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孤(ひとり)で立ち、空を見上げる。高く高いところに広がる碧空は掴む場所すら感じさせず、ただ悠(とお)く上空へと広がっている。その碧は手を翳せば翳すほど遠離かる様だ。
頭上に広がりながら「在る」ことすらしないのではないか。
彼はそんな埒もないことを考えた。ゆきつくべき場所を探そうとして空を仰ぎ、けれど辿りつくべき場所が見えない。ただ高い。山の様に樹のように目指す頂点はなく、またそこへ行くべき道すらなく開け、遥かに悠(とお)い。
その、虚空。
辿りつく場所を探そうと目を凝らせば、見えていた筈の碧の色すら揺らいで、ただ澄明に広がる、その高みへ手を伸ばす。ただ影だけが降りて、後は見えない。
虚空。何もないその場所にひとり起(た)つ者――――
今の自分をそう感じ、彼は目を見開いた。刹那、声が聞こえる。
「超―――」
父親の声に彼は我に返り、漸く空の眩しさを感じた様に、目を細め、振向いた。
「超は、孤(ひとり)が好きか?」
父親はよく、空を仰いで立つ幼い彼を見て苦笑した。だが別に好きだという訳でもない。
ただ、そうしてひとりで空を仰いで、漸く自分の大きさを測れる気がすると、そう漠然と感じていただけだ。
大きな父。それを幼い頃から感じていた。大きく勁い、西涼馬氏の主(あるじ)となった父。
その父を目指していた。自分はそれを超えたいと確かに思っていた。けれど言葉にする事はなく、ただ目指すべきものが眼の前にあると、幼い彼は確かに父を見る度そう感じていた。
その父の上背を超えた。そして恐らく武技においても、今の父には勝るだろう。父は確かに老いた。いつそう感じたのかも判らぬが、いつしかそれが実感できた。自分は父よりも膂力においても技においても勝るだろう。
けれど、違う。
まだ、違う。
その感覚は彼の中に常に巣喰い、それが空を仰ぐという行為となって顕れたのかもしれない。悠くはるかな虚空。手の届かぬ何か。それに向かって手をさしのべ、何をしたいわけでもなく、「まだ、足りぬ」とそう思う。「届かぬ」と。
勁くなった、とは自分でも思う。確かに戦場で槍を振るう己の前に起(た)つものは何もない。漢の版図の西の果て、この西涼をも騒がす騎馬の異族の中にすら己を怖じけさせる者はいない。
錦馬超。いつしかそう呼ばれていた。異族をも威圧する鮮麗な色彩の具足を纏い戦場にある彼の姿はいっそ殺伐とした戦場にあって華麗とすら見える。それを讃え、かつ畏れたが故の、その二つ名だ。
その色彩が目にうつるとき、眼の前の敵は具足よりなお鮮麗に血肉を散らし倒れ伏す。「神威将軍」―錦馬超。
けれど、そう呼ばれてすら、彼の中に漠然と広がるものは消えない。それは苛立ちというものでもあっただろうか。届かぬ、と思う気持ちと、そして届かぬものに手をさしのべて立つ己が未だ感じる息苦しさ。もどかしさのようなもの。それが、消えぬ。
それが、何であるのか。
未だ判らぬ。
判らぬ侭、彼は西に兵を率いて都を望んでいた。
「寿成は、変わった―――」
その男は、久方ぶりに会った馬超に、そう零した。
低い、声だった。寿成とは馬超の父、馬騰の字(あざな)である。一般に、相手を呼ぶとき名で呼ぶのは当然非礼にあたるが、それに代替する字というものも、兄弟や友人などよほど親しい間柄でなくては使わない。
西涼馬氏の棟梁を字で呼ぶ男。韓遂―――字を文約という。
馬騰の親友である。義兄弟といってもよいほど親密な仲であった。以前は――そう、以前は。
理由は、よく判らない。ただ馬超が気づいたとき、父である馬騰と韓遂は既に不仲となっていた。そればかりか、殆ど仇敵とも云うべき間柄となっていた。共に馬を並べ賊の討伐に辺り功を競ったその矛を交え、互いの領土を侵しあう仲となっていた。
馬超自身、韓遂を叔父とも慕ったことがある。韓遂も幼い頃は彼を父と同じく「超」と親しく呼び、可愛がった。
だが、今は。
「変わろうが変わるまいが、父は父」
己の進退を見誤ることはない筈だ。そう答える馬超の声音は冷えている。彼の中には既にこの男に対する消える事のない隔意があった。
父と韓遂が矛を交えたその時、馬超は二十歳にも満たぬ少年だった。その戦の折、優勢だった父に圧されて敗走した韓遂は、軍を纏め直して取って返すと、仕返しとばかりに馬超の母と一番幼い妹を殺害して去ったのだ。
戦の最中の事だ。意図せざる結果だったのかも知れぬ。馬騰の軍を返させてすみやかに逃走するべく、本拠地を急襲したが為に生じた事故のようなものだったのかもしれぬ。その後、遺恨を残しつつも父と韓遂は形のうえで和解はしている。今更それを云々しても始まらない。
だが、しかし。
この男は、俺の母親とまだ無力な幼子だった妹を殺した男だ。
馬超は、そう見ている。憎悪を面(おもて)に表さぬまでも、冷えた感情は瞳に、纏う空気に表れていたことだろう。
変わった、という。だから何だと馬超は思う。お前が父の何を知っているのかと。
だがその男は、まるでひとりごちる様に続ける。
「寿成は以前からそうだった。漢朝の臣であることに拘泥り続けた。己がかの伏波将軍、馬援の裔であると繰り返し、されば帝を救うは我…我こそが真に忠臣と、その自尊にしがみつく様であった」
若い内は、と韓遂は苦笑を滲ませる。若い内はその矜持が眩しい、爽やかな男であると思えた。
だが、今は―――
「矜持に縋るその様が頑なに過ぎ、まるで己が一族のみが高みに在るかの如く…」
「文約」
遮る様に、馬超はかつて叔父上と呼び、慕っていたその男の字(あざな)を呼び捨てた。韓遂は流石に慍(む)っとした容子ではあったが、言下には咎めず口を噤む。
伏波将軍・馬援。かつて、この漢朝が乱れ、一時王統が途絶えたと思われたその時、颯爽と顕れた若き英雄光武帝・劉秀の臣である。乱の後なお辺境の異民族を平定したというその将軍は、今も功臣と讃えられ、老いて尚戦場にあり奇跡のようなあざやかさで戦勝を続け、その奮戦ぶりに、光武帝が「矍鑠(かくしゃく)たるかな!」と感嘆したという逸話もある。
その馬援の血脈が、今の西涼馬氏一族である。官職もなく財とてなく、辺境の1氏族と落魄した馬氏の棟梁であった馬騰は、幼い馬超に幾度もそれを繰り返し云って聞かせたものだった。材木を切出して生活の代とした貧しさのなかで、我等は漢の功臣、伏波将軍の血を享けたものだと。馬上の戦を事とした強き一族なのだと。いずれ大功を立て、再び帝の側に返り咲くべく名門なのだと。
殊更馬騰がそれを強調したのは、己の母親が異族である羌の女であったからかもしれぬ。漢人ならぬものは中央における栄達を望めぬ。血の半分が羌族である馬氏は、その羌の平定によって名を挙げ、また自らの部曲(私兵)の中にも馬騰の勁さをたのみとする羌の民が多く在る。それゆえに馬氏の騎馬軍は精強と謳われたが、しかし己の中に混ざる羌の血が、どこか漢族から彼等を浮き上がらせてしまったのも事実ではあった。
馬超は己にも4分の1だけ流れている筈の羌の血を確かに感じる事がある。漢の地にありて漢の帝に仕えるものと定められながら、どこかしらこの国から遊離した様な覚束(おぼつか)なさは、確かにある。
漢人の中に、己たちを西の田舎者、半分は異民族と看做(みな)す空気を感じ、ふと眉を顰めることもある。
だから父が「伏波将軍の裔(すえ)」と執拗に繰り返すその想いは、判る気がした。それを卑屈と韓遂が詰った事も知っている。名門の血に縋り付く傲慢さと嫌な顔をした事もある。父と韓遂の不和の原因にそのことも含まれていると彼は知っている。
けれどお前に何が判ると、馬超は想う。
そう繰り返す父の内にあるものを、お前は知っているとでもいうのかと。
確かに、父は、老いた―――祖先の血脈に縋り、帝の側へ寄りたいと焦る、その気持ちは馬超が端から見ていても明らかだ。不快と感じた事があるのも事実だ。
だが不快というよりはむしろ、哀しいと、微かに想う。
我は我、それでいいのではないかと、思う。自分は強い。だからこそ羌であれ漢であれ惧(おそ)れ従う。従える力がある。
それで良いではないかと思うのに。
父は都に在る。衛尉という官位を与えられ、召し出されて都に在る。
帝を擁する、丞相・曹孟徳(曹操)。その権勢の偉大なる事を悪(にく)み、臣の身で帝を蔑ろにするものだと憤り、討つべしと断じたのも父だ。
反曹操の動きは以前からある。帝自身が密勅を出し、曹操を除くべしと仰せになった。その動きは既にして曹操自身に押えられ、首謀者であったものたちの殆どが既に亡きものとなっている。残ったのは、その粛清の風が宮中を吹き攫ったときに都より離れてあった、今は荊州に陣取り巴蜀を狙う、劉玄徳(劉備)、そして馬超の父である馬騰のみだ。
その馬騰が敢えて召し出されたとなれば、理由はひとつ。
目障りな西涼の豪族連の首領ともいえる馬氏の棟梁を抑えることで、牽制をかけたということだ。すなわち、人質である。
このまま一気に軍を率いて都へ攻め上り、曹操を討つべし。馬超は父にそう訴えた。だが父は肯(うなず)かなかった。馬氏の騎馬軍を馬超に預け、己のみが都へ上った。帝の側へ今一度近付けば、反曹操の勅を今いちど引出せる。それを待たずして挙兵すれば、帝のおわす都へ兵を向けた叛逆者ともとられかねない。それを父は惧れたのだと、馬超は思う。
迂遠な、と彼は言下に父に詰め寄った。今、曹操は江東へ兵を進め、破れたばかりである。討つなら好機と馬超は見た。大兵力を江東へ向けた曹操は、江東孫氏の水軍に大敗し、その兵の多くを失った。その江東孫氏の水軍を率いる周瑜という音に聞こえた軍略家が、馬氏と接触を計りつつあった頃合でもある。
今こそ好機。江東と結び曹操を叩くべし。
だが馬騰は、その機は逸した、と告げ、馬超を圧し留めた。西涼馬氏と江東孫氏の連合を計った当の周瑜が蜀への遠征の途上に病死し、また江東孫氏の棟梁である孫権自身が兵を率いて曹操の勢力圏である合肥・九江を攻めたものの、戦果はなかった。現在、江東孫氏は一旦西征をあきらめた形となっていたと云っていい。引き換え江東攻略において大きな一敗を喫したといえども、曹操は未だ屈強な兵力を残してた。ならば帝の勅を得て、堂々と反曹操の兵を各地より糾合すればよいと。
そして人質とはいえ、召し出された折の約定通り、馬騰は衛尉の位を得た。馬超は西涼に留まり、与えられた官を突っ撥ねた。入朝することも拒んだ。そんなものが何になる、と思っていたのが正直なところだ。
己は父に預けられた西涼の地で、その軍を掌握し、いつでも討って出られるだけの力を蓄えておく。それが成すべき事だと思っていた。やがてその馬超も正式に詔勅によって徐州刺史に任じられ、後に諌議大夫に任命された。更に偏浦軍に任じ、馬騰の軍営を統率せよとの命が下された。
だから何だと馬超は思う。位を下されずとも己はそれを自力でしてのけてきた。今更官位を貰って何になる。その印璽で何をできると。
加えて、一度は敵と定めた相手から貰ったとも言える官位である。帝の名において発せられた勅令なれば受けはしたが、いますぐそれをかなぐり棄てて曹操を討つべく奔ってもいいとすら考えた。
だが更に、ふたりの弟たちにも官位が下されるに至り、父である馬騰は馬超を除く一族を都へ移住させた。せざるを得ない圧力があったと考えていいだろう。
馬超が動けば、都の一族は如何様なるや―――
曹操が、そう呟いて嗤う声が聞こえたと、そう感じた。従えと。その地を明渡し曹操の許で漢朝の臣として仕えよと。
それが悪いことか良い事か。父は大義を云々する。だが馬超が感じたのは大義や正義ではなかった。
ただ、息苦しいと。
恐らくは西涼を明渡せば、頭上に広がるあの空へ届くどころか、仰ぐ先に蓋をされ、手を伸ばす事も叶わぬと、そう、感じた。
あの碧に届かぬ、おそらく一生届かぬままだと、想った。
彼は父と既に袂を分かっていた韓遂を始めとして、更に近隣の豪族を糾合し、西に兵を向けんとする曹操と対峙する道を選んだ。それは彼にとって必然ではあった。己の心のままに動くなら、誰かに膝を屈し身を屈めるなど許せる筈もなかった。
仰ぐ碧空が他者のものである限り、己はあの高みに手を伸ばせぬのだから。
疾く、何よりも疾く。
人質である父や弟たちに手がかけられる前に、自分は曹操を脅かさねばならぬ。この西へ向ける兵を退き、我等の「空」を取り戻さねばならぬ。
その為なら多少の我慢はしてやろう。母の仇だろうと、己に従い曹操に矛を向けるというなら、容れればよい。その全ての軍を率い、音に聞こえた西涼の騎馬隊の可恐しさを見せてやる。
我はここにあり。この我の頭上にある碧空は誰にも侵させぬ。
この、錦馬超の…そのあざやかな戦振りに「神威将軍」とまで称された己の頭上を遮らせはせぬ。その前に立ちはだかる者などあろうか。ありはしない。
ただ狙うは曹操。その喉首に刃つきつけて討ち果たしてくれん。
それで全てが了(お)わる。その筈だった。
馬超と韓遂をはじめとして、関中の諸将侯選・程銀・李堪・張横・梁興・成宜・馬玩・楊秋の十部隊を率い、軍を動かした。その数、10万。破竹の勢いで彼等は進軍し、長安を抜いた。
だが、馬超は抜いた長安をそのまま置き、潼関を奪取すべく陣取った。
出て来い、とその地で東を睨み据える様に、軍を留めた。
敵はひとり。狙うは洛陽を発した大軍の、その急所。それを定めて馬超は待った。
潼関。そこが足掛だ。そこを押えれば曹操の西征の動きは止められる。同時にここを失えば、西涼に否応なく延びる曹操の手を跳ね除けることは出来なくなる。
しかし長安に篭れば、曹操を追う事は難くなる。必ず曹操は来る。ここに自分が居る限り西に伸びられぬ、その故に来る。長安より潼関。そこが要だ。
都の父や弟、そして妻子は未だ無事だという。命は、という話だ。都という巨大な牢に取り込まれ、動きを封じられている事は想像に難くない。以前都にあって反曹の盟を誓った者たちは、今や亡い。孤立無縁のその場所で、けれど父は、未だ生かされている。
俺がここに留まり曹操を脅かす限り、切り札として生かされて存(あ)る。確信があった。
だから、敗北は許されぬ。
「殿は御無事であろうか」
呟いたのは、ホウ悳(ほうとく)であった。字(あざな)を令明。若い頃から馬超の父に従った男であり、武勇はその軍にあっても随一と云われた男だ。振向けば、その傍らには従兄の馬岱(ばたい)がいる。その表情は険しい。彼もまた当然馬騰の安否を案じながらも、それを言下にせぬのは、その言によって馬超の戦意が揺らぐ事を惧(おそ)れての事だろうか。
ゆっくりと前に顔を向き直り、馬超は低く応えた。
「この馬孟起が敗れぬ限り、」
父上は死なぬ。その言葉の、己の声のつよさだけが、今は真実だった。
曹操は来た。
潼関。この場所で決する。馬超はそう決めていた。馬岱に一隊を預け、側面を切り崩させる。他の諸将もだ。崩すだけ崩せ。そうなれば、勝機は見えてくる。
勝機、すなわち敵の急所。それを一線に目指す。帝という大義を擁し、大義というかたちで己を威圧しようとする敵。それを、狙え。十重二十重に守り固められた急所を暴き、牙を立てろ。
曹操を獲(と)れば、全てが動く。動かぬ父をも動かすだろう。
戦局は一進一退を続けた。数日に渡る戦闘の中、反曹操の旗揚げをした関中の連合軍は優勢のまま持ち堪えたといってよい。前線を後退させるな。この潼関から退くことは即ち敗けだ。そう、馬超は全軍を叱咤している。そしてその馬超の存在そのものが、軍の士気を上げていたのは事実だ。錦馬超―――神威将軍。その二つ名に愧じぬ姿は白銀の鎧をきらめかせ、あざやかな戦袍を纏って常に馬上にある。ひとたび敵中に斬り込めば、その一人で易々と戦局を覆す。その姿あるところに劣勢はない。彼に対する評は信仰ともいえるべき強さで自軍の兵を鼓舞し、敵を畏怖させる。
その熾しい勢いが敷かれた陣を貫き、そして馬超は群がる敵兵の中、漸くそれをその眼前に捉えた。
そこにいる。己の求めていた敵、倒すべきものが、そこにいる。
赤い戦袍が、かれの眼の前にあり、他の全てが消えたと思えるその一瞬。捕えた、と彼ははっきりと思った。
この戦局の、勝機を捕えたと。
「曹賊――――――!」
雄叫びとも絶叫ともつかぬ声がそこにあり、彼の眼の前にはその男のみが存在した。揮う槍に散る敵兵も彼を遮ろうと動く騎馬の敵将達も、味方すら今の彼にとっては無きにひとしく、白馬に跨がり疾駆する銀の旋風が、戦場を稲妻の如く切り裂いた。
獲(と)った、と思えた。
己に振向くその男の、驚愕に見開かれた目が見える。この戦の急所、それが生身の人間という姿でそこにある。それだけが、今の彼の目に鮮やかに映る。そこに向かって、彼は旋回させた槍を振り下ろそうと腕を揚(あ)げた。
だが熾しい衝撃と共に槍は動きを止める。舌打ちして彼は己の槍を妨げた相手を睨み据えた。騎馬で彼の前に割り込んだ、巨大な体躯の将が見える。この戦で騎馬の将としては軽装といえるほどの鎧のみを纏い、しかし己の受けた傷など気にした風も無い、熊の様な男が、唸りを挙げんばかりの形相で馬超の槍を妨げている。
「虎痴!」
「丞相、退かれよ!」
背後からの声に、巨躯の将が叫ぶのが聞こえる。煩わしい、とそればかりを思い、馬超はその男を槍もろとも払い除けようとした。その先にいるのが曹操だ。馬首を翻し、今にも遁げようとしている、あの男が曹操だ。
あの男に届け、と彼は全てを眼中から追い出し、それだけを求めた。熾しい戦闘の最中に、手を伸ばし届けと願ったあの碧空を想った。あそこに、俺の手を妨げるものがある。あれを破れば、俺はあの碧の虚空へ手を伸ばし、今度こそ届く事が出来る。
掴む事ができる。
何を、とは想わなかった。ただ腕を伸ばし、それに届けと、そう想ったばかりだ。俺を妨げる影がそこにある。掴みたいものは、あの向こうに在るはずだ。あれが在る限り、俺はあの苛立ちを振り払う事もできず、息苦しいまま、ただ空を乞うている孩子のまま、僅かも変わらぬ。
あの男を、超(こ)えろ―――砕け!
「!」
その刹那、馬ごと体当たりするように虎痴と呼ばれた巨躯の男が馬超にぶつかり、受け流そうとした馬超は手綱を引いた。そこに歩兵の戈が伸び、足許を失った馬が竿立ちになる。歯を喰い縛り戈を払い除けた先に、自分の眉間を狙う槍の穂先が見える。
馬が嘶(いなな)き、しまった、と想った刹那、馬超の躰が宙に投出された。馬超を捕えろ、という声が聞こえる。その首挙げよ、挙げれば勝利、それなくして勝利はなしと。
しかしその刹那、そこに在ったものたちは、信じ難いものを見た。
落馬させた馬超に留めをさすべく槍を振り被った男の馬が、不自然な形で首を挙げる。首が曲り、前足が宙に浮く。
咆哮がひびいた、と、誰もがそれを聞いた。
「―――――――ッ!」
馬の頭から槍の穂先が突出し、それが徐々に持ち上げられる。その真下に、彼はいた。
滴る血を浴びる白銀の鎧に、血染めの戦袍を纏った鬼神とも紛う姿がそこにあった。彼の両手に握られた槍が馬の頚を下から貫き、馬上の巨躯が砂煙と共に振り落される。嘶きもなく、ただ目を見開き口を開けた馬の頚から血煙が弾け脳漿と眼球が酷くゆっくりと流れ滴り落ちてゆく。その色彩を振り払う様に、彼はいた。
両の脚で地に立ち、荒い呼吸に肩を波打たせながら、彼はそこに立っていた。
暫しその姿に敵兵どころか味方もまた動きを失い、我知らず遠巻きに彼を見る。その中で血振るいをした槍が旋回し、曹賊、という叫びが再び放たれる。
「捕えよ!」
白銀の獣に牙を向けられた男は叫び、その叱咤に全てが呪縛から解き放たれる。喚きかかる敵兵を草でも刈る様に薙ぎ払いながら、彼は先へと進んでいた。馬から墜とされた巨躯の男…虎痴と呼ばれた将は、敢えてそれに応戦することはせず、ただ己の主(あるじ)を守る様に、己の躰を盾にするようにして雪崩れかかる槍の攻撃を防ぎながら、退こうとする。
別の一隊が、逃れる曹操を守る様に側面から合流してきた。ちッ、と馬超は舌打ちし、落馬の弾みで咬み切ったのか、口の中に広がる血の味を地面に吐き棄てる。
「若!」
馬岱の声が聞こえた。蹄の音がそれと共に近付き、振向いた馬超を庇う様に馬岱が敵兵の槍を防ぐ。その傍らにある馬に馬超は飛び乗り、そして槍を振るいながら大音声で叫んだ。
「あの赤い戦袍の男が、曹操だ!」
奴を追え、曹操を逃すな!
その声に呼応するように、ホウ悳の一隊が別方向から討って出る。曹操を目で追い、自軍の動きを確かめながら、馬超は退路を断つべく兵を動かした。
違和感を感じたのは、そのときだった。
兵は動いている。己の手足の如くに、末端までそれ自体がひとつの獣であるが如くの動きを見せている。その動きに、曇りはない。
だが、違和感ともいうべきものが確かに感じられ、馬超は息を弾ませながら周囲を見渡した。
それまで己の意志が、その闘志が具現化したようだった軍の空気に、乱れが見える。譬えるならば、それまではとおくまで響いていた筈の、掌を打ち合せたその音が、渾り曇った空気のなかで殺されている。そんな感触だ。
いやな感じだ、とその戦にあって初めて、馬超は感じた。その彼の意識を読んだかの様に、赤の戦袍を纏った男が、しっかりと周囲を守られたまま彼を振向く。周囲で己の子飼いの将らが激闘し血刀を振るっている戦場の凄惨さと、その中にあって異様なほどに涼しげな姿は周囲から違う空気を纏っているかの様で、馬超は覚えず、眉を顰めた。
男の唇許に蓄えられた髭が、笑みを刷いたと、そう見えたのだ。
「馬超―――、」
その名の如く、超(おど)るがいい、とその男が云い放つ。
曹賊、と彼は歯噛みしながら再び吐き棄て、けれど男は、追われる最中に嗤っていた。
「戦は、力だけでは成せぬぞ」
「黙れ!」
逆上した馬超は叫び、その眼の前で赤い戦袍が遠離かる。
力だけでは、成せぬ。
その声が、彼の脳裡で別の声に重なる。父である馬騰が都に上る直前に、同じ言葉を自分に吐いた。その声が、耳朶奥で、あの曹操の声に重なる。
その声に届け、それを消せ。
この戦場の空気。「いやな感じ」としか形容し難い違和感の中、馬超はひたすらにその男を追い掛けた。曹操の退却する先に韓遂がいる。その旗が見える。退路を塞げ、と馬超は叫ぼうとした。
その目の前で曹操は、なにかを韓遂に叫んだようだった。馬超にその言葉は届かず、ただ韓遂の目が、探るように馬超に向けられる。馬超は呼吸を呑んで、それを見た。
「文約…?」
韓遂と曹操は旧知だ。この乱戦の中、一隊その二人にどんな言葉が躱わされたというのか。
その疑念が馬超の瞳に顕れた。それを、恐らくは韓遂も捕えただろう。
「韓文約、おぬしはかつてその孩子(こぞう)の母親を殺したのだろう。己を仇と見る孩子に加担して、いったい何を得ようというのだ?」
その下で、信を得られると思うてか?
嘲笑う様な声は、今度ははっきりと、馬超の耳にも届き、何かが空気に亀裂を入れたと、確かにそれを、それだけを彼は感じた。
曹操は撤退し、潼関を死守することは叶った。
だがしかし、何かを逃した、と馬超は思っていた。形ばかり、勝つには勝った。だが俺の手は届かなかったと、それを思った。
逃してはならぬ何かを、逃したと。
あの戦場で、眼の前に見た、たしかに獲ったと思ったものが、未だ生きて逃れてある。それがあるかぎり、あの「いやな空気」は払う事ができぬ。
息が苦しい。漠然と、そう思う。息の根を止めるほどの苦悶ではなく、苛立ちと焦りを感じさせる、その煩わしさを振り払いたいと、そう思う。
曹操は、未だそこに在る。そして、
「韓文約、」
この戦の先に、彼は曹操から書簡を受けたと、今更ながらの噂が軍中に流れ始めた。
韓遂が曹操の旧知であることは皆も知る事実だ。だがこうして反曹の旗揚げに加担した以上、敢えていうまいと馬超自身が思っていた。
だが。
「書を受けたのは、事実だ」
問うた馬超に、韓遂はあっさりとそう応えた。書の内容を云々する気は既に馬超にはない。ただ、可恐しく冷えた何かが肚の底に蟠り、それを押える事が出来ない。
つきまとう苛立ちと共にそれを眼光に変えて彼は韓遂を見て、今一度よびかけた。
「文約、」
だがその呼び掛けに、韓遂は低い声で応える。
「叔父とは呼ばぬのだな、超」
「貴殿はまだ俺を超と呼ぶのか」
抑揚のない声が馬超から発せられ、韓遂は僅かに唇許を歪めた。
「お前の母親を死なせた、それをお前はまだ覚えているか」
「忘れるはずもない。だが、過ぎた事だ」
取り返せぬ。今更怨み事を云うつもりはない。
そう呟き、馬超は韓遂から目を逸らした。
「曹賊より書を受け取った、その真偽を確かめたかっただけだ」
「他愛ない挨拶のようなものだ。大した信(手紙)ではない」
もし、お前が疑念を抱くような代物を受け取っていれば、既におれはこの陣におるまい。
韓遂は続け、馬超は頷いた。
行け、という突き放す様な言葉に、韓遂は黙って自分の幕舎へと戻ってゆく。
その気配が消えた頃、馬超は馬岱を自分の傍らに呼んでいた。
「お前にしか頼めぬ、岱」
少数を率いて都へ奔れ、と馬超は彼に託し、馬岱は幾らか驚いた風情を見せた。
「今、この時に若の側を離れろと?」
「この時だからだ」
俺の身は俺が守れる。だからお前は父上と弟を頼む。そう、彼は噛んで含める様な声音で馬岱に言い聞かせた。
我ながら度し難いとは思ったが、死んだ母親の事を指摘され、不意に胸の中に何かが兆したというのが事実だ。あの時も、己の手の届かぬところで戦に巻き込まれ、気付けば母と妹は死んでいた。過ぎた事ではある。だが、忘れる事もできぬ。
「判りました」
馬岱は頷く。馬超より幾らか年長のこの従兄も、その情景を知っていた筈だった。同じような事態が繰り返される事を馬超が惧れている事も、悟ったのであろう。
悟られて、どうということもない。他はともかく岱なら仕方あるまい、という気持ちが馬超の中にあった。幼い頃から側に居る。わかりにくいと云われる己の感情の機微も、この従兄には隠したところで読まれるだろうと。
読まれて、どうという事もない。差し出た事をするでもなく、ただそこに在るだけだ。
「再び軍を動かす時、必ずやホウ令明どのを側に置かれよ」
馬岱はそれを告げ、かの御仁なら、何事があろうとも若の力となりましょう、と宥める様な笑みを向ける。馬超は無言で、それに頷いた。
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