◇
私の中には秘密がある。
ひとが20年も生きていれば、ひとつやふたつの秘密はあっても詮無い事。当然の事。それを重いと感じるほどの子供でもない。特別なことだとも思わない。
けれど私には、秘密がある。
たとえばそのひとつが、父上の顔を覚えていないという、その事。
多分、それを口にしたところで誰もが当然と思うでしょうね。私の父上が亡くなった時、私はまだほんの子供だった。乳飲み子ではないにせよ、5つにも満たない子供だった。それに、私が生まれたばかりの頃、父上はあまり館にいなかった。戦場を駆ける父はそれでも、末の子、それも女子であった私をそれは可愛がったらしい。でも私はその父を覚えていない。ただ、頭を撫でてくれた手がとても大きくて堅かった、抱き上げてくれた腕がつよかった、その事だけを覚えている。
けれどその顔は覚えていない。それが事実で、けれどそれを云えば母上や兄上たちを哀しませる様な気がして、だから敢えて云わないだけのこと。
でも、不思議なことに。
父上の顔を、と思い起こせば、大哥(兄上。一番上の兄のこと)の顔が思い出される。その兄、孫伯符も、もう亡くなって久しいけれど。
十以上も年の離れた大哥。そのお顔は、父上の若い頃によく肖ていると誰もが云うから、まあ見当はずれでもないのかも。尤も父上にしては、あまりにお若い顔を思い出しているのだけれど。私の知っている筈の父上は既にその時三十路を超えておられたし、大哥は三十路を待たずしてお亡くなりになった訳だから。
幾つもの秘密。けれどその全ては些細なことで、日々を過ごす合間に忘れてしまっていても支障などない事ばかり。けれど、時折胸を刺す、小さな棘のようなもの。
女も二十年以上生きていれば、そんな棘くらい胸の内にいくつも溜めてしまうものでしょうね。
弓腰姫。いつからその名が広まったんだっけ。ああ、一々覚えていないけれど、弓や馬、剣や薙刀。そんなものを好むお嬢様。そこらの男よりも勇ましい。そんな風に家人が噂して、それが私の二つ名になった。
けれど決して、年頃の娘が好むようなものが嫌いだった訳ではないのよ―――?
着飾るのは好きだった。美しい衣装も髪を結い上げる簪や玉も、勿論好きだった。けれどそれを身に帯びたからといって、大人しく館内で座って刺繍でもしていればいいなんて、誰が決めたの。
長い裾や長い袖、風に翻る薄い羅(うすぎぬ)やきらめく錦。それを身につけて外を歩くのが好きだった。胸を張って大股に歩けば、裾も袖も風を孕んで、大きくはためく。その衣擦れの音が好きだった。そうやって風を切って歩く自分が好きだった。だって織り上げられた絹布が一番綺麗に見えるのは、そういう時ではなくて?
風を切って顔を挙げて、簪がさらりと音を立てる。その音が好き。だから、俯向き加減に躊躇いがちに歩くなんて厭。飾りの重さばかりが気になる様な歩きかたなんてしたくない。だからいつも、肩で風を切って堂々と歩く、そういう自分のほうが綺麗ではなくて?声を放って笑いながら、躰の動くままに振る舞って、それのどこが悪いの。
風を受けた絹が広がって、まるで鳥が羽を拡げた様に見える。そんな自分が好き。だから、衣装を貰えば素直に喜ぶし、それが美しいと思えば着て歩く。一番、それが綺麗に見える様に。それを着た自分が、綺麗だと思えるだけのやりかたで。
勿論、着飾ったままで武芸の稽古をするなんて不粋はしない。武芸を磨くのも楽しいけれど、それは動く為の身なりを整えてのこと。
拵えの美しい、細い剣は好き。精緻な細工の簪と同じくらいに綺麗。譬えその剣というものが武具であっても、剣そのものが綺麗だという事は事実。だから素直にそれを愛でるだけ。使ってみたいと思うだけ。
そしてどうせ使うなら、綺麗に使ってみたいでしょう?見事だと、それを使う自分を褒めそやす声が欲しいでしょう?
それができるのは、私が孫家の娘だから。そんな事は承知だわ。私が娘と扱って貰える程に育った頃、大哥(あにうえ)はこの江東に覇を唱えるおかただった。「小覇王」と呼ばれる、勁くて立派な殿方だった。
その家の娘、江東の主の娘なればこそ、そんな自侭が許される。加えて末の娘であるだけに、家人も孫家の郎党も、私を甘やかす。下にも置かぬ扱いをする。
孫家で最も勁いのは、太々(奥様)か、あの姫様だ。そういう声が聞こえる。当っているかもね。外ではどうか判らない。けれど、戦から離れた「家」というものにあっては、太々つまり母上のほうが、大哥や二哥(2番目の兄)より、よほど勁い。そのお母様が一番甘い、私が勁い。私の我侭に、大哥たちが適う訳も無い。
腕力なら、それは当然兄たちの方が上よ?当たり前じゃない。弓や剣は得手ではないと云われた二哥(あにうえ)、孫仲謀だって、当然私よりは勁いわ。そうでなければ、大哥亡きあと、この孫家の主人として臣下を従える事なんて出来やしない。
けれど家では私に勝てない。私は自分の気随さを知っている。それを適えるために拗ねてみせる事、時には泣いてみせること、その威力を知っているもの。女だてらに剣を頼みにすると云われても、女の武器が本当は別のところにある事くらい、先刻承知という奴だわ。気のきつい私のこと、拗ねたり萎れたりしてみせれば、並の女人が同じ事をするよりも男たちの動揺を誘えるでしょう。
私はそうして、大哥、二哥、亡き父上の翼の下で、誰よりも自侭が許される。それは恵まれた事。それを良く知っている。だから思うままに振る舞い、云いたい事を云う。我侭を通す。
それが許される立場だもの。
それが許される理由をも知っているもの。
私は私なりに、分際というものを弁えては、いるのよ―――?
「仁(れん)、そなた、嫁にゆくか?」
侍女を相手に、刃を潰した剣で稽古をしていた私に、二哥――孫権(仲謀)は云った。躊躇いがちに、けれどはっきりと聞こえる声で。
私の機嫌を損ねぬかと怖れる様に。
その時私は、侍女の3人ほどに同時に相手をさせていた。1対1の手合せで、既に私に敵(かな)う女人はいなかった。だからいつも、そうして稽古をつけさせる。
その手を止めず、二哥の方を振返る事もせず、私は応えた。
「いいわよ」
まるで、茶でも淹れてくれと頼まれて応じるように。いいえ、私なら茶を淹れろと云われた時の方がまだしも不満げな応えを返したかもしれない。どうして私が、と。
けれど私は素っ気無いほどの声で、そう返す。返された二哥が驚く程に。
「そなた、俺が何を云ったか、ちゃんと判ってそう応えるのか?」
たじろいだ二哥の声がうわずる。自分で云い出して何をまた、と思いながら、私は漸く手を止めて、侍女を退がらせた。そしてにこりと微笑する。
「いいわよ、と云ったのよ。嫁にいけと云うんでしょう?」
誰に、とも問わず、私は応える。
臣下の誰かではないでしょう。もし相応しい相手がいたのなら、私は嫌も応もなく、とうの昔にその相手に嫁がされた筈だから。普通、娘が嫁ぐなら、14、5のうちには嫁ぐ。私のように、20を超えて未だ実家にいるなど、ほんとうは存り得ない。
私の気性もあったでしょうね。嫁に行けなどといったら、どんな癇癪を起こすかも判らないとすら思ったでしょうし、このじゃじゃ馬を縁付ける相手がいなかった、受け容れる相手がいなかったのだと、それも判るわ。自分のことだもの。他の誰かに「男勝りの嫁き遅れ」などと云われれば即座に一撃お見舞するところだけれど、それが事実だという事くらい、一応は承知しているもの。
それに私は、孫家の娘。それを妻に迎える男は、孫家にとっても後々まで大切な相手。つまり私にとっての結婚は、望むと望まざるとに関わらず、この孫家というものを相手に圧しつける結果となる。
孫家の姫様を与えるに相応しい男。それは既に殆どが妻帯していて、今更私を縁付ける余地はない。だって私が嫁ぐなら、正妻として遇さねばならないでしょう?先に奥方のいる処へ敢えて入れれば何がしかの不和の種になる。どこの家でも、それは、困るわ。
ならば孫家の家臣ではない、別の勢力。それも、今暫し手を握らねばならない相手。政治の事など判らないけど、その程度の勘は働く。なにせ「今更」の縁談だもの。
「この間の大戦(おおいくさ)の時に遁げ込んで来た、あの人…ほら、何と云ったかしら」
私の言葉に、二哥の碧眼が丸く見開かれる。
「何故、判る」
「ああそう、劉備。劉玄徳。その男なの?」
奥方様が亡くなられたんですってね、噂で聞いたわ。そう続けた私に、二哥は暫し絶句して、そして溜息と共に吐き出した。
「女という奴は、全く」
「男のやることが判りやすいだけよ。全くそれで、よく肚の探り合いなどという芸当を表舞台でやるものだわ」
本当に、子供だまし。そう続けてくすりと笑うと、二哥は傷ついた様な顔をする。ああ、こういう顔は子供の頃から変わらないわね、とそう思った。もっと幼い頃は、私にやりこめられて、べそをかいてたものだけれども。
気性のやさしい二哥。気性の熾しくて、大らかだった大哥とは違うかた。でも私は、この二哥のこういう処が、鬱陶しくて、そして同時に大好きだった。妹に対してすらはっきりと物が言えないのは、私に対して不要なほどの気遣いがあるからだと。
「いいわよ、嫁ってあげるわ」
向こうが嫌がらなければね、と云い添えて、にっこりと微笑を向ける。
「いいのか、仁(れん)」
「自分で纏めてきた縁談でしょう。今更いいも悪いも、私が云々する事じゃない」
男の決めた縁談なんて、そんなもの。戦と同じ。気付けば全てが決まっていて、家の中にいる女は口など挟む余地はない。不本意でも、悔しくとも。
だから家の中では自侭を通す。それが私の流儀。そしてそれが通される限り、家の外で決まった事には忸怩たる物言いをしない。それがずっと昔から決めていたこと。
なのに二哥ときたら。
「嫌なら、戻ってきてもいい。耐えられなければ、すぐに戻れ」
「二哥、」
流石に呆れて、私は莫迦にするような声を二哥に向けていた。
「戻る様な何事かが起こるということ?今は手を結ぶ必要のある劉備という男と、近々また袂を分かつ可能性があるということなの?」
その場凌ぎの縁談なら、と私は幾分剣呑な声で云ってのけ、手にしていた稽古用の剣を二哥に向ける。
「その時には相手の寝首を掻いて戻れ、くらいの事は言えないの?」
二哥は暫し絶句して、そして大喝した。
「莫迦!」
その時の二哥の声を、私は忘れないでしょう。およそ穏やかな二哥が、家内でそんな声を出したなんて、初めての事だったかもしれない。
この私が驚いて、肩を竦めた程だもの。珍しくも、二哥をこわいと感じたほどだもの。
「お前は俺の妹だ。父や大哥もそうだが、俺だってお前を大事に思っている!」
その妹を敢えて血生臭い真似をさせるために、嫁がせるものか。みすみす不幸にしたいものかと。
「嫁がせたなら、出来得るなら倖せにと願うのが情というものだ。たしかに劉玄徳とはこの先、袂を分かつ事がないとは云い切れぬ。だがな、最初から間諜や、まして暗殺者のつもりで妹を嫁がせる兄がいるものか!」
お前はこの兄がそれほど腑甲斐ないと思うのか、と。二哥の怒った顔を見るのは珍しい。こんな風に怒った二哥は滅多に見る事がない。
声もなく剣をひいて、私は項垂れた。
「俺が嫌なら戻れといったのは、」
相手が50をとうに過ぎた爺いだからだ、と二哥は云う。いくらお前が婚期を逃したからとはいえ、親子ほど年の離れた相手に縁付けられるのは如何なものかと思う気持ちがあるからだと。
「…まあ、嫁ってくれるならば、今の俺としては、有難いことこの上ないというのが事実だが、な」
項垂れたまま、何故だろう、酷く私は可笑しくなった。
二哥。この縁談の政治的な部分を喜ぶ江東の主としての己と、妹を後見する家長としての己と、同時に持ったままの二哥。そのやさしさが時に優柔不断と云われる所以がよく判る。
判る?二哥。そのやさしさを喜ぶ娘も夥多いるでしょう。でもね、今の貴方は男として最高に不状よ。私にとっては、笑うしかないわ。
けど、だからこそ。
「貧乏臭い婚儀は嫌よ。それに嫁いでも私は私。行ないを敢えて改めることはしないわ」
先様にそれは重々お伝え下さいね、と私は顔をあげ、そして二哥の肩に触れた。
「母上に、仁(れん)は嫌がってはおらぬと伝えて結構よ」
鬱陶しい性格。でもとても優しい。優柔不断に見えて、その実、とても、勁い。
だから困らせて意地悪をして、でも決してそれは、二哥が嫌いだからでは、ないのよ。ほんの少し、見ていて苛々する。でも嫌いではないの。
嫌いではないから、
その相手が如何なる男かはまだ知らない。でも二哥が嫁ってほしいと望むから…帰ってきてもいいなどと巫山戯たことをのたまうから。
受け容れてあげる。そこで倖せになるかどうか。それは、私次第のことだものね。
けれど知っていて二哥。私には秘密があるの。
多分嫁いで倖せになれても、私はその人を一番好きにはなれないわ―――
弓腰姫。
腰に玉でなく弓を帯び、それを嗜む姫様。見事な騎射の腕を持つ女人。
それが私の二つ名。だけどね、気付いていて?私がいつしか弓の稽古をしなくなった事を。弓を手にしても、それを敢えて使う事はないことを。
稽古をしているのは剣や薙刀ばかり。侍女を相手に、庭で真似事の戦を仕掛けてみせる。無論、真似事や舞いよりは使えるけれど、男たちにとっては微笑ましくも殺伐とした遊び事の延長にしか見えないでしょうね。
まあ、それはよしとして。
弓。昔は使っていたわ。
使い始めた理由も覚えてる。それはまだ大哥、孫伯符が生きていた時の事だった。大哥が庭で弓を引いているから、そこに届けておいでなさいと、母上が篭に桃を盛ってくださった。一人で食べるには多い量の桃に首を傾げると、母上は応えたものだった。
おそらく、公瑾どのと、もしかして権もいるでしょう。皆で分ける様にね。
公瑾どの。周公瑾。大哥の親友で、母上もまるで私達きょうだいの一人の様に、その人を扱っていた。家に仕える女たちは、公瑾様が来ると云えば朝から騒がしい。それもそのはず「美周郎」なんて云われたその方は、幼い私が見ても、確かにお美しい殿方だったもの。それに、私や母上にはとても礼儀正しかった。お転婆な小娘に過ぎない私を、いっぱしの女人の様に恭しく扱うのは、家中でも彼の人だけだったかもしれない。
ともかくも私は桃を運び、そしてそこには、母上の云った通り、大哥のほかに、公瑾様と二哥(孫権)がいた。大哥などはもうじゅうぶん大人であった筈なのに、二哥を揶揄って笑い転げる様は殆ど子供の様で、楽しそうだった。
『権、矢ってのは、的の真ん中を射るもんだ』
二哥が射たものらしい矢が、さして遠くもない的の端だの、挙げ句その下だのに落ちている。思わず小声でくすくす笑ったけれど、まだその声は、騒いでいる大哥たちには届かない。
『仲謀さまは遠慮深いのですよ。伯符とは違って』
『周兄まで、酷いや!』
意地悪く揶揄う声は公瑾様だった。悪意のない声だけれども、二哥はそれに泣かんばかりで反論して、それに酷く嬉しそうに年長の兄たちは笑い崩れる。
そして、声をかけようとした時、大哥が弓を掴んで、立ち上がった。
『まあ、見てろ。弓ってのは、こうやって引くもんだ』
ごく無雑作に構えて、けれど的に向けた横顔が、ふと真剣な影を帯びる。
大哥のそんな顔を、見たのは初めてだった。自信ありげに耀く目と、結ばれた唇許と。公瑾さまも確かにお綺麗だけれども、うちの大哥だって、こんなに素敵な方じゃない。
そう、思った。
きりりと弓弦(ゆんづる)を引く動き。的に向けられた目が僅かに細められ、そして矢を番える指の先が止まる。
刹那、大哥の唇許がふと笑みの形をつくり、同時に矢が風を切る音がして、重い音と共に、的に矢が突き立っていた。
過たず的の真ん中。わあ、という二哥の感嘆の声と、どうだ、と云わんばかりの大哥の笑顔。一瞬の厳しさを取り払うお顔が、仕掛けた悪戯を成功させたそこらの子供と同じに見えて、けれど私は確かに、その時大哥の顔に、姿に見蕩れていたのだと思う。
ぼんやりと立っている私に気付いたのは、公瑾さまだった。桃の入った篭を抱えた幼い女児に、その評判のきれいな笑顔を向けて、仁(れん)様、と柔らかい声をかけて下さる。
『お?差し入れか、有難い』
近付いて篭を差し出した私からそれを受け取って、大哥はとても嬉しそうだった。けれど、ふと何を思ったか、その篭を傍らに置いて、先に手にした二哥の弓を、その手に拾う。
『お前もやってみるか?小妹(妹に対する呼称。いちばん末の仁姫に対して家族はこう呼び掛ける)』
お戯れを、と苦笑したのは公瑾様だった。実際、ほんのちょっとした気紛れだったのかもしれない。二哥が幼かったから、大哥が実際に引く弓よりは幾らか小振りだったけれど、私自身、それを自分で引く事など考えた事もなくて、驚いて瞬きする。
けれどそのとき二哥が呟いた言葉が、酷く私の癇に障った。
『小妹に弓が引けるもんか。女が弓を引くなんて』
その言葉に私はむきになって、できます、と叫んでいた。勇ましい事だ、流石は孫家の姫君。そう笑いながら揶揄ったのは公瑾様で、更にその言葉に私はふくれっ面になり、二哥の弓を引いて見せようとする。
けれど、二哥や大哥が何事もなく引いていた弓は思いの他堅いもので、弓を番えるどころか、引いた弦(つる)は僅かに軋んだばかりだった。そら見ろ、と二哥は囃し立て、けれどその手を、ふわりと背後から掴んだ大きな手があった。
大きくて、堅い手。無理に力を込めるな、と耳元で声が聞こえる。驚いて振向こうとした顎に手が伸び、それはごく優しい仕草で私の顔を的へ向けた。
それだけの事が、酷く私を動揺させた。その腕に抱いて貰ったこともある大哥が、背後から自分の躰に添う様に重なっている。そうすると自分は酷く小さな子供で、この大哥に比べればまだまだ非力で華奢なのだと思い知らざるを得ない。
『そう、顎を引け。そのまま顔を動かすなよ?』
そっと手が離れ、そして再び、大哥の両手が弓を持つ私の手を持ち上げる。ゆっくりと左手を掴み、右手に添えられた大きな右手がこともなげに私の手ごと弦を引く。たじろいだ私の肩を僅かに引き寄せ、番えた弓の先が的へ向けられる。
『弓は力任せに引けばいいというもんじゃねェ。引きかたと姿勢だ。それを間違えなければ怪我はしねえからな。まっすぐに背と首を伸ばせ。的が躰の真横に来る様に向けて、顔は、そう…的の中心へ向けて、』
その時ちらりと、私は大哥へ視線を向けた。先に自分で弓を引いたその時と同じ、子供の遊びに付き合うには余りに真剣な眼差しがある。なんて綺麗な目をしていらっしゃるんだろう。そう思っていたら、耳元に低い声が届いた。
『こら、俺の顔じゃねえぞ。的だ的』
慌てて目を向け直し、顫える手で必至に弓を支え、歯を喰い縛る。よし、と大哥が云ったと同時に弦と矢は右手を離れ、小気味よい音と共に矢は的の中央から僅かに下を射ていた。
左手に感じる弓返り(ゆがえり)の衝撃に目を瞠り、背後の大哥を振向けば、やはり子供の様な笑顔がある。
『よし!流石は俺の妹、筋がいいな!』
驚くほど間近にある大哥の顔にどきりとして動きを止めると、そのまま背後から勁い腕が私の肩を抱き竦めた。褒められた事が嬉しくて、なのに何故かそれが気はずかしくて、けれど顔を伏せる事はせず、ただ私は頬を紅潮させたまま、今自分が射た的を茫然と見ていた。心の臓がひどく騒がしく鼓動を打つ、それを、感じながら。
『あったり前じゃないか!小妹じゃなく大哥が射たようなものだ!』
そんな風にしてもらえば誰だって上手く出来る。そう不平を鳴らす二哥に、私を腕に抱えたまま、意地悪い笑みを浮かべた大哥はまた揶揄いの言葉を寄越す。
『お?なら権、お前もこうして抱いて介添えしてやらんこともないぞ?』
『要るもんか!俺はもう、ひとりで弓を引けるんだからな!』
『それより、伯符』
公瑾様がくすりと笑いながら、口を挟む。
『仁様とて女子。妹君とはいえ美しい女子をその様に一人占めに腕に抱かれたままというのは如何なものか』
その言葉に大哥は驚いた様に腕の中の私を見降ろし、そして私は…未だY頭(あげまき)の子供の筈の私は更にいたたまれなくなり、熱い頬に両手を添えて、大哥の腕から逃れ出る。
『何だこいつ、照れてんのか?』
莫迦にしたような二哥のに、私はそちらを睨みつけ、ぷいと顔を背ける。
『違うもん!二哥のいじわる!』
その声に、大哥と公瑾様が顔を見合せて笑い、いじわる、と罵られた二哥が不満げに口を噤む。
その後…どうしたんだったかしら?
一緒に桃を食べたのだったかしら?覚えていないわ。けれど酷く幸せで暖かくて、甘い記憶だけがそこにある。ともかく、あんな風に心の臓が跳ねたのはあの時が初めてだった。大哥の腕に抱かれた、あの時が。
けれど大哥はそのあと、お母様にこっぴどく小言を喰らったらしいわ。女子に弓など教えて、仁(れん)に弓を持たせて戦にでも出すつもりかと。
『そういうつもりじゃないさ。でも母上、さすが小妹も孫家の娘だ、筋がいい』
肩を竦めながらも悪怯れずに応えた大哥に、母上は呆れて物も言えないと言下にして額を押えたとか。
『いや、本当だ。間近で見て思ったが、仁は母上に肖て綺麗になる。思ったより睫が濃くて、兄の俺がびっくりした程だ。大きくなったもんだなァ』
『策、何を無責任なことを!』
貰い手がいなくなったらどうするつもり、となおも柳眉を逆立てたお母様に、たじろぎもせず大哥はひとり頷いていたそうで。
『うん、弓を番えて真っ直ぐ顔を挙げた…あれは中々、我が妹ながら美人だった。凛として勁い横顔だった。弓を引く美姫というのも悪くはない。俺はいいと思うがなァ』
『策!』
『ほら、あれだ、公瑾だって謐かに座っているより、弓を引く姿が凛々しいと女官に持て囃されるだろう。美周郎に並ぶ、弓を引く勇ましい美姫。俺の妹として悪くないなァ』
『男の友達と妹を同列で論じる兄がありますか!全く、お前ときたら…』
なんということもない、戯れに紛れた言葉だったのかもしれない。
けれど私はその言葉を聞いた。それが酷く嬉しかった。顔を挙げてまっすぐに的を見る、その私を綺麗だと、大哥は云った。それを知ってまた顔が熱くなり、同時に込上げた笑いが止まらなくなるほど嬉しかった。
だから。
自分で弓を引く事を覚えた。その時の私が綺麗だと大哥が云ったから。真っ直ぐ顔を上げている私が綺麗だと、大哥が云ったから。
だから、大哥がこのんだ私を失いたくなくて、私は顔を上げて弓を引く。いつしか誰の介添えなくとも、矢は真ん中に当るようになっていた。馬の上から引く弓…騎射だってできるわ。
けれど私はもう弓は引かない。だって、もうそれをする私を美しいと褒めてくれる大哥はいないもの。
顔を真っ直ぐに上げて前を見る、それが私。それは変わらない。
けれど弓を引く事は、もうないの。一番見て欲しい人は、もういないもの。
弓がなくとも、私は顔を上げて、生きてゆけるわ――――
「妹君」
任地から戻られたのかしら。久しく聞かない声が届き、遠乗りに出ていた私はそちらを振向いた。
妹君。いつしか彼は、私を名である「仁」でなく、そう呼ぶようになっていた。二哥を、字(あざな)で「仲謀どの」と呼ばず「殿」と呼ぶようになった頃からかしら。
そう、大哥がいなくなってからね。
「公瑾様」
にっこりと笑って、私は振向く。
「てっきり、まだ任地かと思っておりましたのに。お役目本当に御苦労様」
奥方様が寂しがっていてよ、と続けると、その人は習い性になっている様な微苦笑を私に向けて、恭しく礼を取ってみせた。優雅な仕草。そればかりは、大哥が生きていたころからは変わらない。ううん、多分、三十路を超えられた筈なのに、音に聞こえた美貌も変わる事がない。
ただ、お忙しいからかしら?それとも戦続きの故かしら?幾らか窶れられた気がするのだけれど。
「輿入れが決まられたとか。祝着に存じます」
型どおりの寿(ことほ)ぎの言葉に私は首を傾げる。
「余り、嬉しそうではないのね」
「滅相もない」
そう応えてはいるものの、私は知っている。この婚儀には皆で賛否両論まっぷたつになっているということ。殊に公瑾様は反対だと誰もが囁いている。公瑾様は劉備との縁が強くなる事をこのんではいない。むしろ、すぐにでも破るべしと考えているらしいということ。
けれど主君である二哥が進めてしまったこの話、今更白紙にはできない。だから真っ向からの反論を声高に唱える事はできないのでしょうけれども。
難しい事は判らない。けれどそんな噂ばかりを耳に入れて、私はふと、この眼の前の昔なじみ…兄とも慕うべき方に意地悪をしたくなった。
亡き大哥の、最も近くにいたひとに。
「私が嫁ぐのがお気に召さない?それは、私の事を僅かでもお心に留めて下さっていたと考えていいのかしら?」
「妹君…」
困った様な声音に、私は思わず声を立てて笑う。そう、知っているわ。公瑾様にとって私は妹のようなもの。亡き親友の妹として、それは丁重に扱ってくれる、その気遣いの濃やかさ故に、誰かが「周郎はもしや、妹君に心を寄せておられるのでは」と噂していた事もある。逆に、私がその公瑾様に懐いているからこそ、「妹君が嫁がれぬのは、周郎の故ではあるまいか」という噂も。
けれどその噂が的外れだということを、互いが知っている。私も、公瑾様も、一度たりとも互いをそんな意識の許に見た事はない。
だから、戯れの言葉は幾重にも重ねられるわ。
「相変わらずね、公瑾様。そこで私が他の男に嫁ぐなど我慢ならぬと、そのお顔で訴えれば、心動かさぬ女人はおらぬというものでしょうに」
相変わらず、肝心なところで朴念仁。そう睨むと、その人は肩を竦めて悪怯れずに応える。
「我が妻も、事ある毎にそう云いますとも」
のろけとも言える科白に私は躰を折って笑い崩れる。それを眺めていた公瑾様は、けれどどこかで聞いたような科白を向けてきた。
「けれど妹君。もしも真実、お嫌なのではあるまいか?」
お嫌なれば、貴女には拒む権利があある。そう、彼は続ける。
ああもう、私の周りにいる男たちときたら!
女が肚を決めた先で、何を忸怩たる物言いをすることか。
「私が嫌がっていると、誰から聞いたの?」
私は云った覚えはないし、むしろ二つ返事で受けたのだけれど。そう続けた私に、無言で彼は謐かな瞳を向けている。私は更に続けた。
「嫌なのは貴方でしょう、公瑾様。それも、私を想っての事ではなく、私が嫁げば貴方にとって厄介な事になるから。違って?」
劉備の許に私が嫁げば、劉備を目障りと感じる貴方にとって面白くない。目先の敵として劉備に鉾を向ける事が出来ないばかりか、この東呉において主君の妹婿としての劉備の存在は重いものとなる。
「違って?」
そう首を傾げる私に、公瑾様は天を仰いで嘆息した。
「その通り、と応えれば」
伯符は怒るだろう。そう、彼は誰にとも無く呟いた。その言葉に私は笑いを収める。私の中に沈む棘が、私の心でまた疼く。
「ねえ、公瑾さま」
ああ、今の私の声ときたら、なんて耳障りなこと。自分でもそう想うわ。
「私は道具のように嫁がされることに文句を云う気はないの。この家の娘と生まれ、父が、兄たちが天下を狙う場所に己を定めてから、それは当然の事と考えていた」
市井の娘の様に、好いた男のところに嫁ぐ事など考えた事もなかった。その代償に我侭勝手を通してきたわ。そう、私は続ける。
「だけど、道具の様に嫁がされても、私は道具になる気はないの」
私は、私。顔を上げて己の途を、その先にあるものを見据えて歩く。大股に、肩で風を切って、堂々と。
その言葉に、公瑾様は目を瞠る。
「縁談を進めたのは私の意志じゃない。けれど嫁ぐのは私の意志。私が選んだの」
これでいいと選んだの。そう告げる声が、私の中にある棘を表に顕したように尖ってゆく。これが私の声かしら。私はこんな声を持っていたかしら?
「だから公瑾様、貴方の思惑がどこにあろうと、一旦嫁げば私は自由。貴方が私の夫となる方に剣先を向ければ、」
それは私に剣を向けたと同じ事。私は躰を張ってその剣先が我が夫に届くことを妨げるだけ。その覚悟で嫁ぐの。
何故だか判る?公瑾様。
あなたには、判る?
私は、もしかして貴方の邪魔をしたいのかもしれないわ―――
妹君は周郎を慕っている。誰ともなく囁いた噂。無理もない事かもしれない。私は公瑾様に懐いていたもの。…それを懐くというならば。
剣を教えて。そういう私に、公瑾様は困った様な顔をした。けれど、ことあるごとにそうせっつく私に、不承不承、時間を割いてくれたこともある。
けれど教えてくれたのは実戦向きの撃剣ではなく、剣舞にも肖たそれ。けれどその中から、私はかの方の動きを写し取り、真似ていった。確かに力では敵わぬ。使い手と呼べるほどではあり得ない。けれども、形ばかりは綺麗にうつしたつもりだった。
私は、あなたになりたかったのよ、公瑾様。
いつも大哥の側にいる貴方。大哥の傍らで、大哥の笑顔をいちばん近くで見ていた貴方。
大哥の奥方よりもあなたが妬ましかった。
おなじ男であるが故に、戦で共に闘う貴方が。大哥がいちばん生き生きと耀いている時間を共有できた貴方が。大哥が誰よりも信を置いていた貴方が…!
大哥の時間を共有していたのは、貴方だもの。
私は貴方になりたかった。だから貴方の真似をした。
けれど大哥は亡くなって、その時間を最も多く深く共有しただろう貴方が、大哥を今は独り占めしている。
そう、思ってきた。
貴方の側にいれば、その大哥の時間が少しは零れてくるのではないかしら。
そう、思っていたわ。けれど貴方はその宝物の様な時間を己のうちに鍵をかけ閉じ込めて、決して誰にも渡さなかった。それが悔しかったのよ。
けれど貴方の側にいれば、確かに大哥を感じられてたのも事実。
貴方になりたかったの。貴方のようでありたかったの、公瑾様。
そして私はもしかすると、貴方が大嫌いだったのかもしれない。
優しくて美しくて、けれどとても残酷な貴方。今となっては大哥を独占しているような、その貴方が。
だから貴方の邪魔をしたいのかもしれない。敗北を認める代わりの、その意趣返しに。
「妹君…」
躊躇いがちに、公瑾様は私に尋ねた。
「貴方には、想うお方が真実はいらしたのではありませんか…?」
自分の笑顔が歪んだのが、判った。
今更それを訊くの?この最低な男は。
江東一の漢と呼ばれたお方。けれど私にとっては最低な、残酷な男は、それを訊くというの?この私に!
「あなただとでも、云って欲しいの?」
声が顫えて裏返りかける。それを圧しとどめ、低い声で私は云った。
詰るように。
「なら今ここで私を傷物にして、婚儀を妨げてごらんなさいな!」
泣くものか。泣いてなどやるものか。この男の前でだけは!
「その勇気もない癖に!したり顔で諌めるつもり?大哥の代わりに私を思いやるつもり?」
莫迦にしないでよ。
「…頬を打ってやる価値もないわ、貴方なんか」
声が顫える。けれどその声に、眼の前の男は、真実打たれた様に傷ついた顔をした。今更何を云いにきたの。私が自分を慕っているとその言葉を真に受けて、それを利用して決まった事を覆すつもり?
莫迦に、しないでよ!
その想いを込めて睨み据える私の前に、その人は一歩近付いた。後退ってなどやるものか。胸を張って睨み返して、一歩も退いてなどやるものか。
「仁(れん)さま」
その男は、以前そうしていたように私の名を呼び、それに自分の肩が顫えたのが、判った。
「貴方を傷物にする資格が私にあるとでも?」
真実貴女がそれを望んでいるというならばともかく、とその人は苦笑を讃えて、哀れむ様に私を見る。
そんな目で見ないで。勝ち誇る様に私に近付かないで。
貴方が私の何を知っていると云うの。
「私に、貴女を止める資格など、最初からありはしないのに」
何を云うの今更。何を云いたいの、貴方は。
けれどその人は、馬の鞍に括っていた包みをいつの間にか手にして、それを解く。そこからでてきたものを、私にそっと差し出す。恭しく、丁重な仕草で。
弓だった。大振りな弓。
「伯符が生前、実際に狩をする時使っていたものです」
私が最後に伯符と別れ、任地に赴く時に託されたものの中に混じっておりました。そう、その男はそれを示す。
「…婚礼を控えた女人に差上げるには武骨に過ぎますが」
伯符らしいと云えばそうだ。貴方の大哥からと思って、受け取っては下さいませんか。
そう、彼は告げる。黒塗りの弓。そっと受け取り、手にとってみれば、もはやその生前に所有者がそれを手にしていた温もりはなく、ただ冷たく堅いものがそこにある。
けれど。
どうしてこの男が、今この時に、こんなものを。こんな…
「…ッ、」
泣くものか。
そう、思っていたのに。
「大哥…ッ、」
気付けば私は、その場に弓を抱いて屈み込み、久しく流した事の無い、空涙ではないほんものの涙を流していた。子供の様に、頑是無く泣きじゃくって、顔を伏せることしか出来なかった。
どうしてこの男がこれを成すのか。この男が、私の何を知っているというのか。
やっぱり貴方は最低な男だわ、公瑾様。貴方に敗けた私に、今更こんなものを…
「大哥、大哥…ッ」
言葉はそれしかでてこない。そのまま動く事も出来ない私に、ふと温もりが降ってくる。背中を抱くように、泣き止まない子供の私をあやすように。
「貴女が選んでそこに嫁くというのなら」
倖せに、とはそのひとはいわなかった。
「貴女らしく。どんな時も貴女であることを忘れずに。孫家の自慢の末娘として」
美しく顔を上げて、凛と的を睨む射手の如くにあるように。
「貴女はまだ充分美しい。そして若い。その気性のままに、夫となる男を困らせてやればいい。自侭に振る舞う貴女が、一番美しい事を、その弓をかつて引いた男はそれを繰り返し自慢していたのだから」
誇らしげに。あの跳ね返りが俺の小妹、あの弓を引く美姫こそ自分の妹だと、屈託もなく云ってのけたのだから。
その言葉が、触れられた掌から染み透る様に響いてくる。大哥とは違う柔らかい声。けれど大哥と同じく、強く強い腕が私を今支えて、先に進めと…顔を上げよと、そう告げる。
残酷なひと。最低な男ね、周公瑾。
私は貴方が大嫌いよ。誰もが褒めそやす周家の郎子(わかさま)。貴方がどれほど最低な男か、私は知っているわ。
けれど私は貴方に敗けたのよ。
この一敗、一生忘れないわ。私を負かしたのは貴方ひとりよ。
私が真実想う人を知っていたのは、貴方ひとりだったのよ。
知りながら貴方はまだ、大哥を我が物として勝ち誇っているように―――優しく労るのね。この私を。
この、弓腰姫を。
私がどうにか泣き止むまで、その人はただ私を抱いていただけだった。泣き腫らした顔の私を館に連れて戻ったのもやはりその人で、したり顔の女官は「ああ、やはり姫様は、」と訳の判らない納得をしたみたいだけれども。
どうでもいいわ。そんなこと。全ては過ぎ去ったもの。取り返せないもの。
ただ私の腕には、私の秘密がある。誰にも云う事のできない秘密が、謐かに眠っている。
私の中の棘。これからも大切に抱えて行くのだろう棘が、ここにある。
強い弓。婚礼の衣装を纏い、出立のその直前に、私はそれを手にして庭に立っていた。
幼い私がいる。二哥と公瑾様が…そして大哥がいた、その庭の一隅に。
あざやかな矢羽を飾ったその矢を番え、私は弓を引いた。いつも私が引いていた弓とは格段に強さの違う弓。指が千切れそうな程に弦のつよい強弓。
手が顫える。けれど狙いが定まらない私の耳に、声が届いた。
『そう、的を躰の横に置いて、顔をまっすぐ射るべき場所に向けるんだ』
弓は力任せに引けばいいってモンじゃねェ。そのこえが聞こえる。強い腕が自分の腕を支えているのが判る。
『顎をひいて、顔をまっすぐに上げろ』
そう、その通りだ。
その声に導かれる様に顫えは止まり、ふっと軽くなった右手から弦が離れ、熾しい弓返りと共に的には矢が突き立っている。
その、清々しい音に、爽やかに笑い声が響いた気がした。
これでいいのよね?大哥。
私は父上の顔を覚えていない。ただ憧憬を持って想い出せる顔は、声は、父上に肖ているけれど、もっと若い。
鈍いいたみと共に、私の中に疼く棘のような、明るくて倖せな記憶。
「妹君!」
女官が捜し当てた私の姿に、驚いた様に声を上げ、私はそちらに微笑んだ。
「待たせたわね。さあ、行くわよ」
顔を上げてまっすぐに、肩で風を切って、長い袖を膨らませ、羽撃く鳥の様に歩く。
その姿が一番きれい。そう、褒めた人がいたの。幼い頃にね。
そして私は、幼い私の憧憬に背を向け、先だけを見て歩き出す。
あとには樹々の間に、まるで華のように、矢羽だけがあざやかに残って、けれど散る事はない。
私は、けれどそれを振返って確かめる事は、しなかった。
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(…挑戦してみたはいいが、私は女性を描くのも書くのも下手だと改めて実感してみた。愚…しかも私の知ってる「弓」っていわゆるでっけぇ和弓だけだった。さらに敗北感。) |