げた。
「丞相」
曹操の眉が動く。
「命乞いではあるまいな」
今更、と続く声に、馬騰は首を横に振った。
「否」
叛には三族に至る死を以て報いる。その裁きに、異論はもはや無い。
ただ、不意に、家に待つ己の妻の姿が、脳裡に浮んだばかりのことであった。出掛けぎわに頽れた、あの繊い肩の顫えが、憐れと思い起こされた。
それに恋々とする己の未練こそが、老いか。そう、思われた。
「処刑の後に棄市(きし)されるのが、賊の末路。しかし、」
我が身、我が子はともかく、家の内にあり、我に従う力なき者を、哀れと思し召せ。
馬騰の言葉に、曹操は苦笑をうかべた。よもやこの時に、この男が、この様な事を謂うとは思わなかったものらしい。
賊と断ぜられたならば、処刑の後に棄市、即ちその骸を曝される。
己はともかく、あの妻が、屍(かばね)を曝され辱められる事を、馬騰は心底、哀れと感じた。
「孟起さまは、酷い」と詰ったあの妻は、そうなれば決して、我が子を赦すまい。今となっては欺瞞ではある。死は死。乾いた骨に変わるだけの事。だがせめて、叶うならば、死者の怨みの念が凝り、生きてある者に禍とならぬよう。
せめて、哀れなる様を、曝すことなくあれ。
そう、思えた。なんとも最期に、女々しいことだと思えはしたが。
「任せよ」
曹操は、苦笑のうちにそう応え、馬騰は縛されたまま、頭を垂れる。
やはり、夕刻までには戻れなんだか、と、苦い笑いとともに、そう思った。
「丞相」
堂を辞して房へ戻ろうとする曹操の背に、声がある。
振向いて見れば、端然と衣冠を整えた、恭しい姿があった。伏せられた面は老いたりといえど、未だ端正にして、しかしその面貌の上に、曹操は憂色を見る。
「文若か」
あいての字(あざな)を呼べば、ゆっくりと面が上げられた。
荀イクである。己が未だ若き頃より従い、出征に当っては、後方の城を任せてきた。その手腕、人として、臣としての品格は随一とも言えるであろう。
その男が向ける眼差しに、やはり憂いの色がある。それを、曹操はみとめた。
「文若」
今いちど呼び掛ける声に、僅かに衣擦れの音と共に、荀イクの影が、近付いた。
「馬騰を、処断なされるか」
馬家が一族すべてを。そう問う声に、曹操は頷く。
「既に、聞いていたであろう」
「それを叛と認められるか」
なおも問いを重ねる声に、そうだ、と曹操は応えた。
「馬超に大義を与えられるか」
「世が認めねば大義も虚しい」
荀イクの声が険しさを増し、しかし応える声はあくまで穏やかである。しんと静まる城の内、空気のつめたさが、その声を酷く大きく響かせた。
「…認めずとも、それを利用するものは存る。その大義を抱込み、丞相の治世に異を唱えんとする野心も、未だ残されてある」
馬超に怨みを与えた。一族を戳(ころ)された怨みは正義として認められる。それを哀れみながら、宥め、抱込む者も、未だありましょう。それを丞相に向ける刃となす者も、ありましょう。
荀イクは、そう続ける。
「馬超を討ち果たせぬ今であれば、その一族は未だ人質として残す事もかなう」
「文若」
それをして、馬超は果たして、儂に膝を折るか。
曹操は問い、荀イクは応えぬ。
「それをして従う者なれば、はなから儂に抗うまい」
既に一族は我が許にあった。その上で、馬超は兵を挙げたのだ。そう、苦く嗤いながら、曹操は続ける。
「馬騰が望みよ」
それを、叶えてやるのみ。曹操の言葉に、荀イクはただ、その憂いを宿す眼差しを向けた。
「文若よ」
大義の香を留める華のみ名に添えて遺し、死にゆくことの出来るものもまた、倖せだとは思わんか。
曹操は、そう呟き、荀イクは開き掛けた口を、再び噤んだ。
「儂には未だ、それは赦されぬ」
我が戦は未だ終わらぬ。馬騰は死して尚、儂に戦を仕掛けるという。ならば生きて応じねばなるまい。曹操の言葉に、荀イクは眼を伏せ、丞相、と呟いた。その声が、歎息するが如くの顫えを宿すのを、曹操は僅かに眉を顰め、聞いている。
「そして、世の渾りを全て、御身にて拭わんとなされるか」
「そこまで思い上がる事こそ、分際を超えた僭越ぞ、文若」
しかし、と曹操は続ける。しかし、それをせねば、次に続くあらたなものを、子に遺せぬと。
「儂は、強欲ゆえな」
儂の志は、儂一代のもの。子には新たなるものをのみ、遺すであろう。
それを掴んで啖らうに躊躇いのない悪食なる子を、育てたつもりだ。
その曹操の声に、荀イクの肩が顫えた。それを、曹操は嗤う。
「漢朝の臣として、馬騰に同情するもよし。その忠義の心を、讃えるもよし」
そして、我が子の悪食を疎むもよし―――
荀イクを眺めた曹操は、そう続け、貌を伏せる姿に近付いた。なおも貌を伏せる荀イクは、言葉もなく、己の足下に落ちる影を、視ている。
「儂の為す事、馬騰の生き様、いずれを後の世が讃えるかは、知らぬ。だが、儂が欲(もと)めるのは、この命あるうちに、この命を以て、この乱世の意味そのものを、天に問うこと」
それを治める者に求めるものが何であるのか、問う事である。
「丞相、」
曹操の声に、荀イクはようよう、貌を挙げ、そこに憂色はなく、ただ影のみが落ちる。
「求めると仰せであるのは、天か、地か」
「いずれも、そして人」
何よりも、人。ここに未だ生きてある者。死して泉下にある鬼(霊)の望みなど、知らぬ。
曹操の応えに、荀イクは破顔した。
「人の声を第一に聞く、丞相もまた人である」
「然り」
それゆえ、「曹賊」と儂を罵る声がある。これより先も、馬騰の子よりもなお昏い眼で、呪うように儂をそう呼ぶものが夥多あろう。曹操はそう続け、人ならぬ身にはなれぬさ、と嘯いた。
「人ならぬ身になってしまえば、賊と呼ぶ声すら潰せもしようが」
「丞相、」
「それでは、面白くなかろう」
曹操は、疎まれ罵られて世に憚る、それでこそ曹操。
人ならぬ身となる、すなわち簒奪の意志を持たぬままに、帝にひとしい―――あるいはそれ以上の力を手にした男は、その己を視る男の端正な面に落ちる影に、ふと疲労の色を視る。それは老いか。残されてある時間のすくなさか。
己にもまた、その老いの影はあるか。
馬超は若い。世には、未だ己の前に、その若い生命を以て立つものがある。
勝つか、敗けるか、未だ判らぬ。戦には捷(か)った。だがそれは真実、勝ちか。馬超は逃れ、己は逆賊と呼ばれる事を、それゆえに赦す結果となった。
未だ了(お)わらぬ。そればかりが、今は判ること。
「人の中の人であられる丞相に、臣(わたし)は仕えて参りました」
これより、先も―――丞相が人であられる限りは。
荀イクは途中で言葉を切った。そして、僅かに間をおいて、続ける。
「そして人たる者の後の事は、ただ己が憂えるに留めましょう」
謎めいた言葉を、曹操は咎めることはしなかった。曹操という存在が漢朝をいかにすべきと考えるか、そこから敢えて眼を逸らすような、物言いであった。
馬騰とひとしく、荀イクもまた、曹操の側にありながら、漢朝の臣としての誇りを棄てぬものである。曹操が帝にひとしい処遇を得ることに苦言を呈したことも、ある。
しかし、去ることはせぬ。それが簒奪の意志とは異なるものであることをも、理解してはいる。
それを感情の面で憂う部分があることは、致し方のないことか。曹操はそれを黙して認め、ただ、今はこの男の面にある、疲労の影にのみ、眉を顰めた。
文若の憂色がうつったか。そう、己の裡に潜む影を、曹操は視る。
「文若」
身をいとえ。そう、肩に手を置いて告げると、曹操は踵をかえした。
慌ただしく人の動く気配は、獄におとした馬騰の館に、兵が奔る、そのゆえか。
ただ己の周囲には、荀イクが影の如く佇む、その謐かなる気配のみが、跫音を酷く大きく、影の内に響かせてある。
夕刻までに戻らねば、西へ使いを。
そう告げられた使者は、家宰(執事)の命により、ひそやかに馬氏が館を抜け出すことが叶った。その使者にも、家宰は戻るなと告げてある。
馬騰が出立してのちの、馬氏が館を固める兵の裡に、これまでとは質を異にしたけわしさが見えた。それゆえに、家宰は既に、それを悟っていた。
主たる馬騰は、戻らぬ。夕刻までに戻らねば、この先も戻ることはあるまい。
真実、その如く。そればかりか、一族郎党すべてに、捕縛の手は伸びた。
そして、館に入る捕り手の兵は、梁(はり)より下がる花の色を視た。
花と見えたは裳裾。馬騰の妻は既に、己が帯にて縊死(いし)してあった。そのあざやかな裳裾の色が、萎れたる花の如くに、あわれにも美しく、騒然たる館の内に、彩りを添える。
己が身も、夫の許に。曝されるならば、共に曝せと。
侍女は、その女のさいごの言葉を、兵に告げた。
西に奔った使いは、果たして途上で、目指す相手に遭遇していた。
[業β](ぎょう)を出て幾日か。休む間もあらばこそ急いだ男は、やはり等しく、夜に日をついで奔る、一隊にまみえた。
馬騰が家宰(執事)に告げたが如く、率いるは馬騰の族子たる、馬承奕(馬岱)。
来るなと、ただそれだけを伝えられ、馬岱は天を仰ぎ、手綱を掴む手を顫わせ、天を仰いで、絶望の呷きを喉より搾った。
届かぬか、という言葉は、声にならぬ。ただ、「嗚呼」という呷きのみが喉を顫わせ、伏せられた面が、奥歯を噛み締めて戦く。
「叔父上―――!」
殿とは呼ばず、叔父とその馬氏が棟梁を呼ぶ声ののち、されど未だ、という思いはあったか。なおも進まんとする馬岱は、しかし留まり、馬を降りた。
「散れ!」
軍装ならぬ、商人の姿に身を窶した己が一隊に、かれは叫んだ。
「散れ!そして西へ、若の許へ!」
逃れるものがあっても咎めぬ。ただ、未だ馬氏が旗下に留まる意志のあるものは、西にある馬超の許へ奔れと。
そう告げ、地に跪き、[業β](ぎょう)の方角へ頭を垂れて拝する。
「我のみは、せめて顛末をすべて見届けてのち、必ずや生きて、若の許へ」
低く顫える声は、そう続いた。
「赦されよ叔父上。俺は、来るなといわれた言葉には背く。だが、必ずや―――」
生きて戻る。馬岱は呟きながら、地についた手が血の色を失う程につよく握り緊めた。
その使いが馬岱の許に着くより早く、既に馬騰と一族は、誅されてある。
賊として曝されるその男は最期に天を仰ぎ、その中に何を認めたか。西にある己が子の、欲(もと)める何かを、見極めたか。
知るものとてない。
その男の死の意味を、最もただしく理解する者は、その男が死を以て逆賊の謗りを向けた、曹操のみ。それゆえに、曹操はその男を、誅(ころ)した。
その皮肉を感じるのは、未だ曹操の許にある、荀文若。
曝された屍(かばね)を遠く視て、その面の上に顕れるのは、やはり憂色。
「大義の香をとどめる華をのみ、名に添えて遺し―――」
けれどその香を、馨しいと感じるか、ただつよい香であると忌むか、それとも風に紛れ、気付くこともなきか。
呟く荀イクは、そびえる銅雀台を仰ぎ、そして、そっと面を伏せた。
西には未だ、勁き風が吹く。
Kate NiSee Sun Jan 12 0:04:12 2003
新年一発めの更新がこれだってあたりが。萌えツボのない話。いや、今ちょっと潼関戦をあれこれ考察しなおしているので、その絡みで。
潼関の戦ののち、戦そのものの当事者でないけれど、事件の当事者である人の視点からそれを辿ると、どんな具合かなと。スミマセン新年から地味で。辛気臭くて。
タイトルの「香を千代に留めぬるとも」は、幕末の久坂玄瑞の和歌から戴きました。「香を千代に留めぬるとも武士(もののふ)の あだなる花のあとぞかなしき」ってヤツですね。御粗末でございました。
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