西より来る風 その白銀の光彩(いろ)
 
3
 傷そのものは、無茶な動きをしたが故に広がっていたが、命には別状はないと医人は告げた。由来、強靱な体躯の持ち主でもあり、若くもあれば、じきに塞がるであろうと。馬超本人が繰り返した通り、大事無いという事であった。
 だが出血が多すぎた。そのため、滋養をとり、暫し安静にするようにと、医人はきつく云い含めている。
「強健な将ほど、己の体力を過信して無茶をする。そして、此度のように大事(おおごと)に至る」
 矢の辺り処がわるければ、血が止まらずに命を落とすこともある。そう脅しつけたものの、当の馬超は貧血のゆえに意識を失い、牀台に眠っており、医人の小言に苦笑する破目になったのは、それについていた馬岱とホウ悳(とく)である。
 医人が退出した後、あとは従卒に任せればよいと幕舎を出たホウ悳(とく)を、思いがけず呼び止めたのは、馬岱であった。
 自分はともかく、馬超の従兄弟であるこの青年は側についているものと決め込んでいたホウ悳(とく)は幾らか驚き、脚を止める。
「承奕(しょうえき)殿、」
 岱という名ではなく字を呼ぶホウ悳(とく)に、馬岱は告げた。
「郭援が司隷校尉の甥御であられた事を、若が告げずにおられた事、どうか恨まずにおいて頂けませぬか」
 声を低め、幾分厳しい表情で己を見る馬岱に、ホウ悳(とく)は苦笑した。
「恨みになど思いませぬよ」
 事情がどうあれ、某(それがし)が敵将首を得るという誉れを若より頂いたのは、喜んで然るべき事。そう答えるホウ悳(とく)の中に、確かに蟠(わだかま)りがないと云えば、嘘になる。鐘ヨウの歎きを前にして、手放しで己の功を誇る事ができぬのも、事実だ。
 だがそれで馬超を責めるのも、筋違いというものだろう。己が馬超であっても同じことをした。馬超とて、己で首を挙げられるなら、そうしていただろう。一手遅れたのは傷を負ったが故と、ホウ悳(とく)はそう解釈していた。
 だが、馬岱は尚も固い表情のまま、続ける。
「もし、郭援と司隷校尉(鐘ヨウ)の事を令明殿(ホウ悳)が知れば、命を取らずに縛して戻るやもしれぬ。仮にそうなっても、あの司隷校尉は、乱を起こした甥を赦すことはせぬ」
 そうなれば、己の手で己の甥を斬る事になるだろう。あの司隷校尉ならば、そうするであろう。それは余りに酷い―――
「それを、若が謂(い)われたか?」
 尋ねるホウ悳(とく)に、馬岱は首を横に振る。
「ことばにして、それを謂(い)われる方ではありませぬ」
 だからこそ、倒れるまで痛みすら面貌に顕さず、ただ事の顛末を、その最後まで見届け、己もそれに加担したものとしての責を負う。
「あの方は、そういう方です」
「承奕殿には、判るか」
「判ります―――」
 きっぱりと馬岱は答え、それにホウ悳(とく)は頷いた。成程、と。
 この出陣に際し、主君であり、あの馬超の父親である馬騰に云われた言葉の意味を、漸く彼は知った気がした。
 馬超をたのむと。それだけならば、子を案じる父の言葉とのみ受け止めればよいのだが、馬騰はいくらか不可解な物言いを、ホウ悳(とく)に向けていた。
 即ち、奴を孤(ひと)りで奔らせるなと。
 心に何か蟠りがあるとき、馬超は誰にも何も告げず、ただ孤(ひと)りの胸に留め、行動のみを起こす。それが端から見れば、武力をたのんだ高慢とも見え、理解し難いものとも感じられる。だがそこには、馬超なりの理由がある。孤(ひと)りにするなという馬騰のことばの裏にあったのは、そういう事なのではないかと、ホウ悳(とく)は思い、そしてそれを敢えて言下にした馬岱を、改めて見詰めると、ふと唇許を歪めた。
「成程、年嵩であり、本来なら馬氏を嗣ぐものでもありえる承奕どのが、敢えてあのお方に仕えている理由が、判った気がする」
 その言葉に、馬岱は驚いたように眼を瞠(みは)り、そして羞恥んだように笑って視線を逸らした。
 そして、云った。
「若は、余人が考えるより余程、情の濃いかたです」
 身内に対する情は、特に。馬岱の声に、そこで僅かに、苦さが滲んだ。
「とても勁い方ではあるが、同時にその情が、甘さとも隙ともなる」
 馬岱らしからぬ声の苦さに、ホウ悳(とく)は、その裏に何かがあったのかと思ったが、馬岱がそこで口を噤んだ以上、己が嘴を入れる事ではないと、そう感じ、何を問うこともしなかった。
「心配せずとも、この事が蟠(わだかま)りとなることも、恨みとなることもあるまいよ」
 貴殿のような者が側にあるのは、若にとって幸いだ。問いの代わりにそう云い添えたホウ悳(とく)に対し、馬岱は無言で頭を下げたのみだった。
 

 馬超は一昼夜眠り続け、けれど意識が戻るや否や、未だ動くには早いと告げられているにも関わらず、牀台を抜け出していた。
 韓遂の幕舎を音訪(おとな)った馬超は、流石に脚を庇うために、常から身に帯びていた剣を杖の様についていたが、とても負傷し倒れた者とは思えぬ様で、韓遂も流石にそれには驚いたようだった。馬超が負傷したということは、既に軍中には知れている。
「わざわざ来ずとも、用があるなら、呼べば顔を出してやったものを」
「礼を伸べるために、ひとを呼びつける訳にはゆかぬ」
 幾らか固い声で、馬超は云った。そのように礼に悖(もと)る真似は出来ぬ、と。
「此度の戦にて、我が旗下に文約殿の兵を加えて下さった事、辱なく存じあげる」
 かつて親しんだ頃には叔父と呼んだ馬超が己の字を呼んだ事に、そしてその固い声に、韓遂は僅かに眉を動かし、しかしそれについては、何も云わなかった。
「見事な将になったな、超よ」
 神威将軍の異名(ふたつな)に愧じぬ。馬超の態度はともかく、こちらは叔父として接していた折のままに声をかけ、しかし馬超はそれを意に介する風情はない。
 互いの間に、埋め難い溝がある。擦れ違う言葉は、それをはっきりと示し、しかし韓遂はそれを敢えて見ぬふりをした。
「それを告げる為にのみ、ここに来たか、超」
 問い掛ける韓遂に、立てた剣に凭れたまま、馬超は続ける。
「諍いがあったとはいえ、わが父と韓文約殿は和睦した。この先また、世話になることもあるかと思い、挨拶を、と思ったのみ」
 失礼した、と踵を返そうと脚を引き摺った馬超に、韓遂は更に声をかけた。
「待て、超」
 何か、と素っ気無い声とともに動きを止めた馬超の眼には、ただ冷たい色のみがある。叔父ではなく、全くの他人として接しているのだと、その眼が語っていた。
 それに苦笑し、韓遂は続ける。
「儂は、寿成(馬騰)と仲たがいをしたが、できれば以前の如く、義兄弟として、必要があらば、この力を貸したいと思うておる」
 寿成も、そしてお主も、今の様にただ辺境で賊徒の鎮圧にのみ使われるまま、埋もれて行くには惜しい男だと思うておる。その韓遂の言葉に、馬超は眉を顰めた。
「文約―――」
「伏波将軍の裔(すえ)たる者が、涼州の辺境で一生を了(お)わってよいものか」
「何が、いいたい」
 馬超のうすい色の眸が、微かに険しい色を帯びた。その眸(め)の色が、彼の中に混じる辺境の異族の血ゆえのものだと、韓遂は知っている。馬超の父である馬騰は、羌族の女を母親に持つ。馬超の眼が灰色を帯びているのは、その故であると。
 そして馬超はともかく、馬騰はその羌族の血ゆえに、漢という国にあって幾許かの引け目を感じているらしい事も、韓遂は察していた。同時に馬騰の軍の勁さは、騎馬に巧みな山岳の遊牧民、羌族と立ち混じったが故のものである。己の血に対しそのような引け目と矜持とを同時に感じている筈の複雑な心中が、馬騰の動きを縛る基(もとい)ともなるべきか。韓遂は、あらためて馬超の眼の色に、それを感じる。
 しかしそれには言及せず、韓遂は別の言葉を口に上らせた。
「大した事ではない。ただ、儂には償わねばならぬこともある―――」
 お前も未だ、儂を恨んでおるだろう、超。
 その言葉に、あきらかに馬超の眼差しに動揺が奔った。憤怒とも悲哀ともつかぬ色が掠め、それは険しい光となって、韓遂に向けられる。
 この青年は未だ、母と妹を殺した仇と、己を見ているか。それとも、以前に親しんだ叔父と見るか。その両方か。探るように、韓遂は馬超の表情の動きを見詰めている。
 暫し唇を噛んで韓遂を睨んでいた馬超は、剣を床につき、脚を引き摺るように、改めて韓遂に躰を向けた。
「叔父上―――」
 搾る様に、声が吐き出される。
「問いたい事が、あった」
 あの日から、ずっとだ。そう告げる馬超の声は、常のかれらしからぬ顫えを、僅かに感じさせる。
「叔父上は、あれが母上であると知って、殺したのか」
 母上と妹であることを知り、殺したのか。馬超はそう問いを発し、暫し韓遂は無言だった。
「否」
 馬超に眼をむけたまま、韓遂は抑揚のない声で応える。
「そこに、寿成(馬騰)の妻女がおると知っていれば―――」
 殺さなんだだろう。その応えに、馬超は唇を噛み、視線を落とした。
「我が兵が寿成の妻子を死なせた事を、儂は知らなんだ」
 馬超は無言で項垂れ、その声を聞いている。
 しかし韓遂は云わぬが、その言葉には偽りがあった。殺すつもりがなかったのは事実であるが、その昔、韓遂と馬騰が戦い、韓遂が敗走の憂き目に遭った折、敢えて馬騰の本陣を狙ったのは、その妻子がいることを知り、それを掠奪し、人質ともしようと考えたが故だ。
 その乱戦の中で、馬騰の妻子が命を落としたのは、まさに彼にとって、誤算でもあったのだ。
 だが皆まで云わず、口を鎖した韓遂の沈黙をどう受け止めたか、馬超は顔を挙げ、真っ直ぐに韓遂に視線を合わせてくる。
 そのまま彼は顔を逸らし、今度こそ韓遂に背を向けた。
「もう、云わぬ」
 その背から発せられたのは、決然とした声だった。
「だが、叔父とも呼べぬ」
 ただ、韓文約殿が、我が馬氏の敵とならぬ事は、信じよう。そう馬超は告げ、来た時と同じく、杖のように剣に体重を預けながら、その場をあとにする。
 その背を見送り、韓遂は喉奥でひくく嗤った。それは馬超の若さを哂うのか、己を自嘲するのか、韓遂自身にも判然とはしていなかった。
 だが、判るのは、董卓という存在を失って以来、初めて賭けるべきものを見出した、それに誤りはないという、その一事である。
 涼州に生まれ、そこでいくら実力を備えても、畢竟「辺境の実力者」でしかない。韓遂はそれを身に染みて知っていた。だからこそ、幾度も都にあって自分たちを「田舎者」と見る眼に反発するように、乱を起こしたのだ。
 中央で認められるには、中央への繋がりと確固たる地盤がなくてはならない。それを覆すべく、幾度も誰かを担ぎ上げ、乱を起こした。しかし、いかに画策しようとも、担ぎ上げた相手が小物に過ぎては事は成らぬ。
 そこに現れたのが、董卓であった。反目するような素振りを見せながら、討伐の目的で幾度も小競り合い、その中で董卓は実力を増し、中央に名を知られる様になっていた。そして、折よく放たれた宦官討伐の檄と、それが招いた混乱に常じ、董卓は帝を手中に治め、中央へ乗込み、政権を握った。中華の政治の中枢の色彩を、その男は変えるかと思えた。暴虐と呼ばれる専横は、それまで積み上げられたものを根底から覆す嵐そのもので、その後には新たな何かが産み出されるのではないかと、確かにそう思えたのだ。仮にそれが人の規(のり)を超え、中華の倫理を踏み外したものであろうと、それだけの暴威が、積み上げられたものを突き崩すには必要なのではないかと、そう信じていた。
 董卓の専横を非道と詰るなら、立てた帝が董卓に擁立された存在であるが故に認めぬと、新たな帝にすげかえようとする中央の人間の為すのは非道ではないのか?あのとき袁紹が董卓の立てた帝を認めず、新たな帝を余処に求め、兵を起こした。だがその故に、漢朝の権威は失墜したのではないか?我等にとっては思う壷であったが、中央の人士は何故、あの反董卓連合の結盟を非道と見ぬ?
 韓遂にとっては、そう見える。非道と非道がぶつかれば、勁いものが生き残る。それが乱世だという思いが、彼の中では真理でもあった。
 しかし董卓は、己が子飼いのヘイ州人・呂布に見せた隙の故に、道半ばにして倒れた。その後に呂布を追い落とした涼州の兵は、担ぐに足らぬ御粗末さしか持たぬ者だった。それ故に、今の曹操という存在を赦すに至る結果となったのだ。
 韓遂は思う。ならば今いちど、この涼州の風を都に吹き入れる存在が、他にはないか?もはや何者も残されておらぬか?
 そうではない。未だ、道は残されている。
 董卓は、その武力をたのみにし、義子ともなした呂布に裏切られたが、「あの男」には呂布にも匹敵する武勇を持つ「実の息子」がある。
 その武勇と、そして「あの男」が固執する漢の名族としての矜持と、涼州で培った地盤。それがあれば、今すぐに全てを覆すことはできねど、着々と力を蓄えてゆくことは出来る。
 問題は、と韓遂は思った。問題になるのは、あの馬騰という男が、落魄しながらも、伏波将軍の裔たるその血筋に固執し、それゆえに、既に己を遠ざけた筈の漢朝に恋々と固執し、その許での栄達に拘泥ることだ。そう、思っている。実力の伴わぬ官職で縛られれば、逆にそれは枷となる。天子の側近く侍ることを赦されても、その天子を別の強大な力が囲い込んで仕舞っている状況では、意味がないことだ。
「何、寿成が動かずとも―――」
 息子は未だ、骨がある。韓遂はそう一人ごち、嗤った。漢朝という大義に縋らずとも、我は我という気概を、あの馬超は既にして持っていると、そう見える。余人にとって傲岸とも見える態度は、その毅然とした地盤の上で立っているが故の事であると。
「頼もしい息子を持ったものだ、寿成。羨ましいぞ」
 呟く声を、未だ聞くものはない。彼の思いを薄々ながら気付くものがあったとしても、今はまだ、何も事は起こっておらぬ。
 ただ彼は、利用するべきその相手を侮るのではなく、敬せねば動けぬ。それに賭けてしまってこその野心だと、それを自覚していた。それこそが、己の弱さであり、自らが上に立つことのできぬ所以なのであると。
「お前が思っているよりずっと、儂はお前を高く買っているのだがな」
 韓遂はそうひとりごち、今はここにおらぬ友と、その息子である青年とを、同時に思い起こしていた。
 今し方、己を鋭く睨みながらも、未だ憎み切ることのできぬ、あの甘さがあればこそ、今しばし賭けるに足る。命取りとなる甘さは同時に、今の自分にはつけいる隙ともなる。馬騰が動かずとも、馬超を動かす事は出来ると、彼はそう見ていた。
 

 脚を引き摺る馬超は、己に宛てがわれた房へ戻ろうとした眼の前に、馬岱がいたことに幾分驚いた。
「岱―――」
 呼び掛ける彼に、馬岱は無言で手を差し伸べ、しかし馬超はその手を取る事なく、歩を止め、床についた剣に縋ったまま、苦笑を浮かべて顔を逸らした。
「若、」
 まだ動くなと医人は云っておられたでしょう。そう、咎めるような声をあげた馬岱に、視線を逸らしたままの馬超から、低い言葉が向けられる。
「お前は、俺が会いたくないと思う時には、必ず現れるな」
 余りな言いように馬岱は返す言葉もなかったが、ふと溜息を吐いた馬超は剣から手を離し、己の前にある、その2つばかり年長の従兄弟の腕を掴む。
 そのまま、剣に預けられていた馬超の重みを受け止めて、馬岱は馬超の表情を伺おうと顔を向けたが、しかしそれを見られる事を厭うように、馬超は馬岱からは顔を背けたままで、ただ肩だけを凭せてくる。
「韓文約に、会ってきた」
 その言葉に、馬岱は頷いた。
「存じております」
 お話をなさいましたか、と重ねて問えば、馬超は頷き、再び疲れたように深い息を吐き出す。
「俺は今、さぞかし情無い面をしているのだろうな」
 そう自嘲する馬超に、馬岱は無言で、ただ苦笑のみを漏らしたに留まった。その気配を察したか、嗤うな、という声が呟きのように馬超から発せられる。
「若、」
 腕に縋る馬超の肩を、もう一方の空いた手で掴み、寄り掛かる躰を立て直させると、馬岱は漸く顔を挙げた馬超の表情を眼にうつし、ぎくりとしたように動きを止めた。
 険しい眼差しが、そこにあった。憔悴したような表情の中で、そのうすい色の眸ばかりが真鉄(まがね)にも肖た耀きを帯び、それはまるで熾しい瞋りを湛えているとも、また胸の奥に沈む悲哀を耐えているとも見えた。
 その色彩に、馬岱の耳朶奥に、戦の前に顔を合せた韓遂が語った言葉が甦る。よもやあの男は、それを馬超に告げたというのだろうか。それに馬超が動揺を見せているとでもいうのであろうか。
 だが、そうではないということが、次の馬超の言葉に知れた。
「岱、おれは、」
 二度と、あの男を叔父とは呼べぬだろう。
 そう、馬超は云った。
「今やあの男は、馬氏と盟を結んだ、すなわち父の友だ。だが二度と、おれはあの男を叔父とは呼ばぬ」
 呼べぬ、と馬超は言い直し、その中にある馬超の葛藤を、確かに馬岱は見た気がした。
 馬超は端で思うよりずっと情が濃い。先にホウ悳に告げた己の言葉を、馬岱は思い起こす。それは、事実だ。己に刃を向ける敵に対しては一片の容赦もないが、しかし一旦己の身内に容れ、心を赦した者に対しては意外なほどの甘さを見せることがある。
 かつて己が叔父と呼んだ男が、幼い己を息子の如くに扱った、それを覚えているが故に、今またその男が父の同盟者となろうということを喜ばねばならぬという思い。それと同時に、一度は敵となり、赦すまじと心に決めた筈の男を受入れねばならぬという、割り切れぬ思い。
 その間で揺れる馬超はしかし、未だその男が己の母と妹を殺したのだという事実を忘れ得ぬままにある。その感情の揺れこそが馬超の甘さだと、はっきりと馬岱は悟っていた。
 そしてそれ故に、馬超が、韓遂が零したように、董卓の如き存在となる事はできぬであろう。失った妻や子の代わりに、新たに妻を入れ、子を為せば終わりだと云い切り、全てを割り切ってしまうようなところが、馬超には欠けている。
「―――忘れてしまわれるか?」
 馬岱は、己の主君から顔をそらし、そう云った。
「躰に傷をうけようと、その傷が塞がってしまえば、痛みはない。元の如くに馬に乗り戦場を駆け巡ろうと、そこに傷がなくなってしまえば、痛む事はない」
 今はそれが痛み、歩くことすらままならずとも―――
 馬岱はそう云い、驚いたように顔を挙げた馬超に、眼を向け直し、微笑した。
「そのほうが、楽になれましょう」
「岱、」
 馬岱の言葉は、馬超の意表をついたらしい。眼を見開き、暫し茫然と馬超は彼を見上げていたが、ふとその顔が歪んだ。
「―――は、」
 乾いた声が零れ、それは肩を顫わせる笑声に代わる。暫しそのまま笑い続けた馬超は、軽く眉を上げ、馬岱を見上げると、幾分皮肉を交えた声で、云った。
「お前は時折、可恐しい事を云う」
「そうでしょうか?」
 笑みを浮かべたまま馬岱は応え、そうだとも、と馬超は切り返すと、片手に未だ掴んでいた剣を床につきなおし、馬岱の肩を借りたまま、躰を立て直した。
「確かに傷が癒えれば、痛みはなくなる」
 だが、傷を負ったという一事は、忘れずに残る。そう、馬超は続けた。
「忘れぬよ」
「若、」
「怨みはせん。怨み言を云う事もない。だが、忘れることもせぬ」
 それでもあの男は、馬氏が佐けになるという。馬超の声は先の翳を払拭し、常の明るさを取り戻したようだった。
「ならば馬氏が嫡男として、父の同盟者たるその男を容れる。それだけの事だ」
「若、」
 馬超の手が馬岱から離れ、けれど今度は、馬岱の手が、馬超の腕を、支える様に掴む。その支えに躊躇うことなく身を預け、再び馬超は歩き出す。
 歩き出しながら、言葉は続いた。
「司隷校尉(鐘ヨウ)も、ホウ悳とおれが郭援を斬った事を怨みはせぬが、忘れもせぬだろう。それと同じだ。戦にあって起こったことを、戦にあらぬ場で女々しく云い立てる事もならん」
 了(お)わった事なら、尚更だ。あの男は敵ではない。敵ならば討ち果たせばよいが、それもならんだろう。
 馬超の声を聞きながら、馬岱は頷き、そして呟いた。
「若は、勁い―――」
 否定も肯定もなく、馬超は前に顔を向けている。馬岱は続けた。
「楽になる道を、拒まれるか」
「同じ過ち二度と繰り返さぬ為には、必要だ」
 きっぱりと応える馬超の声のその勁さ。その言葉の勁さが、馬超の馬超たる所以だと、馬岱は思う。だからこそ、この方こそが、涼州にある馬氏を嗣ぐべき器なのだと、そう自然に思える。
 そして己はこうして、それを支える立場にあればよいのだと。
 たとえ韓遂が何を画策しようとも、馬超の勁さがそれを跳ね退ける。誰の意の侭にもならぬ、それが馬氏を率いる力で、矜持なのだと。そう馬岱は感じ、せめて己が、この主を狙う鏃からそれを守る盾ともなればよいと思えた。
「もう、云わぬ。過ぎたことだ」
 お前も云うな。そう続けた馬超の声に、ただ馬岱は是(はい)と応え、頷いた。
 

「傷が癒えるまで、残られてはいかがか」
 未だ傷口を縛ったまま、それでも動くに支障はないところまで回復した馬超は、すぐに軍を纏め、父の許へと戻るべく、手筈を整えていた。
 鐘ヨウはそれを留めようと、言葉を尽くしたが、馬超の意志が翻ることはない。
「矢傷が完治するまでは、馬に乗る事は避けたがよいと、医人も云うておられた。それに、」
 その間に朝廷より沙汰があり、此度の戦功を賞して、恩賞とあらたな官位が得られるであろう。鐘ヨウはそう続けたが、馬超はきっぱりと、否という応えを返した。
「それについては、父を通されよ。恩賞があるというなら、我はその父の許にあって、それを受ける」
 涼州の馬氏が嫡男として、己の土地で、それを有難く拝命するであろう。そう、馬超は応え、あざやかな笑顔を向けた。それに気を呑まれた態で、鐘ヨウは口を噤む。
 ここに長く留まるつもりはないのだと、馬超のその表情が告げていた。父親の許で馬氏が軍を率いてこその己であり、余人の許で官位を得ても、それは彼にとって栄達ではないのだと、裏の声を鐘ヨウは聞いた思いで、その勇猛なる青年が馬上の人となる様を見ている。
「それに、これは我が兵ではあるが、同時に馬氏の兵。すなわち、父のものだ。その本来の場所戻さねばならぬ」
 その他の場所では、この兵は馬氏が騎馬隊ではなくなる。そう馬超は告げ、その言葉に、曹操の兵ではないのだという、嬌慢とも受け取れるだろう拒絶を見た。
 もはや言葉はなく、馬超は西へと兵を返す。それを見る鐘ヨウは、惜しいかな、とひとり呟いた。
「惜しい哉」
 あれほどの兵が我が君の許に心服すれば、関中は定まろうものを。
 そう呟く彼の中には、己が天地を求める騎馬の部隊に此度は救われはしたものの、いずれ脅威となるのではないかという、漠然とした不安が兆している。
 彼の上にあり、帝を擁する曹操という存在に、あの馬氏が心服せねば、いずれはそうなるであろうという予兆がある。天下を望む曹操という存在が、半ば独立したようにそこにある勢力を、指を咥えて見ている筈もない。また、そういう存在があれば、何者かがそれを担ぎ出し、また乱がおこらぬとも限らぬ。
「しかし―――」
 手を焼く事であろう。そう、鐘ヨウは思った。
 同時に、未だその勢力が漢朝の大義に従うものであれば、己の裁量で、それを最もよい方向へ導くことも可能かと、そうも思えた。
「背かぬ限りは、心強いと思えるであろうか。しかし、」
 呟く鐘ヨウの中には、あのあざやかな「神威」の将が何者かに手綱と轡をつけられる様など想像もつかぬのも、事実ではある。
「見事な漢ではある」
 嘆息する彼の中には、未来の不穏と同時に、その青年の戦ぶりと果断さに対する感嘆がたしかにあり、それは悪い心持ちではなかった。
 
 

 建安六年、平陽において馬超は司隷校尉鐘ヨウの許で、侵攻する南匈奴の単于と郭援・高幹らを討伐し、その功によって、徐州刺使に任じられる。しかし後年に曹操によって馬超が都に招聘された後も、自らは都に上ることを拒み、また官位も受けず、ただ涼州の地にて父親より引き継いだ軍を纏める事を自らに以て任じている。
 そして、曹操に仕える事を拒み、漢中において、あくまで西涼の軍を率いる者として、己の天地を守るために、韓遂ら関中十部軍と連合し、挙兵することとなる―――

  INDEX

お、終わりました。思うたより長くなってもうたよ。201年、若26歳。食べざかりです<意味ちがうからソレ。落着け。興奮すんな。
 なんか前に書いたよりも幼くなってしまった気がするんですが、いわゆる潼関の10年前のエピソードです。実は潼関以前の「それらしい」戦功というか、「勝ち戦」っていうのがコレしかないんじゃないかとオソロシイ事に気付いてしまったりした錦馬超。しかも曹操配下ですこの時点では(一応)。
 でもこれ書いてて韓遂の動きが面白いだとか、鐘ヨウが結構に強かな男だとか、張既というオイシイ存在がいたりとか、いわゆる関中での動きも面白いなあと。ツッコミ所がいっぱいだなあと思ってしまいました。特に韓遂。あんた潼関でかけられた離間の計ってば自分でやってるじゃん。樊稠をハメてるじゃん。なのに自分も同じ落とし穴にひっかかってるんですか。ボケたんですか(違います)。ゲームの知力パラメータは、もしかして過小評価?と思ったんですが、そうでもないということなのか(失礼な)。
 そんでも西涼で「軍師」役を出来る人間というと、この人だけなんだなあと改めて。力量や目指すものはいわゆる小物くさいんですが、それでもバッツィリ裏の悪役というイメージです(私見そして偏見)。でも好きです。董卓と韓遂の話(地味っつーか何つーか)、やっぱりちっと突っ込んでみたいところかもしれません。
 でもって岱。書いてゆくほどに立場が勁くなっているような気がしてるんですが、それは気の所為でしょうか。途中で何度か、ホウ悳に敗けるかな?と思ってたにも関わらず要所になると前面に出てきてしまいました。何ソレ。自分もしかして、岱を無意識に贔屓しちゃってるんですか。
Tue Jul 15 22:50:09 2002 にしい圭人