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夜陰に浮ぶその姿に、甘寧は微かに眉を上げた。
不寝番の兵等が灯す炬火も届かぬその場所に、まるでその炬火よりも更に向こうの対岸を睨む様に顔を上げ、腕を組み、そこに存った。
戦の最中、敵と対峙する折、その人は確かにこうして陣を見回る事もある。鎧を纏い披風を翻す姿はそれだけで陣に緊張を漲らせ、士気を上げる。常ならば、そうだ。前触れも無く総指令官が夜に現れるその後に、必ず何等かの動きがある。その次の一手を探る様に敵陣を望む姿に、兵は高揚する。
しかし。
「都督―――、」
鎧は着けず戎衣のみの軽装で、夜気のつめたさをしのぐ為であるのか披風(ビーフェン:肩衣の事)を肩に羽織る姿は、今ここにあるべきでない、あってはならぬものだった。
かけられた声に振向くその顔は酷く血色が悪く、窶れて見える。それは夜の昏さの引き起こす錯覚ではあるまい。音に聞こえた生来の美貌はその故に凄艶な翳を帯び、ただ夜明かりに眸ばかりが鋭い。
「周都督、」
甘寧は繰り返し呼び掛け、その姿に近付いた。鋭いが険しさのない眉の当りは疲労を隠し果せずに僅かに顰められ、誰何の声を挙げ掛けたのだろう口が言葉を吐く事なく、ただ眼ばかりが彼に向けられている。
周瑜。周公瑾。この軍の指令官がそこにいる。それに何の不思議もない。しかしその人は先の戦闘で負傷し、暫し牀より動くべからずと医人にきつく言い含められていた筈だった。それが無理を圧してここに存るということは、何か変事があったという事か。
だが甘寧の懸念は、その相手が大義そうに呟いた言葉に、杞憂であると判明する。
「…程公には内緒にしてくれ」
程公。つまり、この軍に周瑜と共にその責任者として存る古参の将、程普の事である。総指令官は周瑜であるものの、その自分の父親とも言える年齢の副将を、周瑜は常に立てていた。程普もまた越権を行なう浅慮はないが、負傷している彼が勝手に起き出したと知ればきつい苦言を呈する事であろう。それを怖れる子供の様な言いぐさに甘寧は聊か呆れた。
「何をやってるんですか、あんたは」
用があるなら従卒を呼べばいい。小便ならこんな遠くに態々起き出して来る必要もなかろうに。そう続けた彼に、周瑜は苦笑を浮かべた。
「やはり、拙いか」
「拙いな」
普段のあんたならともかく、総大将ともあろう者がそんな疲れ切った面でふらふらあるかれたんじゃ、士気が挫ける。その甘寧の言葉に周瑜はやはり大義そうに溜息を吐き、肩を押えた。
「眠りたい。眠らなければならんと思うのだが」
痛くて、眠れん。
その言いぐさを笑うべきか否か、一瞬甘寧は戸惑った。確かに云い様はこどもの駄々にも等しいが、しかしこの負けず嫌いの頑固な男が、戦にあってその傷にこれほど素直に「痛い」などと弱音を吐く事は、まずなかったと云っていい。
相当に酷いらしいな、と甘寧は眉を顰めた。
傷は、矢傷である。先に攻撃を仕掛けた時、苦し紛れに敵兵が撃った矢が、馬上にあった彼を襲った。頚近くに突き立った矢は鎖骨を直撃したらしく、肉のみならず骨を穿たれた衝撃は、彼を背中から落馬させた。受け身を取る事も叶わず背中を強打し、それでも意識を保ったのは彼らしいというべきか。
「なら眠る努力をしたらどうです」
こんな処に起き出して来て、外で寝るおつもりで?
そう皮肉げに続けた甘寧に、周瑜は苦笑し、応えた。
「少し躰を動かしてみれば、眠れるかと思ったが」
逆効果だった。余計に痛む。そう云う彼の顔色が殆ど土気色を帯びており、甘寧は彼に歩み寄ると、失礼、と呟いてその肩に、続いて頬に触れた。
「熱が引いてねえ。それで動きゃ、痛くねえとこも痛くなろうってモンだ」
ちゃんと何か喰ったか、と尋ねる甘寧に周瑜は頷く。
「だが、全部戻した」
「汚ねえな」
「仕方ないだろう」
矢傷を受けたのは初めてではないが、骨に傷を受けるのがこれほど堪えるとは思わなかった、と周瑜は溜息混じりに呟くと、自分の額に手を宛てる。
「…骨に矢が当る音が頭に響いたぞ。挙げ句、背中から落ちた所為で程公に気を入れて貰うまで息は止まるし、痺れて躰は麻痺しているし、」
意識があるぶん、痛いより怖くて汗と顫えが止まらなかった。その周瑜の言葉に、甘寧は軽く眉を上げる。
「挙げ句、痛みで吐いたんだろうが。兵糧の硬い飯なんぞ喰うからだ」
手間かかっても、粥か重湯でも作らせりゃ良かったんだ。兵卒と同じものを喰うのは平時はいいが、こういう時は迷惑を増やすだけだぜ。
手厳しい言葉に周瑜は流石に苦笑を浮かべ、そして応えた。
「美徳のつもりではなく、粥では喰った気にならんと思っただけだ。腹は減っていたからな、」
「その怪我でまだ腹が減ったとほざくか、あんたも」
呆れたと云わんばかりの口調で甘寧はやり返し、傷に障らぬ様、怪我をしている肩の逆側の腕を掴み、自分の肩に回させる。
「興覇?」
「寄り掛かれ。幕舎まで引き摺って、牀台に放り込んでやる」
眠れねェんだろ、と彼は幾分含みのある笑みを、病気の子供が我侭を通すが如くに起き出した指令官に向ける。
「任せな。とりあえず、明日の朝まで僅かでも寝める様にしてやる」
触れた戎衣が汗を含み、冷えている事に甘寧は気付き、しかしその寒さを感じている筈の当の本人は、またも幾らかずれた応えを寄越してくる。
「殴って昏倒させるというのは、なしにしてくれ」
「誰が怪我人殴るかよ」
いっそそうしてやりてえが、と甘寧は僅かに苦い笑みを浮かべた。
「あんたには借りがある」
「借り?」
「あの戦で、」
あんたが焦って前に出たのは、俺が夷陵で囲まれた時に、思ったより手間ァ取らせた所為だ。そう、彼は自分を見上げる周瑜から視線を逸らし、呟く。
微かに、周瑜が笑い声を立てたようだった。
「気にしていたのか」
「そりゃそうだ。援軍がなけりゃ、全滅するとこだった」
あんたが俺たちを見捨てて、敵の本隊の追撃に移っていたら、俺はここで生きてねえ。
その甘寧の言葉に、周瑜は否、と応える。
「その件なら、子明に礼を云うんだな」
子明が援軍を出す事を強硬に主張しなければ、面倒だから見捨てようと思っていた。
冗談混じりのその科白に甘寧は流石に絶句し、そして云った。
「棄ててくぞ」
「酷い男だ」
「あんたはもっと酷ェ男だよ」
子明がいなけりゃ、俺は見殺しにされてたところだ。そう続ける甘寧の声は、しかし笑いに顫えている。
「ンな事考えてっから、バチが当ったんだぜ。ざま見ろってんだ」
「…そうかも、しれんな」
弱く呟き、吐息が笑いの色を帯びた。
「お前の配下の兵を全滅させては哀れだ。罠とはいえ、夷陵は要地。それを奪った功績も認められぬままに斃れるなど」
「ともかく援軍は来た。あんたのお陰で俺はまだここで生きてる。それには、礼を云うぜ」
「…公績が背後で持ち堪えてくれたお陰だ。加えて子明の策で敵の馬を奪えた。思ったより実入りのいい戦には、なったか…」
俺よりその二人に、あとで酒でも奢ってやるがいい。そう疲れた声で続けた周瑜を自分の幕舎に引き摺り込み、牀台に座らせると、甘寧は頷いた。
「考えておくさ。まさか凌公績が俺を救う策に乗ったのは確かに意外だったからな」
公績―即ち凌統は、甘寧が以前、戦で自分の父をその弓矢で射殺した事を、遺恨に思っている。剣を抜き、主君である孫権の面前で甘寧に斬りかかろうとして、取り押えられた事すらある。その凌統が敢えて私情を押え、甘寧救出の策に表立って異を唱えなかった事は、彼にとって意外ではあった。
だが、周瑜は頚を横に振る。
「意外ではないさ」
公績は私情で戦局を見誤る男ではない。そんな将に育てた覚えはないからな。
その周瑜の言葉に甘寧は苦笑し、あの餓鬼もそれだけ大人になったかよ、と呟きながら、幕舎の中にあった酒瓶を探る。
「酒か?」
「いや、」
ただの酒じゃねえ、と彼は応え、それを杯に注いだ。
それを周瑜に手渡すと、受け取った男は眉を顰めた。匂いも色も、普通の酒としか思えぬ。だがその中身が何であるか、おぼろげながら彼は推察したらしい。
「薬酒か?」
「普通の薬酒とは、少し違う」
重ねて問われ、甘寧は幾分含みのある笑みを向ける。
「その中にゃ、南方で取れる草の葉が漬け込んである。船に慣れてねえ奴が、船酔いするだろ?」
普通は暫く放っておきゃ躰が勝手に慣れるもんだが、中にゃどうしても慣れずに、起上がる事も出来なくなる奴がいる。そういう奴に少しだけ飲ませてやる酒だと、彼は云った。
「俺は船酔いなどせんぞ」
水軍を率いる将師でもある周瑜が船酔いしたなど、確かに聞いた事はない。第一、今は船上ではない。だがその反論に苦笑し、甘寧は続けた。
「聞けよ。…この草を漬け込んだ酒は覿面に船酔いを抑える。だが、使いようによっちゃ、痛み止めにもなる」
俺が船を使わねえ戦にもこれを持ってる理由がそれさ、と笑う甘寧に、周瑜は手の中の杯を、未だ不審げに眺めていた。
「医人も余り使わねえが、効果はある。ただ幾らか眠気がさすからな、滅多に使うこたねえんだが」
眠れねェんだろ?そう尋ねる甘寧に、周瑜は顔を上げた。
「但し、その草は本来は毒草だ」
使い方を間違えれば人を殺す。そういう胡散臭い代物だ。
その言葉に、周瑜は軽く眉を上げ、皮肉げに尋ねた。
「見殺しにしかけた意趣返しか」
「莫迦云うな。指令官を殺してどうするよ」
加減はしてある。望み通り痛みを忘れて眠れるだろうぜ、と甘寧は肩を顫わせて笑った。
「ただ問題は、ある」
眠る前に幻覚を見る事もある。そう、甘寧は続け、周瑜は瞬きしてその意味ありげな笑みを見上げている。
「眠りにおちる前に意識が朦朧として半醒半酔の状態になるが、その時に譫言を口走る事がある。心に溜めて、人に漏らすまいとしている事を声に出しちまう事が、ある」
人によっちゃ悪夢を見る事もある。
「…危険だな」
甘寧の言葉に周瑜は頚を傾げ、手の中の杯を軽く揺らした。
「怖いか?」
「いや、」
成程、胡散臭い代物らしいと思っただけだ。そう周瑜は呟き、揶揄を含んだ声で問い掛ける。
「しかし、甘興覇ともあろうものが、こんな薬に頼ることがあるのかと、」
「俺がそれを痛み止めに使う事は、滅多にねえよ」
にやりと彼は笑い、続けた。
「云ったろ、まっとうな医人なら使う事はねえってな。俺がまだ郷里で暴れてた頃、稀にだが、酒の酔いじゃ足りねえ時に使ったもんさ」
巧くすりゃいい夢を見て、起きたら何も覚えちゃいねえ。自分の躰が宙に浮いた様ないい気分が長いこと続く。余計な煩わしい事をその時は一切合財忘れちまう。そういう莫迦な遊びを、覚えた。その言葉に周瑜は喉奥から唖いを零し、成程、と呟いた。
「まあ、こっちに来てからはやってねえ。気休めに持ってたって処か。だが、」
合わねえ奴はとことん合わねえ。よからぬ幻を見て、いっとき狂った様な不状を曝す事になるがな。そういう甘寧の言葉を聞きながら、周瑜はただじっと、杯に満たされた不穏な液体に映っているだろう、己の姿を眺めている。
「どうする、都督」
無理にとは云わねえ。このまま自分の幕舎に戻って痛みを堪えながら眠る努力を朝まで続けるもよし、
「それとも、余計な事を口走るのが怖ェなら、俺じゃなく別の奴を呼んで来ればいい。例えば、子明―――」
「いや、それは困る」
もしその気があるのなら、と周瑜は甘寧を遮った。
「お前が、ここにいろ。そして誰も近付けるな」
その言葉の真意を計りかね、訝しげな表情を浮かべる甘寧に、周瑜は唇許を歪めた。
「程公も駄目だ。かといって兵卒にこの姿を曝す訳にもゆかん」
だからお前がここにいろ。幾分つよい語気で周瑜は云うと、一気に杯の中身を呷った。
「都督、」
「俺が何を口走ろうと―――」
お前には、その意味は図りかねるはずだ。そう、周瑜は冷笑を浮かべ、空になった杯を甘寧に突き返した。
「だが、子明や程公には聞かれたくない。彼等は、」
過たず俺の言葉の意味を悟る程には、俺と長く過していた。その言葉に甘寧はふと己の胸の中に疼く苛立ちの様なものを覚え、眼差しに険しさを添える。
「確かに俺は、あいつら程あんたの事を知っちゃいねえがな」
意味が判らんでも、耳にした譫言を覚えてて、後からあんたを脅す事もできるんだぜ。そう続ける声が含む恫喝に、しかし周瑜の憔悴した頬に浮んだのは、揶揄を含んだ唖いばかりだった。
「お前如きが―――」
俺を脅せるものか。それをしてお前が何を得るという。何の得になるという?
「益のない事だ。違うか」
「判らねえぞ」
あんたの心底怯える面を拝みたいだけかもしれん。その程度にゃ、俺の神経は下種に出来てる。
だがそう云う甘寧を鼻先で唖い、無駄な事だと周瑜は呟き、薬酒が回り始めたか、酷く疲れた様な息を吐いて、牀台に手をついて躰を支えた。
「俺は、子明の半分もあんたを知らねえ。俺が江東に流れて来るまで、あんたがどんな風に生きてたか、それも知らねえ」
敢えて知ろうと努力もしなかった。あんたも、俺の過去なんざに興味はねえだろ?
問い掛ける甘寧に周瑜は応えず、ただ深い呼吸とともに、その頚ががくりと力を失った。
傷をうけた肩を庇うように牀台に崩れ、踞る姿を、甘寧は冷やかに見降ろしている。
「あんたを、」
理解しようとは思わねえ。あんたの過去なんて重い荷物を一緒に背負ってやるなんて真平だ。ただ、確かに興味はある。周公瑾が、そのお綺麗な面の皮一枚の下に隠しているものが何なのか、覗いてみたいとは、思うさ。
「なにがどうなりゃ、こんな怖ェ男が出来上がるのか」
「…怖い、か?」
俺が?そう、彼は視線だけを上げて怠そうに呟いた。
「ああ、怖いね」
野心も本音も堂々とお天道様の下に曝して臆することもなく、かといって手の内を全部見せちまう訳でもない、そのギリギリの処で平然と立ってる奴は怖い。
その言葉に、踞ったまま周瑜は背を顫わせ、くぐもった嗤い声を立てた。
「買いかぶりだな」
「それでも、」
酒にすら酔う姿を見せねえ奴の本性を引き摺り出して、巧くすりゃ泣きっ面を拝めるかもしれねえだろ。
「泣き喚かせてみてェ面してんだよ、あんたは」
「悪趣味なことだ」
熱に浮された様な声が低く顫え、吐息が僅かに浅くなる。踞り乱れた髪の隙間から甘寧を見上げる眼が幾分焦点を失いつつあるのが、端で見ている甘寧にも判った。
それに物騒とすら言える笑みを向け、半端な姿勢で転がったままのその背に手を回すと、甘寧は牀台に躰を完全に引き摺り上げてやった。
「俺の本性など、」
既に半分眠りにおちている様な声が、まるでひとりごちる様に呟いた。常の明瞭さと覇気を削り取られた声は、それでも未だ理性の片鱗を残している。
「別に隠している訳でもない―――露悪趣味はないからな…不要な事は過剰に語らん、それだけだ…」
その言葉を、甘寧は牀台の端に腰掛け、無言で聞いている。片腕で目元を覆い、しかし未だ何かが彼の理性で邪魔をしているのか、意識の弦を手放すまいとしている様な風情が認められ、しかし甘寧は何を云う事もしなかった。
この薬は躰を先に眠らせる。力を抜けば、そのまま深い眠りの淵に引き摺り込まれるように頭も休まるだろう。逆に躰が欲する眠りに引き摺られる事を怖れ抗えば、無理に覚醒状態から引き剥がされた意識が夢と現の間で不安定にたゆたい、その時に見たくもない幻視を引き起こす。だからこれを飲ませた奴が眠りこけそうになった場合は無理に起こさず寝かせておけ。但し、眠るためでなく愉しむ為にこれを飲んだなら、睡魔に無理にでも抗ってみろ。そうすれば、巧くすれば桃源境とも言える心地を味わえる。
この薬酒で遊ぶ時の鉄則がそれだった。だが敢えて甘寧はそれを伏せ、恐らくは無意識に側にいる自分の存在を気に留めて意識を手放せぬ男を、幾許かの興味をもって見降ろしている。
「程公が、」
あんたは極上の酒の様な男だ。知らず知らずに酔わされる。そう云ってたそうだな。
その問い掛けに、周瑜は僅かに唇許を歪めたらしい。
「それは、俺が―――」
彼の人に好かれたいと思ったが故の事だ。それを欲(のぞ)めば、自ずと相手の気に沿うように心が動く。その応えはどこか虚ろで、言葉が偽りでない事が知れるだけに不思議な違和感を覚える。
それは甘寧がいつもこの周公瑾という男を見る時に感じるそれに近いかもしれなかった。洗練された物腰と良家の御曹司らしい品の良さ。それを讃えられる男はしかし、瞋る時は烈火の如く、嫌悪を覚えれば氷の如くで、感情の起伏ははげしい方だと云ってよい。品の良いと云われる人種は本来その激情を完全に覆い隠すものではあろうが、この男はそれをしない。その切れ長の眼は至極己の内側に正直にその色彩を顕すのが常だ。それが江南の人間の気性だと云えば、そうなのだが。
だがその正直な感情の発露に、何故か常に違和感を感じたのは何故なのか。
恐らくは、それをする己をつめたく見ている様な部分を、この男の内側に感じたが故でないだろうか。そう、甘寧は思う。逆上する時も歓びを露にするときも、この局面ではそうせねばならぬと教えられた故に、それを顕す。顕せと命じられたが如くに。そう存りたいと願うが故に。
それが、証拠に―――
この男はよく笑う。唇許を歪めた冷笑は殆ど習い性になっている様だが、そうでなくとも、時に声をたてて爆笑し、時に甘寧が驚くほど穏やかに微笑する。
だが、しかし。
感情の温度ともいうべきものを、その笑顔に感じることは、滅多に無い。笑みそのものは暖かい。生来の造作の美しさ故に、その笑顔は人の心を掴む。だが常にそれに違和感を感じるのは何故だ。確かに表情を作る心の動きは真実であろう。だが常に何かが蟠っている様な不穏を感じるのは、何故だ。
そこに存る己を、その感情の動きがあることで本人が確認をし、安堵しているような風情。そう、感じた事が存る。それをせねば己が不安になる、己を見失い掛ける、それを怖れる様に人らしく振る舞う、その風情。その人らしさが人を惹く。だが、しかし。
しかし―――
「都督、」
微かに呷いた相手に、甘寧は問い掛けた。
「痛むか?」
「いや」
応える声に絡む吐息が、僅かに乱れているのが判る。少し暑い、とその男は呟いた。暑いといいながらも僅かな汗もないのは、薬酒の効果のひとつだ。先まで発熱と共にあった発汗は失せ、頬に不自然な赤味が差している。
甘寧は手を伸ばし、暑いと訴えた男の襟元にかけ、僅かに併せを緩めた。脈を計る様にその頚に触れ、しかしその手はそのまま離れる事無く滑り、袖で目元を覆う周瑜の腕を掴むと、そこからひき剥がす。その刹那顔を歪めた男は顔を背け、しかしその頤(おとがい)を掴んで無理に仰向けさせると、鋭い呼吸が喉奥で音を立てた。悲鳴の様に細い音が短く響き、眼が細められる。
放せと訴える事はない。だが力の入らぬ腕が甘寧の手の中で僅かな抵抗を顫えとして伝えた。夜の幕舎の中は、焚かれた火の僅かな灯りがあって尚、昏い。しかしその中にあって炬火の光は熾しくこの男の眼を灼いたのだろうと、そう思う。それが証拠に、刹那の怯えにも似た色彩が霞む眼の上に走るのを、確かに甘寧は捉えていた。
眼が霞み、僅かな灯りが網膜を刺す。この薬酒を実際に甘寧が戦で使う事がない理由の一つがそれだ。痛みを抑えても眼が利かなくなっては、とても闘えぬ。馬に乗る事すら随意ならぬ。だがそれを知らされておらぬ男はその効果に怯え、その刹那の怯えは確かに真実だと甘寧は思った。
「と―――、」
都督、と呼び掛けようとする。だが、それを遮る様に、弱い声が牀台に横たわる男から発せられる。
「…るな、」
来るな、という声が呷くように絞り出され、甘寧は眉を顰める。
「来るな、まだ俺は、」
何も成し果せていない。まだお前に会う時ではないのに、何故ここにいる。
その言葉と同時に掴んだ腕が動き、しかし自由にならぬ指が空を掻く。頤から指を放せば、その男は顔を背け、恐らくは痛むであろう負傷した肩を動かし、もう一方の手で自分を捉える男の腕を掴み、引き剥がそうと試みた。
「都督?」
その声が聞こえているのか否か、周瑜は虚ろに開いた眼差しを昏い幕舎に逍遥わせ、来るな、とそれを訴え続ける。
恐らく既に、この男の見ているのは、現実に眼の前にいる己ではない。苦しげに呼吸を顫わせ、しかしそれは酷く弱い。抵抗の力が徐々に失われ、けれど甘寧は掴んだ手首を放す事はしなかった。
「お前がいなくとも、俺は、」
未だここで生きているのに。何故お前がいる。まだお前に会う時ではないのに。
吐き出される言葉は常の明瞭さを失い、掠れて、熱に浮される。その声が跡切れ、眉根が寄せられ、ひくりと喉が動いた。
「みず、を―――」
口が乾いたのか、そう訴える唇許が顫える。
「まだだ」
やらねぇよ。そう応える声に頚が振られ、背けられた横顔で瞼がきつく鎖される。
それを見降ろし、寛げさせた頚から傷を蓋って巻かれた布へと手を滑らせると、微かな呷きが喉を破る。
「苦しいか?」
「…苦しい、さ」
当然だ、と続けられて、甘寧は自分が酷く残酷な衝動に駆られたのを覚えた。触れた場所から爪を立てて、縫合され取り敢えず塞がれた傷口を引き裂いてみたい、と。だがそれをせず、離れた手は逆に、労る様に頬へ触れた。酷く熱いと感じながら、耳元から乱れた解(おく)れ毛を弄る様に掻き上げても、ただ喘ぐ様な呼吸ばかりが繰り返される。
それを拒む事もなく、寧ろ頬に触れる手にすら気付かぬげに、その男は続けた。
「苦しくて当然だ…俺はまだ生きている。お前と違って―――」
苦しみもすれば、痛みも感じる。歓ぶことも哀しむ事も、全てをまだ失ってはいない。
「本当に、そうか?」
「何故、それを問う…当然の事を」
当然の、と繰り返し、その男は喉を引き攣らせて息を吸込み、身を捩る。何かを振り払おうとするように。何かを、拒もうとするように。
「その、当然の事を―――」
勝手に已(や)めたのは、お前じゃないか。
だから、来るな。そう周瑜は続け、甘寧は掴んでいた手首を解放した。それが力なく落とされ、そしてゆっくりと持ち上げられ、何かから自らを庇う様に己の頭を抱え込む。その動きを、甘寧は唇許に薄く笑みを刷いて見降ろしているばかりだ。
周瑜は続けた。
「お前がいなくとも、俺はひとりで生きている。それが事実だ…苦痛も喜びも全てを感じて、泣き瞋(いか)り笑って、そして」
お前が成し果せなかった事を成す。それを見ている事しか出来ぬお前が、何故俺を捕える?
「捕えているか?それとも」
自ら捕われているのか、どちらだ。そう尋ねる揶揄の響きを帯びた声に、周瑜は顔を上げ、声のする方を睨もうとしたらしい。だがやはり昏く伸びる光を厭う様に顔を背け、ただ牀台の上を、縋るものを探す様に指が滑る。
「俺は、」
巴蜀を、奪る。俺ならば成し果せる。許都を狙ったお前は志半ばで斃れたが、俺はそんな事はしない。必ず、捷(か)ってみせる。
その声を聞きながら、甘寧は既にその男が自分ではなく誰を幻視のうちに見ているのか、それを理解した。同時に己が感じた違和感の在り処を、知った様な気がした。
この男は―――
「来るな、」
繰り返す声と共に、きつく鎖された瞼が細く開かれた。
「まだお前に、会う時ではない。お前を、欲(もと)めてなどいない」
「真実(ほんとう)に、そうか?」
尋ねる声に、眼が見開かれた。先にしたようにその顎を捕らえ、その黝(くろ)い眸を覗き込めば、光を映さぬ眸がそこにある。ただ昏く、そこにあるものを映せども視(み)ない眼が揺れる。
確かに感じるだろう歓びや苦しみや瞋り、それら全てを呑み込んで、同時にそれを他人事の様な悠い場所から眺めているような様。己が未だ生きてそこに存る事をふと疑わしく感じる、その様。それを怖れる様に殊更人らしく振る舞い、己の裡にあるものを隠さぬ様。
その全てが、今の昏く虚ろな眸に集約されている。そう、甘寧には感じられた。可恐しく深く昏い淵がそこにある。
己すらも完璧に韜晦しながら、その欺瞞に気付く可恐しさを知っている眸がそこにある。自己の矛盾をそのままに視(み)て憚らぬ、その昏さは可恐しく澄明に過ぎる。
「怖い男だな、」
揶揄するように唖い、囁き掛けて手を放せば、力なく貌が横に倒され、既に意識が失われ掛けているのが判る。望み通り、その幻から逃れ、苦痛から逃れ、眠りに陥ち掛けているのが、判る。
だがその唇が顫え、乾いた唇を舐めた舌が、弱々しい声で言葉をかたちづくるのを、甘寧は聞いた。
「感じない―――」
あの日からずっとだ。お前が失せたその一瞬の苦痛以上の、何も感じない。何も、それを超えない。
「痛みも哀しみも、歓びすら―――酷く、悠(とお)い」
きつい一撃だった、と続ける声が、嗤ったようだった。
凍りついた傷が血も流さず口を空けて、それ故に治癒(おち)る事もない。全てがその傷の向こうにある。
けれど俺は未だ、生きている。だからお前には敗けない。決して―――
決して、お前を欲(もと)めたりはしない。
「公瑾」
その男の字(あざな)を低く呼び掛けると、眸が揺れ、一瞬のつよい光がその表面を掠めた。次の刹那に唇が顫え、恐らくはその男が「お前」と呼び続けた男の名を呼ぼうとしたのだろう。
だが甘寧は無言でその唇を掌で塞ぎ、言葉を遮った。その名を聞くことを、拒む様に。
「その治癒(おち)ない傷を抱える事を―――狂うというんだ」
だが眼の前の男は狂ってはいない。肉体であれ精神であれ、その傷が深いまま治る事がなければ人は狂う。己のすべてを遠くに感じ、決してそれを取り戻す事はしない。そのまま己を見失い、それを狂うという。
だが眼の前の男は狂わずに存る。澄明な理性と熾しい意志が己を手放す事を潔しとせず、狂う事すら叶わずに存る。
その自我にしがみつく勁さこそが、傷を塞ぐ事を妨げているにも関わらず、それを嗤い飛ばす。
怖い男だと、そう思う。失われた唯一の代りに、欲(もと)める全てを手に入れる。だが最も欲求(のぞ)むただ一つのそれは、永久に与えられず、満たされることもない。
その空虚を埋める様に、前に進むというのか。
唇許から手を放すと、声にならぬ呼吸が零れ、そのまま頤からのけ反った喉へと手が滑る。それが苦しいのか、眉が顰められ、周瑜は僅かに身動いで、掠れた声が触れた喉から顫えとなって伝わってくる。
「それが判るなら、来るな―――」
お前がいれば、と希(ねが)う事を己に赦せば、俺は今度こそ全てを自ら棄てる事になる。
屈み込んだ甘寧は今いちど公瑾、とその男の字を低く呟いた。意識を手放し掛けた男は再び睫を顫わせ、眼の前の何者かを視(み)るべく瞼を持ち上げようとする。
「…あ…?」
幻を視(み)ているのか、それとも眼の前の現実を視(み)ているのか、判断のつきかねる表情がそこにある。喉元にかけた手に僅かに力を込めれば、確かにその息苦しさを感じているのか、肩が竦められ、その所為で傷が攣ったか、眉根に皺が刻まれる。
喉元から放した手で、甘寧は傷が開かぬ程度に肩を掴んだ。指先が傷口に触れ、瞬時強ばった躰が大きく顫える。薬で緩和しきらぬ苦痛が神経を鋭く走ったのだろう、息を詰まらせ、その男の手が甘寧の手を掴んだ。
「…ッ…」
放せ、という声が言葉にならず、苦鳴のみが幾度か喉を顫わせる。
漸くそこから手を放した甘寧は、浅く繰り返される呼吸を聞き、虚ろに開かれた眼を覗き込む様に囁いた。
「…痛むか?」
応えはなく、瞼が閉じられる。それに薄く笑い、彼は続ける。
「痛ェなら、それが生きてるって事だ。忘れるな」
忘れたらいつでも思い出させてやる。あんたはまだ死んじゃいねえ。どれほどそれを遠くに感じようと、痛ェと思う神経があるなら、まだあんたは生きてる。
「それを、ちゃんと感じろ。忘れそうになりゃ、いつでも俺がその傷口を剔ってやるからよ」
その痛みが欲しいだろ。生きてる実感てやつを、それで取り戻せるってんだろ?
頷こうとしたのか、それとも拒もうとしたのか、ただ僅かに睫だけが顫え、頽れる様に躰を弛緩させた男の呼吸が、徐々に穏やかなそれに変わってゆく。それを認め、甘寧は躰を起こし、その男から離れると、天を仰いで嘆息した。
「確かに、子明には聞かせられん譫言だったろうな」
聞かせれば、恐らくはその男が縋るように呼ぼうとした誰かを知っているであろう子明は苦しむだろう。押し隠された凄絶な正気―――狂気と紙一重のそれを抱えた男を救おうと、無駄な努力を繰り返すだろう。
己にその気がないものを救う事などできぬものを。いや、救う事など必要としない。救うべきなにものも、そこにはない。
漸く意識を手放し、幻覚からも逃れたか、牀台の上からは、いくらか浅いが規則的な呼吸が聞こえる。
朝まで、と甘寧は先にこの男に云った。だが実のところ、丸1日はこのままであろう事は想像に難くない。経験からも判っている。
起きればこの男は、馬に乗って戦に出たがるだろう。それを控えろと云われているにも関わらず、だ。
ならばそれを止めるよりは、一服盛っておいた方がいい。そう判断しての事ではあったのだが。
甘寧は苦笑し、牀台の上を肩越しに振向いた。
「聞いちゃならねえ事を、やっぱり聞く事になったか」
だが流石だよ、都督。そう彼は続ける。錯乱どころかあんたは幻覚にすら理性で対した。あの薬ですらまともに酔えねェ奴を、初めて見たぜ、と。
その声は既に届かぬものらしく、瞼を閉じる男は微動だにせぬ。
「ちったぁ期待したんだがねえ、錯乱する周郎ってもんを見てみてぇってな」
頭を掻きながら甘寧は立ち上がり、幕舎から出ると、従卒のひとりを呼んだ。
「呂子明がまた起きてる筈だ。伝えて来い」
周都督は俺の幕舎にいる。心配せんでも、大人しく寝てるってな。
その科白に従卒は驚いた様だった。まさかこの軍の総指令官が自分の幕舎ではなく、こちらにいるとは夢にも思わなかったのであろう。平時ならともかく、指令官である周瑜は重傷を負って動く事もままならぬと、既に知れている。
「とっとと行け」
向こうも心配してんだろ。都督殿の我侭にも困ったもんだ。そう続けた甘寧に、我に返った様に従卒ははい、と応えると、慌ててその場を駆出して行った。それを見送り、甘寧は改めて溜息を吐き、やれやれ、と頚を振る。
「好奇心てのも、善し悪しだな」
当て身で眠らせた方が良かったかもしれん、と彼は誰にとも無く呟いた。
「参ったな…」
苦笑し、それでも彼は幕舎の中に引返す。
「以前、あんたに誰かの為に己を賭すなど、つまらんと云ったが」
ちっとばかし、心が動いたじゃねえか。柄にもねえ。そう彼は己の牀台を占拠して眠る男に向かって吐き棄てた。
「あんたの正気のままの、怖ェ野心てやつに、とことん付き合ってみてぇ気分なんだよ、都督」
いっそ悪夢に泣き喚いてくれりゃ、そこで終わりにしてやっただろうになァ、と彼は聊か不穏な科白を呟き、地面に腰を降ろした。
俺も大概、趣味が悪い。そう自嘲する甘寧は手を伸ばし、未だ薬酒の大半が残されている酒瓶を軽く揺すってみせた。
「まァ、起きた頃にゃ全部忘れてるか」
つまらねェが、それが最善だろう。甘寧はそう思い、酒瓶を傍らに置くと、自分もまた牀台に寄り掛かり、酷く疲れた息を吐いた。
Return
別に裏じゃないんですが、描写の端々というか、コンセプトそのものに後ろめたさがマキシマムのシロモノで。実は差し上げものの派生物というか、日記で下らない事を呟いてた延長にあるというか。
裏にゆきませんでした。なんもしてないし別にまあいいかと。んでも腐女子モードですけれどもな(笑)
大問題としては、この成分(敢えて具体的には云いませんが)、もしこの段階で周郎が胃カイヨウ持ってたら禁忌なんですが。シャレになりませんがな。殺す気かというか一服盛るってまさに「毒を盛る」。冗談ごとじゃないですアニキ。実際に麻酔代りに使われたらしいんですが、どの程度のシロモノか専門でない私には知るよしもなし。
これをちゃんと精製したものは酔い止めや散瞳剤としてつい最近まで配合されてました。今は国内でも薬大国米国でも使用されてませんが、どこだったかでマジ船酔いの特効薬とされてたハズで。よいこは薬であそんではいけません。そういう意味で裏か。そうか。 |