|||立つ鳥の跡に江の波|||
2
 覗き込まれている事に、暫く周瑜は気付かなかった。
 眼の前に、老婆の顔があった。腰を屈めて、にこにこ笑いながら、自分を覗き込んでいる。ここまで近付かれるまで気付かないとは、余程ぼんやりしていたものか、と周瑜は思ったが、ともかく眼の前の老婆が誰であるのか問い掛けようと、首を傾げた。
 だが、言葉を発したのは、老婆のほうが先である。
「あんた、何処から来たんだえ?」
 皺だらけの顔に問われて、彼は応える。
「居巣から」
 その応えに、老婆は頷き、誰ぞこっちに知合いでもいたのかね、と重ねて問い掛ける。殆ど子供のような仕草で、彼は首を横に振った。当てはないのかね、と更に尋ねられて頷けば、老婆は何が可笑しいのか、声を立てて笑った。
 皺だらけとはいえども、あまり陽に灼けてはおらぬ。着ているものも、よく見れば農家の者とは思えぬもので、どこか良い家の老婦人かとも思われた。声にも年に似合わぬ張りがあり、品とも云えるべきものが感じられる。
 やさしげな婦人だな、と周瑜は思い、そしてその婦人は、更に問い掛ける。
「お腹、空いておらんか?」
 まるで自分が小さな子供にでもなった気分でまたも周瑜は頷き、老婆は更に笑って、数歩あゆむと、彼を手招いた。
「うちへおいで。何ぞ、喰わせてあげよう」
 そこに至って、漸く周瑜は我に返り、立ち上がると自分の馬へ眼を向けた。
 どのみち、今から戻っても仕方がない。誰かは判らぬが、今日は東城に留まるつもりであるから、言葉に甘えてもいいだろう。この辺りの事情も問う事が出来るやもしれぬ。
「老大娘(お婆さん)!」
 呼び掛ければ、老婆はくるりと振向き、立ち止まる。馬の手綱を取り、周瑜はそれに駆寄りながら、尋ねた。
「お家は、ここからかなり離れておられるか?」
 すこし、と老婆は応えた。
「では、老大娘はこちらへ。俺が手綱を」
 だが、老婆は眉を顰め、馬の鞍を眺めると、高いねえ、と呟く。それに苦笑し、ならば、と周瑜は云い添えた。
「不躾ですが、俺と相乗りはお厭でしょうか?」
 否、とは老婆は云わなかった。
 

 少しどころか、老婆の家には結構な距離があった。請われるままにゆっくりと馬を進め、その家に辿りつく頃には陽は暮れている。馬に乗せたのは正解であったな、と周瑜は思いながら、その老婆の示した家に、思わず眼を細めた。
 思いの他、家は大きかった。館と呼んだほうが良いかもしれぬ。周の家程ではないが、ただの富農にしては大きな邸に、明かりを持つ使用人の姿が忙しげに立ち働いているのが見える。
 それにしても、若い男と老婆が相乗りして来るというのは珍事であったらしい。迎えに出た家人は驚愕を隠そうともしない眼をふたりに向けた。
「太々(奥様)、」
 馬から老婆を降ろしてやれば、恐らく家宰(執事)であろうか、壮年の男が慌てた様な風情で駆寄り、それから周瑜の馬を見て、慌てて下男を呼びつける。だが老婆は慌てた風もなく、お客さんだよ、と呟いて、ひょこひょこと邸の中へと歩んで行った。
 そして周瑜を振向いて、やはり最前したように、手招いてみせる。
「あんたは、こっち」
 幾らか面食らった態で家宰らしき男に眼を向ければ、駆寄った下男に手綱を渡させると、幾分胡散臭げな眼を周瑜に向け、慌てて名乗ろうとした周瑜に、老婆は更に声をかける。
「早くおいで。お腹、空いてるんだろ?」
 その声に急かされた態で、周瑜は軽く会釈のみを男に向けると、ともかく老婆について邸の中に入っていった。
 使用人の数は、そこそこ多い。それ以上に、使用人とは思えぬ風体の人間が、どうやら家の離れらしきところに起居しているのか、庭の辺りに屯しているのが眼に映る。作りは商家のそれに近いが、しかし商家の風情とは幾らか違う。一体ここはどういう家なのだろうと怪訝に思う周瑜を、躊躇う事もせず老婆は一室に招き入れ、少しお待ち、と部屋を出て行った。
 戻って来た時には、手にした盆に温かい食事が湯気を立てており、それを坐らせた周瑜の前に置くと、またも子供にでもするように、お食べ、と促してくる。
 恐らく、老婆にすれば迷子の子供でも拾った様なものなのだろうな、と周瑜は思ったが、ともかく空腹であったのは事実なので、丁重に礼を述べると、勢い良く食事に箸をつける。流石に見知らぬ家で、碗ごと掻き込むような真似はしなかったが、それでも食事を平らげる速度から見れば、彼の空腹がどれほどのものであったか知れようものだ。しかし老婆は相変わらず微笑んだまま、行儀がいいねえ、と呟く事すらした。
「見ていて嬉しくなるような、食べっぷりだねぇ。良かったら、もっとお食べ」
 だがその後に続いた言葉に、周瑜はやはり、自分がこの老婆にとって迷子の子供以外の何者でもないのだと知った。
「甘いものは欲しくないかい?果物は?」
 普通はいい年の男になら、勧めるならば酒か、せめて茶であろうに、老婆のその言葉に周瑜は思わず掻き込んでいた食事を喉に詰まらせかけ、そして苦笑した。
 それと同時に、慌ただしい気配が部屋に近付いて来るのが判り、ふと彼は顔を上げる。老婆もまた、それに気付いたらしく、耳元に手を宛て、首を傾げてみせた。
「あれ、子敬さんが帰ってきた」
 子敬さん、というのは誰なのかと、碗と箸を手にしたままで周瑜は動きを止める。そして老婆にそれを問おうとしたが、それよりも早く、男の声が耳に届いて来た。
「また婆さんが拾い物をしてきたって?どうせなら嫁のひとりも拾って来いってんだ」
 磊落な性格がそのまま現れた様な声は響きがよく、しかしその声で怒鳴られた内容に、周瑜としては苦笑せざるを得ない。あれ、騒がしい、と老婆は眉を顰めたが、その声の主は盛大に跫音を立てながら、近付いてくる。
「おい、家の連中が先刻から大騒ぎだぞ。婆さんがどえらい別嬪と相乗りしてお戻りあそばしたってな。どこだその別嬪は。今度こそ嫁か?」
「子敬さん、はしたない!お客さんが飯を喉に詰まらせちまうよ!」
 老婆が立ち上がって咎め、そしてその前で扉が音を立てて開いた。
「…嫁でなくて、申し訳ない」
 箸を手にしたままの周瑜が、いずまいを糺す前に現れた男に思わずそう応え、そして現れた男は男で、かるく眼を見開いて大声で笑った。
「やっぱり男か。それも絶世の美男ときた」
 婆さんのくせに色気出しやがって、と男は笑いながら周瑜に近付いて、そしてその男の尻を、老婆が容赦なく叩く。
 子敬さんと老婆が呼んだ男は、大柄で、いかにも良家の子弟らしく衣服を整えているにも関わらず、おそろしく豪放な印象を受けた。その男が笑いを収め、いや失敬、と呟きながら、先までの挙措からは意外なほどに優雅な仕草で礼をとってみせる。
「失礼、祖母が大層ご迷惑をおかけしたようだ」
 慌てて箸を起き、座から立ち上がって礼を返す周瑜に、男は名乗る。
 魯粛。子敬というのは、字(あざな)であるらしい。
 東城の魯家。その名に周瑜は驚き、改めて眼の前の男をまじまじと見た。
 ――東城に大層な富豪がある。そこの若当主は田畑を売りに出し、家業をうっちゃらかして、いつか財産を食い潰すだろうと云われている。
 そう、噂に聞いた。その富豪の家は、魯という家だと―――
 

 蓄えられた髭と、体躯の見事さが眼を引き、どこの大夫かとも見える風貌ではあるが、魯粛という男は意外に若いと、周瑜は改めて、自分の前に座を取った男を観察していた。自分よりは年嵩であろうが、未だ三十路には至るまい。
 その魯粛は、先に云った通り果物を持ってきた祖母に、苦笑を向けた。
「おい婆さん、女子供じゃあるまいし、酒だろうよ、普通は!」
 しょうがねえなあ、と云いながらも、取りに遣らせずに自分で酒を持ってきた辺り、意外とこの男は祖母をだいじにしているのかもしれぬ、と周瑜は微笑ましく思った。祖母のほうは、相変わらず周瑜をどこかの迷子だとでも思っているのか、「苛めちゃぁ駄目だよ、子敬さん、仲良くするんだよ」と言い置いて出て行ってしまった。もう陽も暮れているから、先に寝むつもりなのかもしれぬ。
 ともかく、東城の魯家の若当主と差し向かいで残され、杯を勧められ、どう説明したものかと周瑜は戸惑った。
 一応、己の名は名告っている。だが、自分の祖母に迷子扱いされて拾われた挙げ句、初めて来た家でいきなり遠慮も何もなく食事を貪っていた人間が、居巣の県長であると察するものもおるまいと、彼は思う。隣県のことであれば、居巣の長が周という名であるという事くらいは知っているであろうが、周などという名は別に珍しい名でもない。
 だが、見知らぬ人間がいきなり自家で食事を摂っている事に、魯粛という男はさして屯着もしていないようだった。
「よくある事だ」
 礼を述べた周瑜に、魯粛はそう云って自分の杯を口に運んだ。
「うちには良く、食い詰めた連中が来ている。俺が拾ってきたのが大多数だが、」
 それを見て、この辺りの連中は、魯家の道楽息子が家業も放り出して、食客を集めている、なんぞと噂しているようだが。そう、魯粛は苦笑する。
「まあ、一宿一飯の恩義を感じるなら適当に返せと云ってあるし、ここに居たいなら好きなだけ留まれとは云ってある。食客といえば、そうだ」
「豪気なことだ」
「俺は家の中が騒がしいのが好きでね。行儀よくでかい家に収まり返って何が楽しいよ」
 大体、と魯粛は杯を掴んだまま、身を乗り出してきた。
「俺が集めた連中もいるが、あの婆さんが拾ってきたのもいる。あの婆さん、ひもじそうな孩子(がき)が道端に坐ってたら、素性も聞かずに拾ってくる癖があってな」
 その言葉に、周瑜は自分も杯を勧められながら、やはり俺も迷子のくちかと苦笑した。だがその容子に、魯粛はにやりと笑って云い添える。
「文字通りの孩子もいれば、そうでないのもいる。気にしなさんな」
 あの婆さんに比べれば、大概の奴ぁ孩子(がき)だろ。そう云われて頷くのも気が引け、周瑜は曖昧に微笑を返す。ただ、いいお祖母様だ、とそれだけを返して。
 そして杯を干した彼に、魯粛は満足気に、いい呑みっぷりだ、とまた杯を満たす。
「結構、いける方か?」
「鍛えられたからな」
 尋ねられ、周瑜は肩を竦めて応えた。文字通り孩子の頃に、吐くまで呑まされた記憶がふと甦る。孫策と伴に、孫堅が存命の頃の軍に紛れ込んだ頃だから、未だ15、6の頃だっただろう。
「いっぺん呑み過ぎて吐く破目になったが、それから後は、多少過してもどうということはない」
「躰が慣れたんだな。そういう奴は、とことん強い」
 魯粛はそれが生地なのか、それとも酔いが回ってきたか、やはり磊落な笑いを浮かべる。
「しかし、驚いた。俺や婆さんが誰ぞを拾ってくるのは、いいかげん家の連中も慣れてたが、今日はやたらと騒がしくてな」
 特に女どもが。そう冗談めかして続けられ、周瑜はそれは光栄だ、と澄まして応える。
「まあ別嬪を拾ってきた、なんて騒ぐから、あの袁公路(袁術)もにとりこぼしがあったかと期待はしてみたが、やっぱり男か」
 美男なんぞ俺で見慣れてるだろうに。そう悪怯れもせず続ける魯粛に、しかし周瑜はふと眉を顰めた。無論、美男云々という事が気にかかったのではない。
「袁公路は、この辺りでも評判がよくないか」
 膝許の寿春からも近いのに、と周瑜が続ければ、魯粛は微かに鼻を鳴らす。
「よくないな」
 米だの金だの、宝玉だの、挙げ句めぼしい女もかっさらって行きやがる。そう応える魯粛に、やっぱりそうか、と周瑜はぼそりと呟いた。
「あの蝗(いなご)爺い」
 その呟きは魯粛にも届いたらしく、盛大な爆笑がその後につづいた。
「蝗爺いか、そいつはいい」
 だが蝗は女まで攫っちゃ行かんぞ、と尤もらしく魯粛は続け、それに周瑜が吹出した。
「尤もだ」
「俺がこんな処にいながら、仕官しないのも、その蝗爺いの所為でな」
 婆さんが泣くからなあ、と魯粛は杯を傾けながら、ふと眉を曇らせた。
「米や金はもって行かれてもいいが、子敬さんまでもって行かれちゃ適わんと、あの婆さんが駄々を捏ねるもんでな」
 まあ、俺もふんだくれそうもない相手に、仕官する気はないが。そう続ける魯粛に、周瑜はくすりと笑って、尋ねた。
「魯大人は、仕官した相手からふんだくるつもりか」
 おうよ、と魯粛は即答する。
「これでも、うちは商売で財を増やしてきた血筋だ。自分に益のねぇ処じゃ、働きゃしねえ。益がある、すなわち、ふんだくるって事だ」
 それが金だとは限らんがな、と魯粛は含みのある事を云い添える。面白い男だな、と周瑜はその魯粛の横顔を見ながら問い掛けた。
「なら、田畑を売って施し、あちこちの人間と親交を深め、食客を蓄えるのも、益があると踏んでのことか?」
「それだけの事をすりゃ、まず名が売れる。名が売れりゃ、自分てもんがでかく評価される」
 その俺を買取りたい奴は、大枚叩く事になる。それを掴んででかい事ができりゃ、また自分の値が上がるだろう?
「その通りだ」
 周瑜は頷き、声を立てて笑った。その周瑜に、魯粛はふと気付いた様に問い掛ける。
「なんだ、あんた、俺のことを知ってるのか?」
「有名だぞ。東城の穀潰しと、隣の居巣まで聞こえてきている」
 まさか俺を拾ったのが、その東城の魯家の太々(奥様)だとは、先まで気付かなかったが。そう躊躇いもなく応えた周瑜に、魯粛はにやりと笑みを向ける。
「穀潰しときたか」
「東城の狂児、とも聞いている」
「そいつぁ名誉な噂だな」
 あっさりと応える魯粛と顔を見合せ、後にはまたもふたりぶんの笑いが続いた。
「顔の割にゃ口が悪い。そういう奴は、俺は好きだぜ」
「光栄だ」
 周瑜は応え、更に満たされた杯を唇許にはこびかけたが、ふとその手を止める。
「魯大人」
 そう呼び掛けると、魯粛は眉を顰めた。
「大人、てのはよしてくれ。子敬でいい。字で呼んでくれ」
 つまりは、対等の立場で話をしたいという事らしい。名前以外の何も詮索されぬまま、そう請われた事に周瑜は、それが魯粛という男の人となりか、それとも自分はその「東城の穀潰し」に認められたということか、と考えながら、言い直す。
「子敬どのは、たとえば、袁公路以外に仕官の口を考えたことはないか?」
 その問いに、魯粛は軽く眉を上げた。
「どこにだ?」
 この辺りに居を構えてちゃ、厭でもあんたの云うところの蝗(いなご)爺いの網にかかるだろう。そう返されて、周瑜は杯を手の中に弄びながら、そうでもない、と呟く。
「たとえば、江を渡ってしまえばどうだ?」
 微かに、魯粛の表情が動いたような気がした。
「江を渡る、か―――」
 呉会の辺りは、今、えらく騒がしいらしいじゃないか。
 笑わぬ声が、そう問い掛け、周瑜は微かに唇許に笑みを浮かべる。
「騒がしいといえば、そうだ」
「亡き孫破虜将軍の遺児が、どえらい勢いで、そこらの太守を叩き出し、役人を入れ替えているらしい。どんなものかな、とは思っている」
 そいつが、蝗爺いよりましかどうか、未だ判らんからな。
 そう、魯粛は呟いた。孫破虜将軍とは、孫堅のことであり、その遺児とは孫策である。敢えて弁護することもせず、ただ周瑜は、黙り込んだ魯粛の顔をじっと見詰めていた。
「…しかし、勢いの割にゃ、さして悪い噂も聞かん。孫破虜の遺児の許から、大挙して人が逃げ出したとも、聞かん。逃げ出したのは、元居た太守連中ばかりだ」
 つまり、上に立つ人間としちゃ、悪くないのかもしれん。しかも、若い。そう魯粛はひとりごちる様に、呟く。
「若い上に、勢いもある、か。放っておきゃ、そこら一帯見事に切り従えて天に上る可能性もある、って事だ」
 少なくとも、蝗爺いよりゃ時間もある。じっくり眺めてるうちに、とんでもなくでかくなって、ふんだくり甲斐が出てくるかもしれん。
 杯を揺らしながら考え込む様に声を低めた魯粛に、周瑜はくすりと笑った。内心で、今は離れているその男の面影に、値踏みされているぞ、と嘯きながら。しかも、どうやら結構な値がつきそうな気配ではある。将来への、期待含みでだが。
 眼の前にいたら、どんな顔をするだろう。孫策の目の前にこの東城の穀潰しを置いたら、互いがどんな言葉を交わすだろう。それを聞いてみたい、とも思った。
「孫伯符(孫策)は、強いぞ」
 少なくとも、今の勢いを留める事は誰にも適わぬ程度には。そう、周瑜は続ける。
「強い上に、あの呉の二張を引っ張り出したとも、聞くなあ」
 ぽつりと魯粛は呟き、はっとして周瑜は瞬きした。
 二張、つまり呉の二人の賢者と並び称される、張昭と張紘という二人の人物のことである。戦禍を避けて江南に移り住んだこの二人が孫策の幕下に入ったことは、孫策が実際に兵を進めた辺りでは知らぬ者はないが、しかし、未だそこから幾許か離れたところまでは噂は行き渡ってはおらぬはずだった。
 魯粛という男は、その事も既に耳に入れている。つまりは、片田舎に住いしながらも、それだけの情報を入手するだけの人脈なり手段なりを得ているということだ。
 なるほど、進んで人を集めるというのはこういうことか、と周瑜は手にした杯を握り緊めた。
「…沈む船よりゃ、今漕ぎ出したばかりの船のほうが、そりゃぁ、ましってもんだ」
「沈む船とは、」
 呟いた魯粛の言葉に問いを投げれば、にやりと魯粛は笑ってみせた。
「あんたの云う、蝗爺いさ。ありゃ、長くないな」
 遠い勢力と同盟しているが、近くの勢力とはのきなみ敵対している。そいつらが、とりあえず目障りな袁公路を潰せという利害の一致で、いっときでも結んじまえば、ひとたまりもなく窒息するだろうぜ。
「子敬どの―――」
 この男は、と周瑜は息を呑み、更に魯粛は言葉を重ねた。
「だが、江南の、あの孫家の遺児も、袁公路(袁術)の武将だ」
「今は、そうだ。だが、いつまでも袁公路の許にはいない」
 既に切れたも同然だ。そう周瑜は続け、そしてその周瑜に、魯粛は眼を向けた。
「あんたは、これから、その孫家の遺児の許へ行く気なんだな」
 それで、俺を誘いたいか。そう尋ねた魯粛に、周瑜は応えなかった。だが、無言であることが、既にして応えと受け取られることも、判っていた。
「誘うつもりで、来た訳じゃない」
 杯を卓の上に置き、周瑜は魯粛から視線を逸らした。
「ただ、俺は確かに、孫伯符(孫策)の許へ行きたいと思っている。だが、その途上で思いがけず蝗に遭い、困窮して動けん」
「それで、物乞いか?」
 敢えて周瑜の感情を逆撫でるような口調で、魯粛は尋ね、顔を上げた周瑜はまっすぐにその眼を相手の眼に合わせると、そうだ、と応える。
 だが魯粛は自らその視線を外すと、杯を手の中に弄び、だらしなく卓に肘をついて、云った。
「困窮しているとは思えん、いい身なりだ。あんたの馬も、そんじょそこらじゃお眼にかかれない名馬だ」
 あんた、実はいいところの郎子(若様)だろう。そう、魯粛は苦笑する。
「それで物乞いと云われて、怒るどころか、それを認めるか」
「事実なのだから、仕方がない」
 蔑まれても得るものを得られるなら、安いものだ。そう続けた周瑜は、次にくすりと笑い、肩を竦めた。
「子敬どののお祖母殿には、既にひもじそうな孩子(こぞう)と見えたようではないか」
 それに甘んじて、喜んで人の家で飯を喰らうような奴を捕まえて、郎子もあるまい。
 その台詞に、そりゃそうだ、と魯粛は笑った。先のような磊落な笑いではなく、喉奥にくぐもった嗤いの先に、しかし、やはり問いがある。
「しかし、そうまでして、何故、孫家の許へ行きたい?」
 別に今のまま、たとえばうちの食客とやらになっても構わんだろう。喰ってはゆけるぞ。
 そう問われ、周瑜は自分の顔から笑みが消えたのを、はっきりと感じた。
「喰って行く為だけにそれを望むならば、こんなにも焦りはしない」
 そのまま彼は魯粛から視線を逸らし、卓の上についた手に、額を預ける。
 何故、そうまでして行きたい。自分を手元に留めようとした叔父にも、幾度と無く問われた事であった。自分にも、はっきりとした言葉で言い表せる理由はない気がした。
 行きたいからだと。ただその衝動だけがあり、そしてその耳朶奥に、ふと孫策の声が甦った様な、そんな気がした。
「来い、と――――」
 以前、初めて家を飛出し、孫策の父である孫堅の軍に身を投じた、そのきっかけとなったのが、その声だったと、周瑜は思い出す。
「来いと、云われたからだ。そして俺は、」
 差し伸べられた手を拒めなかった。拒む事など考えもせず、その手を取った。
 そう、周瑜は続けた。
「霹靂に打たれた様な気がした。己のいた世界に無理矢理亀裂を入れられ、そこから自分の中の何かが、流れ出した様な―――何かが、壊されたような」
 大義も天下も、その時にはなかった。ただつよい力で引き摺られた先に、途が見えたと思えた。
 どこまでが、声となり言葉となって流れ出たのか。周瑜自身にも判らなかった。もしや、終わりの方は胸の奥だけでの呟きであったのかもしれない。
 だが、暫しの沈黙の後、魯粛はふと席を立つと、庭に続く扉を、勢いよく開いた。
 夜気が流れ込み、燭の炎が揺れる。それにはっと顔を上げた先に、魯粛は佇み、そして周瑜に問い掛ける。
「右か、左か」
 何を云われているのか判らなかった。思わず眉を顰めた周瑜に、魯粛は今いちど、繰り返す。
「右か?それとも左か」
 示された先の庭に、倉が見えた。夜闇に沈むその倉を手で示し、魯粛は挑む様に周瑜に眼を向けている。
 早くしろ、と促され、周瑜は左、と応える。意味があっての事ではない。ただ急かされるままに、勝手に口が動いた、それだけのことだった。
 だが魯粛は頷き、そしてちらりと倉を見遣ると、腕を組む。
「今の蓄え、そして次の収穫の後での蓄えを足せば、あの倉には三千斛(こく)の兵糧が入ることになる」
 貸してやる、持ってゆけ。
 そう魯粛はにやりと笑い、思わず周瑜は立ち上がり、魯粛の表情を伺った。酔っているのかとも思ったが、しかしその眼差しには、一片の酒精もない。
 素面であれば、正気ではない。そう、思えた。小県の長である周瑜の俸禄が三百斛であることを考えれば、三千斛の兵糧というのは尋常ではない。何せ、倉ひとつ分である。それを貸してやるというのは、どういう了簡であるのか。
 少なくとも、自分は魯粛に、居巣の県長として対面している訳でもなく、困窮しているというのも、あくまで自身が江南に渡るため、としか漏らしていないのだ。
 第一、魯粛に対して、周瑜は自身の素性を未だ一切明かしていない。ただふらりと東城にやってきて老婆に拾われた若造が、困っているという、ただそれだけでしかない。
 だがその黄口児(こぞう)に、無造作に倉ひとつ差し出せる漢が目の前にいる。
 絶句したままの周瑜に、扉を閉めて近付いた魯粛は、どうした、と尋ねた。
「どうしたも何も…」
「何かを貸す時ゃ、貸す側の度量も試される。だがな、もっと試されるのは、借りる側の度量だ」
 たかが倉ひとつでそこまで顔色変えてどうするよ、と魯粛は揶揄う様に続けた。
「たかが三千だ。ああ、確かに一人で持って帰るにゃ重いが、」
「そうではなく、子敬どの」
「いいか、よく聞け」
 俺はお前が、面白い奴だと思った。そう、魯粛は周瑜に向かって云った。
「だから三千くらいなら出してもいい、そんだけの値のつけられる奴だと思った。だから持ってけと云っているんだ。判るか?」
 なのにお前さんが、たかが三千でおたおたする様な小さい人間じゃあ、俺も大見得切った意味がねえ。出してやると云われたなら、堂々と、はい有難うと持って行きゃぁいいんだ。
 捲し立てられ、返す言葉もなく周瑜は暫し立ち尽くしていたが、やがて大きく溜息を吐き、肩を顫わせて笑い出した。
「返すあてがあるかどうかも、判らんのに、それだけ貸すか」
「俺が貸すってぇのはな、返してもらう事を宛てにしてるんじゃねえ」
 見縊るな、と魯粛は胸を張る。
「返せねえ奴はそこまでの奴だ。運も悪かったんだろうさ。ただ借りた分だけ返す奴ァ、普通の律儀者だ。だがな、俺が返して貰わなくてもいいってのはな」
 そいつから、もっとでかい何かをふんだくるつもりがあるって事だ。
 そう続けられた周瑜は顔を上げ、苦笑しながら、魯粛を見上げた。
「俺から、何かをふんだくることができると?」
「米三千斛って形じゃぁねえかもしれねえがな」
 それにな、と魯粛は声を低め、周瑜の肩を叩くと、再び座に腰を降ろした。
「うちの婆さんは耄碌はしてるが、不思議と男を見る眼はあるらしくてな」
 婆さんが拾ってきた奴に、莫迦はいても使えねえ奴ぁいねえんだ。
 その魯粛の言葉に周瑜は瞬きし、卓に手をついたまま、魯粛を見降ろした。
「俺が見るところ、あんたは三千出して恩を売るに足る相手だ」
 莫迦かもしれねえけどな。
 その声に笑いが続き、周瑜も釣り込まれる様に苦笑しながら、腰を降ろす。
「莫迦は酷いな」
 だが、ありがたくご好意は受けよう。周瑜はそう続け、後悔はさせないつもりだ、と云い添える。
「後悔させたら?」
「死ぬまで罵り続けて貰って構わん」
 悪怯れもせず周瑜は応え、魯粛は大笑すると、そりゃ俺が割に合わねえ賭けをしたもんだ、と顔を顰めたが、しかし、声音に不快の色はなく、寧ろ愉快で溜まらぬという風情があった。
 そして、冷めた酒を一気に飲み干し、周瑜に眼を向ける。
「あんたが先に、孫家の息子の処に行きたいと云った、あの面だ」
 来いと云われたから行きたいと応えた、あの面は、滅多に拝めるもんじゃねえ。男があんな面する時ぁ、一生に1度か2度だ。そう、魯粛は続ける。
「ああいう面をする奴も、莫迦野郎だが、大の男にあんな面をさせる孫伯符(孫策)ってのも、大概大莫迦と相場が決まってる」
 そういうのがつるめば、大概世の中が眼を向くような莫迦をしでかすに決まってやがる。そう、魯粛は云った。
「一枚噛ませて貰いたいと思ったのさ。何、失敗ったところで、たかが三千斛だ。その位のもんは、いくらでも巻き上げる余地は世の中に転がってる」
 その台詞に、周瑜は僅かに微笑し、そして反論した。
「あんたが側で眼を光らせれば、失敗る心配がまずなくなるんじゃないのか?」
「なるほど、一理ある」
 だがその手にゃ乗らねえぞ。俺は行きたいと思えばどこにでも行くが、その気になるまでが長ぇんだ。
「口惜しけりゃ、あんたが孫伯符にやられたみてえに、厭と云えねえ力で『来い』とぬかしてみな」
 魯粛は杯を手にしたままそう揶揄い、流石に周瑜は先の己の台詞に幾らかの照れ臭さを感じ、無茶を云うな、と顔を顰めた。
「奴の真似ができてたまるか。したくもない」
 そう応えながらも、一体先刻、自分はどんな顔をしていたのだろうと考えると、ふと不安すら覚えた。
 その思いを読んだかのように、魯粛は酒を舐めながら、続ける。
「気にしなさんな。ともかく、俺は先刻のあんたに動かされた。俺も、あんな面で誰かについて行きたいと思える様になれりゃぁ、いいと思うよ」
 正直、羨ましいさ。だが危ういな。そう、魯粛は続ける。
「あんだけ誰かに賭けちまうってのは、危うい。俺はそういう橋を渡れる心境にゃ、まだ遠い。それだけの事さ」
 そういうものかと周瑜は思い、同時に、今日出合ったばかりの相手の前でそういう己を曝け出した事に、今更のようにいたたまれぬほどの羞恥を覚え、未だ口をつけていなかった杯の中身を一気に呷った。
 

 翌日、ここに自分を導いた老婆に丁重に礼を述べると、周瑜は居巣へと戻った。相変わらずどこかの子供に対するように「気をつけて帰るんだよ」とにこにこ笑いながら言い聞かせ、帰り道に食べる食料まで持たせる老婆は、やはり周瑜が誰であるのか、尋ねる風情もない。またおいで、という声に笑みを返し、まるで仙人か何かのようだな、と周瑜はその老婆を見て思った。
 そして、その老婆の孫として、魯家の狂児の様な男がいる。
 自分はもしや、とんでもない拾い物をしたのかもしれぬと思い、そして再び彼がこの東城の魯家を尋ねたのは、収穫も終わり、冬も近い頃だった。
 今度は単身ではなく、県の府より人数を連れ、改めて居巣県の長として丁重な挨拶を述べ、兵糧三千斛の援助への謝辞を述べる周瑜に、しかし魯粛は驚いた風もなかった。
 ただにやにやと笑いながら髭を整えた顎を撫で、思いがけぬことを云う。
「あんたは、意外と自分を過小評価してるぜ、周公瑾」
 最初見た時、周と名告られて、すぐに判った。居巣に若い県長がやってきた。そいつはかなりのやり手で、しかも尻に火でもついた様に性急だと聞いていた。周という名だともな。そう、魯粛は笑う。
「ははぁ、これが新しい居巣殿かと、すぐに判った」
「耳慧い事だな。恐れ入る」
 この片田舎にありながら、知らぬ事も見えぬ事もないようだ。そう苦笑した周瑜に、魯粛は肩を竦めた。
「何、あんたの場合は噂が思いの他大きかった。あんたは居巣で東城の穀潰しの噂を聞いたといったが、」
 そんなちっぽけな噂より、新しい居巣殿は周家の郎子(若様)で、それはもうたいそうな美男子だという噂のほうが、よほど大きい。
「耳を塞いでも聞こえてきた。あんたは慧いが、自分がどれだけ目立つ男か全く判っちゃいねえようだ」
 先に丹楊あたりで、孫伯符(孫策)の兵に周家が部曲を出して助けたって話も耳に届いていた。
 云われて、周瑜はなるほど、と他人事の様に呟いた。
「で、その噂があったからこそ、三千斛の貸しか」
「噂だけじゃぁ、貸さねえよ」
 魯粛は苦笑し、周瑜を振向く。
「云ったろ、あんたの面を見て、貸したくなった。面白そうだと思ったのさ」
 まあ、周家の郎子なら取りはぐれはなかろうって思いもあったが、今はそんな事ぁどうでもいいと思ってる。そう、魯粛は続けた。
「その女どもが姦しく騒ぐ面の下に、とんでもねえ莫迦なことをしでかす孩子(がき)みてえな処を、隠してやがる」
 俺の三千斛がどんな形で返るのか、俺にも予測がつかねえ。だから面白いと思った。
 魯粛の言葉に、買いかぶられた気もするな、と周瑜は改めて叉手の礼を取り、頭を下げる。その丁重な挙措に、魯粛は柄にも無く照れた様に、よせよ、と軽く手を振った。
 その魯粛に翳のない微笑を向け、ところで、と周瑜は思い出した様に尋ねた。
「あの夜、倉を指して右か左か、と子敬どのは俺に尋ねたが、」
 双方の倉の中身は違っていたのか、と首を傾げた周瑜に、魯粛は大笑した。
「どっちも同じだったさ。どっちを選んでも、三千斛だ」
「ならば何故、」
 怪訝な表情を向ける周瑜に、魯粛は軽く眉を上げ、そして応える。
「選ぶまでの時間を計った。あそこでぐだぐだ悩むような煮え切らねえ奴なら、あの時倉に残っていた分だけしか貸してやらねえつもりだった」
 成程、と周瑜は呟き、それでも豪気といえば豪気だが、しかしただの大家の当主ではない、喰えぬ男だなと、改めて魯粛という男を見直した。
 こちらにそれだけの値が無いと知れば、あっさりと見捨てるだろう。けれどこの男を己の方に惹きつけておけるうちは、未だ自分もそれなりの値打ちがあると見ていいかもしれぬ。
 そう感じながら、この男を自分に引き合せた、あの魯家の老婆に、あらためて感謝したい心持ちであった。
 

 その魯粛が結局袁術の招聘に応じて、東城の県長に収まったと周瑜が聞いたのは、それから間もなくのことである。あの男も結局は袁術の誘いを断り切れなかったか、と意外な思いを抱いたが、袁術の勢力下にあっては、家財を保つためにやむを得ない事かとも思う。
 だが、更に意外な報(し)らせが、後に彼の許に届く事となった。
 東城から数百人の手勢を連れ、魯粛が周瑜の許に身を寄せたいと、使いを寄越したのである。周瑜は躊躇わなかった。折も折、自身がそろそろ居巣から長江を渡り、呉の孫策の許へ戻ろうとしていた、その頃合である。
 袁術が皇帝を僭称した、その春の事であった。
「何、ただおん出てくるよりゃ、一旦膝を折った者が逃げ出すって方が、効果がでかい」
 居巣に辿りついた魯粛が、やはり変わらぬ磊落な声で語った言葉に、周瑜は笑うしかなかった。
「皇帝陛下となった袁公路(袁術)殿の許から、仕えていた県長がこりゃいかんと逃げ出したってェ噂が広まりゃ、周囲にも動揺が走る。奴さんの人望もガタ落ちさ」
 殊に膝許の東城と居巣からいっぺんに県長が逃げ出したとなりゃ、そこらの連中も黙っちゃいねえだろうよ。それに、未だ漢の帝は健在だ。下手すりゃ十把一からげに逆賊になっちまう。そう、魯粛はにやりと笑った。
「あんたも、そろそろ孫伯符(孫策)の許へ戻る頃合だろう、周公瑾どの」
 沈む船にいつまでもしがみついてるのは、阿呆のすることだ。
 その魯粛の表情に、周瑜は一瞬虚を衝かれた表情になったが、すぐにそれは痛快きわまりないと云わんばかりの大笑に変わる。
「成程、」
 子敬どのとだけは、喧嘩をしたくはない。そう、周瑜は云った。いきなり行動を起こしているようで、その実、周到に用意した毒矢で思いがけず急所を貫かれる。
 その譬えに、魯粛はやはり冗談めかして応えたものだった。
「俺は結構、弓もやるぞ。狙いはいまひとつだが、強弓だ」
 ここに来る時も、袁公路(袁術)の追っ手がかかったが、盾に5本ほど矢をぶちこんで、威嚇してきた。
「全部が同じところを貫くなんて芸当じゃあなかったが、鏃が全部盾を突き抜けたのを見て、追っ手も吃驚してやがったぜ」
 さもおかしげに、弓を構えるような仕草をしてみせる魯粛は、しかし軍装ではなく、どこから見ても、大家の若当主そのものの、袖のおおきな品のよい装束を纏っている。
 姿と云う事の落差に周瑜は更に笑い、そして先に孫策から届いた書面の内容を思い起こしていた。
 2年も待たせたんだ。手土産のひとつもなくては、迎えてやらんぞ、という、とても孫策らしい書面だった。
 よい手土産が出来た。改めて、そう思う。
 その彼の許で2年働いた副官である県丞は、先に彼に告げていた。
 たとえ、居巣殿がどこへ行かれても、恐らく居巣の県に務めた者は、若い周家の郎子を忘れぬでしょうと。短いといえば短い間でしたが、初めて役人の仕事が楽しいものだと知った。この先何があっても、貴公の残したものは、この地に根付く。
 息災で、頑張りなされ。ただ、あまり奔放に振る舞うは控えられよと。
 得たものは多い。眼の前の男と、そして府に残したもの。それを思いながら、周瑜は魯粛に尋ねた。
「そういえば、魯家の老大娘(お婆様)はお元気か?」
 己とこの男を引き合せた老婆の姿を脳裡に浮かべる周瑜に、魯粛は幾らか照れ臭そうに応えた。
「元気だとも。あの婆さん、周の坊やの処なら自分も行くと、いそいそと旅支度を整えてやがった」
 全く、いい歳をして色気付きやがって、と魯粛は呟き、それは重畳、と周瑜は心の底からの笑顔を向け、魯粛が指さした方に眼を向けた。

 そこに、あの日、県の外れで現れた、仙女のような老婆のちいさな姿が、家人に手をとられて、やはりひょこひょこと散歩でもするように歩いていた。


ひとくちメモ
県長:小県の場合は「長」。大・中県の場合は「令」という役職であり、所謂知事である。その下に「丞」「尉」と呼ばれる属官がそれぞれ一名ずつ就く。大県の県令のみ県尉は2名と定められている。また洛陽県令であった場合、その下の県丞は3人となる

というわけで「魯粛さん米貸して」「おうよその倉持ってゆけ」というお話でございました。機を衒っているようで実は行き当りばったりの直球勝負の未だ青二才周郎と、予測を超えた変化球のようで周到に計算された場所に投げている、喰わせ者魯子敬さんとの会逅編です。なんというか、前作を引き摺って、未だ周瑜さん子供扱いですが。というより、このひと何処へ行っても郎子(わかさま)扱いで、挙げ句今度は「ひもじそうな迷子」とか云われてます。颯爽と袁術のところから逃げてきた策士周郎という面影はどこに。
 つか、またも途中で「一生云っててくれアンタ」状態の激しい告白に書いている自分が萎えそうになりましたが。まあ、本人がいないからこそ、ですが。眼の前でそんな告白されても第3者の魯粛さん困ると思うんですが。
 ともかくこれで、江東の極道一家にまた問題児が増えました。なんか天下取り鹿追いレースというよりは寧ろ、さあ次は何して周りを驚かせようかと企む悪餓鬼が寄り集まって良識的な大人を困らせている風情がなきにしもあらず。つかこの偏見をどっかやっとけ自分。


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