「阿蒙、」
 黙り込んだまま己を見る呂蒙に、その男は呼び掛けた。それに笑みを向け、呂蒙はふと、その布帛に眼を向ける。
 中途で慌てて牀台に滑り込んだのであろう、書きかけた何事かの脇に、こちらは開いて眺めていたものか、ごく乱雑に拡げられた帛がある。
「気になるか?」
 問い掛けに、呂蒙はただ、牀の上を振向いた。見てみろ、とその男は促し、その眼に愉しげな光があることに、呂蒙は僅かに驚いた。
 そして帛を拾い上げ、字面を呟きながら、追い掛ける。声に出さねば文字を追えぬ彼を、その男は微笑ましいとも思ったか。呂蒙の呟きに、喉奥での笑いが重なり、けれど途中までそれを読んだ呂蒙は、かるく眼を見開いた。
 見慣れぬ手蹟。それは、私信のようであった。否、ごく内容のうすい、私信としか思えぬ。
「はるか西より、長くかかって届いた返信だ」
 視線を上げた呂蒙に、男は告げる。
「残念ながら、恋文ではない。妻(あれ)に云い付けるには及ばん」
「誰も、そんな事を考えてやしませんよ」
 顔を顰めた呂蒙に、更にその男は、声を立てて笑った。

―――先の船戦においての戦果や上々と聞き及ぶ。こちらもそろそろ、お眼にかける名馬を選び列(つら)ねる頃合か。

 その様な内容を、ごく簡潔に記した信(書簡)であった。
 西に、その武勇が音に聞こえた男がある。それに率いられた、騎馬の軍がある。これより進む蜀の地の北方、涼州の地に勢力を誇る軍。
 馬超という男に率いられた、その力。父親である馬騰が入朝し、先頃その男は偏将軍に任じられているという。
 西征を目論んだ今、牀台のうちに、子供のような眼を耀かせている男の戦略の中にも、その馬超という名はあった。即ち、荊州を抜き、蜀の地を攻略したのちは、その北方にある馬超と連合し、江南の兵と共に中原を狙う。
 ただ、その軍略に照し、何事かの連携をとるべく寄越された報といわれれば、その信(書簡)はあまりに、緊張感がうすい。
「恋文より、魅力的だ」
 想いをかけた美姫より、焦らしに焦らされた挙げ句に寄越された、誘いの文を貰った思いだ。そう、その男は謂う。
「周郎は、涼州の馬将軍に、既に挨拶をしておられたか」
 問い掛ければ、その男は頷く。
「先の戦の前に、涼州の名馬が欲しいと強請(ねだ)ってみた」
 もう2年になるか、と眼を細める男に、帛を握り緊めた呂蒙は近付いた。手を差し出した男にそれを渡し、ただじっと、彼は信(書簡)に眼を落とす男の横顔を見ている。
 2年前。江の上にて、大きな戦があった。中原の都を発し、江南へ来った今や丞相たる曹操の軍を、圧倒的な兵力差を覆し、押し退けた戦だ。
 その水軍を指揮したのは、誰あろう、今眼の前の、この男だ。
「涼州の名馬を見るには、荊州を過ぎて、蜀を奪(と)って落着かねばならん。そのお手並拝見、と向こうは云っている」
 同時に、その名馬がいかにすぐれたものか、この眼に見せようとも、云っている。
 文字を指に辿りながら、男は微笑を浮かべていた。
 南に向けた兵を挫かれた曹操にとって、次の脅威は、西北なる涼州、そこにある馬超の軍である。曹操もまた、西を狙っている。中原より西に至るには、馬超の存在を黙殺できぬ。必ず、衝突はおきるであろう。
 その時、やすやすと膝を折り、腹を見せて転がる狗(いぬ)の如くな不状はせぬと、馬超の信(書簡)は、そう云っている。
 その覇気を、呂蒙は見た気がした。同時に、蜀に動くより先に、既にその相手に通じていた男の眼差しが見透すものが、余りに大きく、まぶしくも感じられた。
「周郎…、」
 興奮を隠せぬ声が呼び掛け、文字を眺めたままの男が、呟く。
 

「途(みち)が、見えた―――」
 

 繋がりそうだ、とその男は呟き、けれど不意に顔を顰め、躬を屈めて胃の腑のあたりを押える。はっとして呂蒙は眉を曇らせ、その背を擦ろうとしたが、拒むように手を挙げて圧し留められた。
「ちゃんと、飯を喰っておられるか?」
 咎めるような声に、男は頷き、顔を歪めながらもなお、苦笑を浮かべて憎まれ口を叩く。
「喰わねば、阿蒙が泣く」
 誰が泣くかと顔を顰め、あまり駄々を捏ねると、今度は程公に云って聞かせてもらいますぞ、と続けた。
 程公とは、この男と共に水軍を預る、程普のことである。ただ、先々代より仕える程普はかなりの年長で、位こそこの男の下ではあるが、敬意を込め、皆は「程公」と呼びならわしていた。
 この我侭な指令官も、その程普の云う事であれば素直に聞く。軍中の誰もが、それを知っていた。周郎は程公の前でだけは、好いた男の前で己をとりつくろう小娘のようだと、そう云って笑うものもある程だ。
 案の定、牀台に躬を屈めた男は、恨めしそうに呂蒙に眼を向け、わかったから、と呟いた。
「いい子にしておくさ。程公に愛想を尽かされては、叶わん」
「全く―――」
「それに、」
 折角、途(みち)が見えたのだ。精々、養生せねばな。そう呟く声に、呂蒙は瞬きし、牀の脇に膝を折り、屈み込んだ。
「周郎、」
 くくッと笑いが零れ、漸くいたみが収まったのか、息をついて躬を起こした男は、呂蒙を見降ろし、不意に呟く。

『朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも、これ可なり』

 「論語」という書物の一節である。そのことばに記憶を喚起され、呂蒙はまじまじと、その男の貌を見上げた。
 窶れ、けれど未だ、うたわれた美貌に翳りはない。むしろ、凄絶さを備えてすらある。灼かれた刃が放つ光のようだと、およそ自分に似つかわしくない形容を呂蒙は浮かべ、同時にその言葉を眼の前の男から聞いた、はるかな昔を思い出していた。
 

 偶には書も読め。貧しい育ちで、学問などろくにしたこともない呂蒙に、そう云って論語を渡したのは誰だったか。しかし、四書五経と呼ばれる、偉大なる先人の書物は退屈だった。難解な言回しや文字の羅列に倦んでしまいがちな彼を、その男は覗き込み、「感心だな」と眼を見開き、揶揄うように、そして同時に酷くやさしい眼差しを向けた。
 その眼差しが、丁度ひらいていたその一節に留まる。
 「朝に道を聞かば、夕に死すとも これ可なり」という字句。
『それほどに「道」というものが大切で得難いものなのは、よく判る。だがな、』
 折角道を見付けたのに、その夕に死んでどうなる。その上を歩き、極めてこその道であろうに。そう、その男は嘯き、尤もだと呂蒙も思った。
 だが、その感心したような呂蒙の表情に、男は何がおかしいのか、声を放って笑ったのだ。
『大昔、まだ字(あざな)もつかぬ孩子(こども)の頃、俺に学問を教えてくれた師にそう云ったら、哂(わら)われた』
 それは文字通りの道ではない。その言葉が顕れたとき、世は乱れ、国の政(まつりごと)など存ってなきがごとし。つまりは「正道」というものが失われた時代であった。
 その中で、もし朝廷(おおやけ)に「正道」が行なわれていると聞いたなら、死んでもいい。乱れた世を慨歎し、孔子が呟いたのは、そういう言葉だと。正しき道の行なわれぬ世は、かくも淫らで、その道あらば世はただしく治まろうと、そういう重きを持った言葉なのだと。
『お前は穎いが、短絡に過ぎると歎かれた』
 こたえを急くなと、諭された。そう、その男は云ったのだ。阿蒙も急くことはない。学問はただ、字句をただしく解ければそれで終わりではないからな。己の裡に根付いてこそだ。
 というわけで、律儀に最初から読むよりは、興味を惹くところから繙いてみてはどうだ?
 そう、その男は別の書物を開いてみせた―――
 

 それを思い出し、呂蒙は呟く。
「でも、俺は、周郎の解釈のほうが、好きだった」
 道だけ見付けてどうする、歩いて、先に進み、求めるものを得るためにこそ、道はあると。そう謂う周郎が、好きだった。
 その言葉に、牀台の上の男は、ただ頷く。
「途(みち)を見付けられたと、周郎は謂う。なれば、」
 夕(ゆうべ)に死すとも可なり、などと澄ましかえった言葉など、似合わぬ。更に呂蒙は続け、僅かに躬を起こし、牀台に手をついて言い募った。
「でも、その途を進めば、更に途が見えるかもしれぬ。途はそこで終わりなどと、誰も決められぬ」
 進めば、先は。更にその先は?周郎の眼には、見えているのではないのか?
「阿蒙―――、」
 不意に、その男の貌から笑みは消え、乱暴な力が己を抱き取ったのを、呂蒙は感じた。
「子明」
 「阿蒙」ではなく、子明と字(あざな)を呼び掛けた男の腕が、己の頭を抱え、その躬に引き寄せているのだと、彼は薬湯の臭気の中に気付く。
 膚に沁み付く、薬湯の匂い。汗の臭気と混じり、けれど酷く、それは生々しく不吉に思える。その臭気の底にある血の臭気。あの日、「死にたくない」という叫びを聞いた日に感じた、赤黒い色をなす臭気。その更に奥に隠れた生命そのものの、野蛮なまでの生生しさ。
 それを感じ、呂蒙はただ、「先は」と問い続ける。縋るように、あの悲鳴を耳朶奥からかき熄そうとするかの如くに。
 その臭気に紛れるのが死の臭気だと、病の臭気だと思いたくはない。その故に。
「先は?周郎!」
 その先は?おれは、何処に行けばよい―――?
 抱き寄せられた躬を引き剥がし、掴んだ肩が酷く細く感じられた。骨が掌に当る硬い感触。それが己を怯えさせた。
 決して、華奢な男ではなかった。寧ろ長身で、呂蒙よりもなお、勁く逞しい体躯を持っていた筈なのだ。
 それが今は、この肩に甲(鎧)を着けられるのが嘘のようだとすら思える。その重さに、この躬が堪えられるのかと思えるほどに、削られて掌のうちにある。
「子明、」
 困ったように、その男は微笑を浮かべた。
「俺に途を訊いて、どうする」
 俺は途を見付けた。だがそれは、己ひとりの途であり、余人のものではない。子明には、子明の途がある。同じところに進むにせよ、途はひとつでは存り得ぬ。
 そう、その男は謂い、その刹那、黒い瞳が船室のなかに、鋭い光を帯びた。
 細い肩の脆弱さが不意に消え、手の中にはしなやかに勁く、ただ鋭い勁さを帯びた張りがある。
「己の途は、己の他には渡さぬ」
 先を見るのは、お前の眼だ、子明。
 俺の途を、ただ後をついて歩いてくるだけの男なら、要らぬ。
 その男は、そう謂って、呂蒙の瞳の奥を射抜くが如くの視線を向ける。
「ひとのつくった途を歩くほうが、楽だ。迅く駆けることも、叶う。だが、」
 それでは、つまらんぞ。途をつくるほうが、遅くとも、苦労があれども、愉しい。それに、誇れる。
「寧ろ、あとから来て、己の途を易々と駆けてゆくものを見るのは、不快だ」
「周郎、」
「銭を取るぞ」
 不意に、そんな冗談と共に、鋭さが薄れ、笑う声が続く。
「ただでは、通さぬ」
「周郎…冗談ではなく、」
 脱力した己の貌が、泣き笑いのように歪むのを呂蒙は感じ、ゆっくりと、相手の肩から手を離す。
「俺も、冗談ではない」
 先を見るのは、子明自身だ。俺は、己の途をつくる労力を惜しみ、ひとの途を勝手に歩くような阿呆を育ててきた覚えは、ない。
 そう、その男は続け、その刹那、つよい波でも来たものか、船が揺れた。
 踉蹌くほどではなかったが、しかし、先に呂蒙が地図の上に立て直した駒が倒れ、転がり、乱れる。
 それを見た呂蒙は、牀台から貌を逸らし、今いちど駒を立て直そうとした。だが、それを制する声が、牀台の上から発せられる。やめろと、留める声がある。
「もう寝む。明日にでも片付ければよい。どうせまた、動かす」
 お前も戻れ、という声に、呂蒙は屈め掛けた躬を起こし、頷いた。
「なあ、子明」
 振向けば、意地の悪い笑みではなく、むしろ透き通るほどに和らかな微笑を湛えた貌が、呂蒙の前にある。
「誰かの途に、己を賭ける事をするな。お前は、お前の途に賭けてみろ」
 それを出来ると思うからこそ、俺は阿蒙を苛めるのが愉しくてたまらんのだからな。
「酷い」
 その言いぐさに呂蒙は笑い、では、今度こそ寝んでくださいよ、と牀の傍を離れる。

 船は未だ、西には達(ゆ)かぬ。
 ただ、熄された灯火の翳に、倒れた駒のみが、かたかたと音をたて、地図の上の途より外れた床を、滑ってゆくばかりであった。
 

Sat Feb 1 17:46:16 2003 Kate NiSee