| 既死覇
風が、騒いでいる。けれど静かだ。風が勁くなればなるほど、その中に存って静けさを感じる。例えば嵐の中で息を顰めてそれが過ぎるのを身動きもせず言葉もなく、ただ待つ。嵐と云う殺伐の中の平穏。風が柔らかくなり、暖かな陽光が微笑めば動く者が静けさを破る。だから本当に静かなのは嵐の中に居る時だ。
そんな事を、誰かが云っていた。
その言葉を発した男を見て、何故だろう、自分はとても長い時間を無駄に過ごした様な気がする。その過ぎた時間が悔しいと、そう思えた。
そう、長く生きた訳でもなく、年老いた訳でもない。なのに漠然と過ぎた時間の長さを惜しいと、そう思った事がある。
何故自分は、その時間にここから遠く離れた場所で、何をすれば良いのかも判らず、何をしたいのかも判らぬままに足掻いていたのだろう?
長い時間を無駄にしてしまったと、そう、思えた。悔しいと云うよりは諦めにも似た心持ちだった。
賊と呼ばれた事を愧(は)じるのではなく、ただ賊であったその時間を惜しいと、その時確かに、後悔したのだと、そう思う。
午後の河原に、ひそやかに囁き合う声が聞こえた。高くてまるい、若い女の声だ。酷く楽しそうにも、そしてどこか心配げにも聞こえる。けれど二人の若い女の向ける横顔には、やはり好奇の色彩がつよい。江の支流の浅瀬の側にある葦の叢を覗き込む様なその風情に、何か楽しいものでも見付けたのだろうかと、それを見た甘寧は思った。
「よう、小姐(ねえちゃん)達」
唐突に響いた男の声に、娘たちは驚いて口を噤み、軽い悲鳴と共に飛び退いた。そして甘寧の姿を認めると慌てて目配せを送り合い、身を翻す様に駆出して行く。この辺りの漁民の娘たちだろうか。粗末な身なりはしていたが、陽に灼けた健康そうな顔が印象的だった。江南にはきれいな娘が多いな、と感心しつつ、その好印象があればこそ甘寧は幾分面白くないものを感じながら、頭を掻いて顔を顰める。
俺の面がそんなに怖いかよ、と。
確かに、彼は自分でも多少の強面(こわもて)を自覚してはいる。以前故郷で暴れた時、その切れ長の眼に睨まれただけで、そこらの破落戸(チンピラ)は顫え上がって逃げ出した。それに加えて頬の傷痕に不精髭とくれば、人相はお世辞にも宜しいとは言えないだろう。
だがしかし。
「化物でも見たみてェに逃げなくったって、なァ」
誰にともなく呟いて、溜息を吐く。だがすぐに、彼女たちが逃げたのは、鎧は着ていなかったものの、自慢の大刀を帯びたまま、軍装を解かずにいた所為だと思い直すことにした。
思い直し、彼女たちが楽しげに見ていたものは何であろうかと、叢に分け入り、覗き込む。ほんのちょっとした好奇心だった。どうせ大したものでもあるまいと、軽い気持ちだった。だが彼はそのまま動きどころか呼吸も心臓も止まるかと思うほど吃驚して、暫時そのまま固まっていた。
落ちていたのは、人だった。
瀟洒な戎衣(ふだんぎ)姿ではあるが、布が上質のものであることは、その染色からも見てとれる。それが丸腰のまま、無防備に手足を投出し、結い上げた髪を草の上に乱したままで倒れていた。
声もなくそれを見降ろしていた甘寧の視線に気付いたか、閉じられていた瞼が動き、ゆっくりと見開かれ、視線がぶつかる。
無言のまま暫し時間が流れたが、先に口を開いたのは倒れていた人間のほうだった。
「何を、している」
掠れた気配もない、低い男の声がそうはっきりと問い掛け、それは自分の科白だと思いながら、甘寧は大きく息を吐き出した。
「そこで、漁民の娘が何かヒソヒソやってましたんでね」
何か面白いものでも落ちてるのかと思って覗いただけですよ、と彼は応え、未だ転がったままの男は、無表情に彼を見上げたまま抑揚のない声で皮肉を投げる。
「閑(ひま)なのか」
その言葉に僅かばかり慍(む)っとした甘寧は、軽く眉を上げて応酬する。
「娘達が喜ぶ訳だ。まさか、かの美周郎がこんな処で、それもたった一人で閑(ひま)そうに寝姿美人を曝してるたぁ、誰も思いもしねェでしょうよ」
美周郎。
このわたりで、その羨望と皮肉と、そして紛れもない事実を含んだ呼称を知らぬ者はない。東呉にその人ありと謳(うた)われた男である。
呉会―――呉と会稽の地に夥多存る豪族を従え、主となる孫家。その先代の傍らで軍才を遺憾なく発揮し、片腕と呼ばれた、江南随一の名門の御曹司。不幸にして先代が凶刃に斃れた後も変わる事ない忠誠を以て今の主である孫権に仕える男、周瑜、字を公瑾という。今も、孫家の水軍を率いるこの呉会の重鎮でもあった。
加えて、美貌である。まず、その端正な容貌に騒いだ若い娘達が、美周郎と彼を呼んだ。それが広まり、彼の周囲でも幾許かの揶揄と賛嘆を込めて、そう呼ぶものも居た。妻子を持ち、三十路を越えているというのに、音に聞こえた容貌にも、その人気にも衰えはない。
つい先日まで、彼は水軍を率い、調練という名目でハ陽に派遣されていた。だが抜き差しならぬ事態がこの地に起こり、呼び戻されたものである。実際、甘寧が周瑜の帰参を聞いたのは、一昨日の事であった。
「考え事をしていた」
起上がりもせぬまま、その男は呟く。
「戻ってから、客も避けて、ひとりで部屋に篭っていたのだが」
少し頭を冷やさねばどうにもならぬところまで行き詰まったので、外に出てみた。そう、彼は云う。
「冷やし過ぎだな」
呆れ声で甘寧は呟き、その男の傍らに屈み込む。
「この寒空に外で昼寝なんざ、」
「寝るつもりは無かったさ」
漸く半身を起こし、彼は眉を顰めて反論する。
「だが、一旦頭の中を空にしようと考えるのを止めたら、」
「寝ちまったって訳ですか」
そうだ、と周瑜は応えようとしたらしい。だが言葉が途中で跡切れ、後には盛大なくしゃみが続く。そら見た事か、と甘寧は笑い、その眼の前で体を顫わせた周瑜は更に顔を顰めて手で鼻の下を擦った。
「ザマぁねえな、美周郎。そこらの孩子(こぞう)と変わりゃしねえ」
「うるさい」
子供が拗ねる様な声音で鼻を啜りながら、彼は立ち上がり、背についた泥と草を叩き落とすと、乱れた髪を纏めていた紐を、鬱陶しげに引き抜いた。
「お前こそ、こんな処で何をしていた」
尋ねられ、立ち上がりながら甘寧は肩を竦める。
「どうも、この処どこへ詰めてても息苦しかったもんで」
息が詰まる前に息抜きに、と悪怯れずに応えた彼に、周瑜はうすい冷笑を向けた。
帝を擁する丞相・曹操。河北の袁紹を破り、今やその眼は南に向けられている。
以前から、呉会の主となった孫家に対する圧力はあった。若き当主である孫権の従兄である孫輔と通じ、代替りして間も無い孫家勢力に揺さぶりをかけようとした事もある。また、孫権に対し、人質として息子を許都へ送る様にと要求してきた事もある。その折は、未だ曹操がこの江南へ兵を向ける事はないと見て、要求を突っ撥ねたのではあるが。
荊州において、主である劉表が病死し、その時を見すましたかの如くに曹操は兵を南下させた。劉表の息子は降伏し、曹操は荊州の兵力をも併呑している。そして今また、江東へその兵を向けんとしていた。その数、80万と云われている。
それに拮抗するだけの兵力は、今の孫家にはない。降伏か抗戦か。論は真っ二つに割れ、未だ結論は出されない。最終的な決断を下すべき孫権は、未だいずれかを決めかね、配下は論に論を重ねて決断を迫っている。
周瑜が呼び戻されたのは、この微妙な時期であった。ハ陽という離れた土地にあって、彼は未だいずれとも自分の意志を明らかにしていない。論は出つくした。後は、年若いとはいえ、この孫家傘下の重鎮である周瑜の意志が孫権を動かすと、誰もがそう見ている。
だからこそ、帰参した彼の許へ、即日降伏派と抗戦派が詰め掛けたのではあるが、周瑜は所労を理由として、その面会の悉くを丁重に断っている。そして呉会の地は、異様な緊張を帯び、沸騰寸前の熱を孕んだままで沈黙を保っているといえた。
甘寧が渦中の人である周瑜を河原で発見したのは、まさに予測もつかない事であったと言えよう。客を断った彼は、家の中に篭っていると誰もが信じている。こんなところで眠りこけていると知れば、ひと騒動が起きる事は疑い無い。
「全く、あの魯子敬どのまで今は殺気立ってやがる」
普段のほほんと構えてる奴が血眼になると、えらくおっかないもんだ。そう甘寧は苦笑混じりに呟いた。魯子敬―魯粛の事である。彼が抗戦派の急先鋒である事は周瑜も知っていた。何せ、周瑜をハ陽から呼び戻すよう強く進言したのは彼である。その折にも周瑜に何くれとなく連絡を取り、その意志を確かめようとしていた。
「子敬は怖い男だぞ」
俺は奴とだけは喧嘩をしたくない。そう、周瑜も微笑を返す。先代の存命の折、魯粛をこの呉へ導いたのは、誰あろう彼だ。魯粛という男の、見た目の鷹揚さに隠れた大胆さや豪毅さをいちはやく見抜いたのは周瑜である。怖いという評は、裏を返せばそれだけ魯粛という男を買っているという事か。
ならば、周瑜は魯粛と同じく抗戦派か、と考える甘寧の眼の前で、周瑜は襟元を押え、僅かに肩を顫わせた。寝起きに風が冷たく感じるのだろうかと、彼が考えたそばから、周瑜は2度目のくしゃみの発作に襲われていた。
「…周郎、」
さすがに見かねて、甘寧は近くの酒家に彼を誘う。けれどその言葉に対して、周瑜はまたしても揶揄う様な微笑を浮かべ、彼を振向いて云った。
「お前の馴染みの伎女(おんな)がいる肆(みせ)か?」
その科白に甘寧は酷く複雑な表情で絶句し、それに周瑜の笑いと3度目のくしゃみが続く。
「あんたも大概、悪党だな」
やめたやめた、と甘寧は吐き棄てた。
「美周郎様なんざ連れてったら、酒の座ばかりか俺の馴染みまで食われちまう」
「随分と自信がないな、甘興覇ともあろう男が」
酒家でも妓楼でも、前の通りを歩いただけで娼妓(おんな)が寄って来ると豪語していたのを聞いたんだが?そう、周瑜は笑いながら続けた。
「俺も一応、己ってモンを判ってますよ」
あんたと比べられちゃあ分が悪い、と甘寧は顔を顰め、ともかくも家までこの困った上司を送り届けるべきかと思案する。だがそこに、駆け足の跫音が響き、二人はほぼ同時に振向いた。
先に周瑜の寝顔を覗き込んでいた娘のひとりが、そこにいた。家の側に火を焚いたので、よければそこで暖を取って行くといいという。
「辱ない。そうさせてもらえると有難いな」
甘寧に向けたものとは雲泥の優しげな微笑で周瑜は応え、娘は頬を染めて俯向き、彼等を導いた。全くこの悪党が、と甘寧は数歩先を歩く男の背を眺め、そして何故か、その微笑に違和感にも近い何かを感じた。
何、とはっきり表せるものではない。ただ、以前から感じていたものだった。端正な顔に浮ぶ微笑は、それが冷笑であっても、確かに若い娘が見蕩れるだけの事はある。同じ男の己にして、美しいなどという、ついぞ男には使ったことのない形容が頭に浮んだ程だ。
だが、何故かその微笑が稀に、酷く居心地の悪い…正に、何か違和感の様なものを感じさせる。最初に会った時からそうだった。策士らしく、何かを肚に溜めている所為かとも思った。実の伴わぬ笑みだな、とも思った。だからこそ、この男に悪党と毒付いてしまう事がままあるのだが。だが、それとも何かが違う気がすると、ふとこの時、甘寧は感じた。
娘に導かれ、二人は粗末な家の側に焚かれた火の側で暖を取った。酒は無かったが、白湯を供され、そしてどこか立ち去り難い風情を見せながらも、娘はまだ何か仕事でもあるのか、いずこかへ立ち去ってゆく。家の前には、網を繕う老いた男の姿があった。それがこの家の主人なのであろうが、そちらは彼等に興味を向けた風もなく、無心に作業を続けていた。
「人心地ついたな」
碗を手に弄びながら、周瑜が呟く。
「そりゃ良かったですな。仮病じゃなく、本当に風邪をひいちまうトコだった」
甘寧の言葉に、全くだ、と周瑜は頷いた。
「風邪は拙い。俺にとりつく風邪など、子等に伝染りでもしたら死んでしまうと、家から閉め出されてしまう」
「奥方にですか?」
そうだ、と周瑜は笑いもせず応える。
「昔から俺は丈夫だったからな。風邪をひいた事など、数える程しかない」
その言に、全く見た目を裏切る男だと甘寧は鼻を鳴らし、嗤った。顔だけ見ていれば、いっそ蒲柳の質だと云っても通じるだろうにと。だがそう云いつつも、軍を任されている周瑜が華奢という言葉からは縁遠い人間だという事は知っている。鎧に着られている様では、軍の指揮官などはとても勤まらないのが現実だ。
「にしても、長閑(のどか)だな」
戦か降伏かなんて際どい状況の中でも、女は子供の風邪を心配する。そう感心した様に呟いた甘寧に、周瑜は唇許だけでちらりと嗤った。
「人間とは強いものだ。嵐が近付いていても、それが本当に迫るまでは日々の営みを常と同じ様に繰り返す」
あの漁民の様に網を繕い、働いている。娘たちにしろ、他の民にしろ、見えぬ大軍よりも明日の暮しの方が大切だ。
「そして、そうでなければ、俺たちは戦など出来ぬ。戦をする意味などない」
戦という大嵐が来れば、嫌でもそれに関わらぬ人は静かにならざるを得ない。己を護る為に息を潜め、それが過ぎるのを待つしかない。騒がしい日常が静まり返るのは嵐の中でのみだ。
「そして、それが長く続けば国は保たぬ」
周瑜の言葉に甘寧はぼんやりと、大家の郎子(若様)らしからぬ物言いだと、ふと思った。そして同時に、その時浮かべた周瑜の表情に、やはり幾度も感じた違和感らしきものを感じる己が不思議だと、そう思った。
だがそこから目を逸らし、彼は混ぜ返す様に皮肉げに嗤う。
「将軍(孫権の事)の周りじゃ、もう嵐が来たみたいに思えますがね」
息苦しくて適わねえ。固く戸締りした家の中に押込められた気分になる。その甘寧の言葉に、そうだろうな、と周瑜は僅かに残った白湯で唇を濡らす。
「内治の人間にとっては、もう嵐の中にいるようなものだ」
戦になろうとなるまいと、彼等はその中で国を保つ為に如何にすべきか周到な用意をせねばならない。今年の収穫、そして軍が消費する兵糧、もし戦が起こった場合に来年の収穫にどう影響するか、官庫の備蓄はどれほどか、武具は揃っているか、馬を買う銭はあるか。
「…それらの数字を全て弾き出し、戦が出来るか否かを数から考える。それが出来ねば内治など成らぬ。そして、そうやって背後を護る者が有能なればこそ、俺達は与えられた武の力を以て国を護ることができる…戦という嵐を起こしてな」
この呉会の人士たちは優秀だ、と周瑜は溜息と共に吐きだした。だがその声には揶揄の成分はなく、寧ろ素直な賛嘆の響きだけがあった。
「周郎は、」
戦をするべきだと思うのか、と甘寧は問う。だが応えはなかった。逆に、その男は彼に更に問いを向けてくる。
「お前は、戦がしたいだろう?」
「そりゃそうだ」
黙って降伏する位なら、俺は配下を引き連れてここからまた逃げ出すね。そう、彼は応える。
「でけえ嵐に自分が漸く辿りついたでけえ家が潰されるのを、黙って見てる訳にゃいかねえ。何とかするさ。嵐ならどうしょうもねえが、来るのは敵だ」
眼の前の敵を殴り倒し続けりゃ、いつか活路は見えてくる。それで最後に立ってりゃ俺の勝ちだ。
その彼の応えに、周瑜は軽く眉を動かした。
「なんとも単純でいい」
「あんた程、出来のいい頭を持っちゃいねえからな」
取り敢えず、じっとしてるよりゃ動いてる方が性に適う。そう、甘寧は云いながら、物騒とも言える笑みを周瑜に向けた。
それを目を細めてじっと見詰めながら、周瑜はぽつりと呟く。
「殴るなら、」
一撃で出来ねばだめだ。一撃で相手を昏倒させるだけの技と力が欲しい。そう、彼は呟く。
「一撃か?」
「きつい一撃でなければ、意味がない」
そのまま昏倒した相手に3、4発も叩き込み、殺さぬまでも重傷となる喧嘩に持込まねばならん。相手は大きいが、大きいからこそ、それが出来ねばこちらが敗ける。
そう、周瑜は強い声で語りながら、甘寧から燃える火へと視線を映した。
「相手が漸く起上がる頃には、既にこちらの隙はなく、戦局を覆す事はできぬ。そう思わせるだけの喧嘩が必要だ」
「云うねえ、あんた」
簡単に云うが、そりゃ難しい。そう、甘寧は表情のない周瑜の横顔を眺める。冗談とも取れる譬え話ではあったが、しかしそこにある表情は真剣そのものだ。
「そういう時の為に、お前の様な喧嘩上手がいる」
それしか能の無いものが、それすら満足に出来ぬとなれば、今まで与えた禄を返して貰わねばならんな、とそればかりは揶揄い混じりに嗤いが滲み、再び自分に視線が戻される。
「自信がないか?」
お前程の男だ、80万の大軍という風評に怖気付く筈もあるまい。そう続けられれば、甘寧としても苦笑せざるを得ない。
「とんでもない悪党が、軍を率いているもんだ」
今俺が怖気付いたと云えば、即座に切り捨てられるだろうぜ、と甘寧は吐き棄て、周瑜は無言だった。
だが、ふと甘寧は、自分を見る周瑜の視線が色彩を変えた事に気付き、怪訝に思う。
それが表情に現れたものか、周瑜は片手を上げて、自分の左の頬骨の辺りを軽く指で示して見せた。はっと気付いて、甘寧はそこに手を宛てる。
うすい傷痕がそこにあった。さほど大きくも、目立つ訳でもない。だが光がきつい陰影を描けばかなりくっきりと浮び上がって見える。恐らくは、焚火の光(かげ)が際立たせてしまったものだろう。
そういえば、と甘寧は思う。この江東に来てからずっと、この男は何故か自分のこの傷を気にしていた様な気がすると。それについて口に出した事はないが、言葉を交わすその時に、ふと気付けば周瑜の目が自分のこの傷を追っていた事が何度かある。尤も、すぐに視線を逸らされ、錯覚かと思っているうちに話に紛れてしまうのだが。
「親不幸って、云いてえんですかね」
自嘲ぎみに甘寧は傷を撫でながら問い掛けた。親から貰った五体を全うするのが子の第一の孝行で、傷痕などもっての他というのがこの時代の倫理観だ。戦に出る武人であれば、傷のひとつやふたつあって然るべきだが、しかし顔の傷は目立ち、あまり良い顔をされない。
「いや、」
周瑜は手を降ろし、首を横に振った。
「錦帆の賊、甘興覇ともあろう男に傷を負わせた奴がいるとはな、と思っていたまでだ」
だが、そう云いながらも、何故だろう、甘寧はその傷を見る周瑜の眼に、一抹の寂寥のような色彩を見た気がした。自分の過去を知りたい訳ではないのだろうと、そう思う。寧ろ誰かを思い起こしている様な眼だと、そう感じた。離れていた旧知を漸く見出した時に見せる表情に近いと、何故かそう思えた。
だが、誰を思い起こしているとは問わず、甘寧は肩を竦め、周瑜から眼を逸らし、衰えてきた火勢の中に脇にあった枯れ木を放り込んだ。
「下らねェ喧嘩でついた傷だ。自慢にもなりゃしねえ」
そうか、と周瑜は呟き、それ以上は問わなかった。
しかし、実のところはそうではない。下らない喧嘩ではなく、その傷は昔、戦でついた傷だった。もう、十数年前にもなるであろうか。
甘寧の故郷は、長江を西へ遡った益州、巴郡である。父は早く死に、母を養う為に、一旦官途についたこともあった。会計報告を任じられ、最後には蜀郡の丞に任じられた事もある。
だが、そうして過ごす日々は退屈だった。加えて、益州の牧である劉焉の許では地元の人間である益州の民はやや冷遇されていたといっていい。劉エンは、江夏の出自で、武力で以て益州の豪族十数名を討伐し、のちに統一したという経緯もある。その折に力を振るったのは「東州兵」と呼ばれる荊州――即ち南陽や三輔からの流民によって編制された軍隊である。
勢い益州では東州兵の力が強くなり、益州の人士はその風下に置かれていたようなものだった。元々、役人として人に使われる事など苦手な性質だった甘寧は、その風潮の中、莫迦々々しさを感じて官を棄て野に下った。そして、暴れた。
人を殺す事もままあった。誰かが自分を頼って逃げ込めば、罪人であっても命懸けでそれを匿いもした。派手なつくりの船を連ね、仲間たちと共にその辺りを騒がせた。寄遇した先でもてなされればそれでよし、出し惜しみをすれば容赦なく奪い取るという傍若無人を繰り返し、腰に付けた鈴が鳴れば、その音で甘寧が来たと近隣が顫え上がる程だった。甘寧の一党はその身なりや船の派手やかさから「錦帆賊」と呼ばれ、知れ渡った。そうやって自分の名が知られてゆくのは気分が良かったし、何より酒を呑んで好き放題暴れるのが楽しかった。
だが、このままではいけない、と思ったのは何時の事だっただろうか。
遥か江を下った呉会の地に、孫家の遺児が旗揚げをしたと風の噂で聞いた頃だっただろうか。
孫家の遺児は未だ20そこそこの若さだという。それが非業の死を遂げた父、孫堅の遺志を嗣ぐべく、郷里である呉の地において自分の地盤を固めるべく快進撃を見せているという。あっという間に噂は流れ、呉の地の豪族をあるいは傘下に入れ、あるいは撃破し留まる事を知らぬ勢いだったという。
然程、年は変わらぬ。なのに己との差はどうだと甘寧はその風評を聞いた時はっきりと感じたのを覚えている。益州の田舎で不遇をかこち、ただ不満をぶちまけるように暴れている俺はなんだ?一生俺は、賊のままで了(お)わるのか?
そうではない、そんな筈はないという焦りにも似た気持ちがあった。自分はひとかどの漢になれる筈だ。けれど幾ら力を持てど、それを揮う場がなければ己の力量を知らしめる事はできぬ。遠く離れた土地まで、甘興覇(甘寧)その人ありと、己の名を轟かせる事はできようはずもない。
そんな時だった。巴西の趙イという漢が誘いをかけてきた。益州は丁度、劉エンが死去し、息子の劉璋が後継として立ったばかりだった。だが劉璋は良く云えば温和、要は柔弱で統率力に欠けたお坊っちゃまだったといっていい。父からひきついだ東州兵を押え切る事ができず、益州土着の民に対する風当たりは益々強い。
『お前も東州の兵に入ったらどうだね。うちの何代か前は東州、つまり南陽の出だよ?』
老いた母親は一向に落着く事を知らぬ彼に、幾度かそう口説いた事がある。だが甘寧は違う、と思った。それは違うと。自分のやりたい事はそんな事じゃない。第一、劉璋について何が得られる。東州兵の部隊長にでもなって、それで終いだ。そんなものを自分は望んでいた訳ではない。加えて、我が者顔に益州をのしあるく東州兵の傍若無人を忌み嫌ったからこそ、自分はこうして更なる傍若で応じていたというのに、今更その軍に加われるか。
奴等は、敵だ。そう思っていた。
趙イはその頃、同じく土着の益州人を率いて、劉璋を追い落とそうとしていた。劉璋とその配下の東州兵を巴蜀の地から追い出し、その政権を益州人の手に取り戻すべしと、人を集めていた。その誘いに甘寧もまた乗ったのだ。
乱は起きた。だが益州人の叛乱軍は惨憺たる敗北を喫した。誰あろう、最も憎い東州兵に敗けたのだ。劉璋は弱い。だが東州兵は強かった。己の武力がこの益州を平らげたとの自負もあっただろう。
仲間を幾人も失い、とにかく散って逃げろと甘寧は敗け戦の中で叫んだ。これまで破落戸(ごろつき)同士の小競り合いは何度も経験したが、戦らしい戦は初めてだったといっていい。それに彼は敗けたのだ。少数の部隊を率いて死地にあった彼が活き延び得たのは、ひとえに彼の武勇が抽んでていたからに他ならないが、しかし一人の武勇では戦局が覆らぬ事を彼は敗走の中で骨の髄まで思い知った。自分は敗けなくとも、大将となった趙イは既に捕えられていた。そして自分は未だ、共に暴れていた仲間しかおらぬ。それだけでは一人で抗戦することも適わぬ。
逃げなければと彼は母を残した家へと奔った。このまま巴郡に留まっていては間違いなく劉璋の配下に捕えられるだろう。そして二度と日の目を見る事はできぬだろう。
敵の刃に剔られた頬の傷から血を流し、散った仲間にも巴蜀を抜けろと命じながら、彼はともかく母親を連れて江を下ろうと考えていた。それからの事は、落着いてから考えればよいと。
だが家に辿りついた時、母親は既に亡かった。
少し前から患った病をこじらせていたらしい。甘寧が趙イの軍に加わるべく家を飛出してすぐ、母親は病の床につき、あっけなく死んでいた。
後顧の憂いはない、あとは逃げて己の途を好きに進むがいいと云わんばかりの潔さで、遺言も蓄えもないまま、誰にも看取られず息を引取っていた。
その母の遺骸の前で膝を付き、暫し茫然としていた甘寧は、我に返って熾しく哭いた。物心ついてから、声を放って哭いたのは初めてだったかもしれない。
ただ、悔しかった。
敗けたのだと、そう思った。自分は一体何をしていたのだと、そう思った。老いた母親に何をしてやるでもなく、功名を焦ってただ無為に暴れ、そしてこの始末だ。自分には何もない。名を立てるどころか、破落戸ばかりを集めた頭領として益州の田舎で天狗になって、挙げ句鼠の様に追われ叩きのめされて、惨めに戻れば、既に母も亡い。
つまらない喧嘩で怪我をする毎に、母親は自分を親不孝と詰った。親から貰った体に傷をつけて誇るなど、なんと愚かな子を産んだものかと歎いた。
喧嘩の傷は残らぬ。だが、初めての敗け戦で負った頬の傷は残るだろう。深い疵(きず)はまさしく不孝の罰だと、罪人の黥(入墨)にも等しいと、そう思って、ただ情無かった。自分はこんなつまらない男だったのかと思うと、涙が止まらなかった。
だが哭いていても始まらぬ。ここで留まれば、本当に己が唯の負け狗だと認める事になる。捕えられれば、死んだ母親の遺骸にも反逆者の母親として辱めが加えられるだろう。家の名にも泥を塗るだろう。御大層な家柄なんぞではなかったが、それでも、劉璋如きに反逆者の烙印を圧されて日陰者になるのは、そして日陰者のまま命を了えるのは耐え難かった。
何もしてやれず、迷惑ばかりをかけた母親をこれ以上苦しめるのは、嫌だった。
だから、逃げた。家に火をかけ、刀だけを掴んで江を下った。劉璋の勢力の及ぶ蜀の地から逃れ、そして行く宛てはない。再び集まった配下を食わせる術もない。
どこへ行く、と配下に問われ、彼が目を向けたのは、江東だった。
彼が遠く蜀の地でその名を聞いた、孫家の若殿。孫策という名だった。甘寧が逃げ出し途方に暮れている間にもその勢いは増し続け、颯爽たる姿、凄まじい勢いで呉会を席捲する力、気性の熾しさと果断さを称えて、彼は既に「小覇王」とも呼ばれていた。
会ってみたいと思った。
仕える仕えぬではない。ただ、会ってみたいと思った。己と年も変わらぬ孩子(こぞう)とも言える男が、江東でその名を天下に轟かせている。かたや己が賊として討伐されているというのに、あちらは天下を望む覇者としての礎をちゃくちゃくと築き上げている。
会ってみたかった。その男に会えば、己に何が足りなかったのか、そして己が本当は何をしたかったものか、判る気がした。左の頬の疵はやはり残った。そうやって不孝の烙印を圧されて項垂れる自分が、もう一度顔を上げ立ち上がるには、その漢に会うしかないと、彼はその時、どん底まで堕ちた己を慰める様に、そう、思っていたのだ。
だが、思いがけない事に、江東へ向かう途中荊州で、その牧である劉表に引き止められた。当時、境を接する孫策が近隣の勢力を纏め上げている事実に脅威を覚えていたのだろう。賊上がりとはいえ、纏まった人数が江東へ向かう事を懸念するのは当然だった。そうして甘寧は劉表の配下である黄祖の食客として、どこか荒んだまま数年の不遇を託つ事になるのだが。
ともあれ、今の甘寧は、一人の将として遇され、江東に存る。彼が江東に身を寄せる事が出来た時、彼が会いたいと願った若き小覇王は凶刃に斃れて亡かったが、その弟である孫権が呉会の地に磐石の基盤を築きつつあった。
そして、当時「小覇王」の傍らで、その片腕として名を知られた漢、美周郎と褒めそやされる漢が、孫呉随一の将師として、傍らに存る。だが甘寧はその漢に己の頬の疵を問われて、ただ喧嘩のそれと応えたのみだった。己が巴郡を逐われた理由も、この漢と、そしてこの漢に自分を引合せ、孫家の許へ留まれるよう尽力した呂子明…呂蒙は知っている。けれど、頬の疵痕について、甘寧は誰に語る事もしなかった。したくなかったというのが正直なところだ。
だが、その周瑜という漢は、甘寧の疵から己の手にした空の碗に視線を落としながら、思いがけぬ事を、呟いた。
「そういう疵を、」
己が手でつけた莫迦な漢を知っていた。
ともすれば江の風にかき消えぬばかりの低い声に、甘寧は覚えず目を向ける。だがそれきり周瑜は口を噤み、それ以上を問う事すら拒絶するような横顔ばかりが、硬く整って炎に照される。
それは誰だと問おうとする己を押し留め、甘寧は沈黙した。知っていた、と過去の形で呟いたならば、相手は既に亡いものかと、ただそれだけを思った。
そして、もしやと思う。もしや周瑜が己の疵に重ねて見るのは、もしや、と。
だがその疑念すら拒む様に、周瑜は、甘寧がいつも不思議な違和感を覚える、形ばかりは美しい微笑を彼に向け、皮肉げな声で問い掛ける。
「巴郡に、戻りたいか?」
唐突な問いに、甘寧は面食らった態で絶句する。周瑜は続けた。
「お前がこの呉に来て、殿に初めて目通りした折、荊州を破ったら次は益州を取り、曹操に拮抗する力を蓄えよと進言していた」
「俺は、」
周瑜の声を聞きながら、甘寧は自分の唇許が自嘲気味に歪むのを感じていた。
「故郷でもある、益州を殿に取って貰いてえのさ。そしてその軍の大将として、堂々と巴蜀に戻り、故郷に錦を飾りてえ」
俺はあの劉璋はボンクラだと思ってる。だから殿の軍ならそれを潰せると考えた。そして荊州と巴蜀を手に入れるのは、孫家にとっても覇業のひとつだ。彼はそう続け、周瑜はそれを黙って聞いていた。
「俺は、孫家の将として、蜀に戻る。その途上で、俺の邪魔をしやがった荊州の黄祖、益州の劉璋にも意趣返しをしてやりてえ。黄祖はもう潰したから、」
「残るは、劉璋」
「その通りだ。そして曹操と大戦をして、甘興覇ありと中華じゅうを顫え上がらせてやる」
殿が曹操とやり合えるだけの器だってのは信じてる。だが俺がここに来たのは、天下の為だなんて綺麗事だけの所為じゃねえ。利害の一致って奴だ。
低く甘寧は呟き、にやりと嗤って、周瑜を見た。
「孫家に絶対の忠節を誓う身としては、聞き捨てならねえか?」
「いや、」
お前らしい。そう、周瑜は笑い、碗を置くと立ち上がった。既に傾いた陽光の中で、焚き火は既に勢いを急速に失い、消え掛けている。その代わりの様に、眩しかった光が朽葉の色から、徐々に燃える様な色彩を帯び始めていた。
その中で、周瑜は江を見霽かす。落日の色にきらめく水面は淀みなく流れ、黄金の鱗を纏う龍の如くに延び、海から遠く巴蜀の地までもその蛇体を伸ばしている。
その流れ来る方角へ、周瑜は顔を向け、眩しげに目を細めていた。
「俺も、巴蜀は欲しいさ」
それが殿の為と思うのは事実。だが同時に、俺は俺の戦に勝つ為に、それを成そうとしているのも事実。そう、彼は云った。
「この江を紅く染め、焦土を拡げて進み行く、俺の才はそういう才だと幼い頃から知っていた」
ならばそれを揮い、最善を成すのみ。それが己にとって、孫家にとって最善でも、他者は非道と見るやも知れぬ。
そう語る彼の肩に、解いたままの髪が乱れている。だがそれを意に介する風情もなく、ただ声の穏やかさとは裏肚の、険しい瞳が先を見据える。
熱く焼いた鋼(まがね)の色だと、落日に染まるその瞳を見て甘寧はそう思い、そして唐突に、己は今眼の前に、とてつもなく可恐しい何かを見ているのではないかと、そう思えた。
降ろされた手が持ち上げられるその時、握る剣先に夥多の敵兵の無慚な屍尸が折り重なり、炎を上げる、その肉の匂いすら感じられた様な気がした。
覚えず息を呑み、腰を浮し掛けた甘寧を振向き、その男は凄惨な笑みを向ける。
「利害の一致と云った。その言や善し」
忠義も美徳だが、お前の様な男は己の為に闘ってこそ相応しい。己の名の為に闘え。
「周郎、」
「甘興覇、その名の如く覇を興せ。綺麗事よりそれを希(もと)める方がお前は己の真価を発揮する筈だ」
俺もまた、俺の戦をする。そう、周瑜は呟き、再び西の果てに目を向けた。落日が目指すその地を見霽かし、鋼の瞳が揺れる。
進み征(ゆ)く先を希(のぞ)みながら、しかしその目は、その地ではなく、寧ろ既に届かぬ悠い何かを追っている様に思われた。
云うなれば、甘寧の疵に何かを重ねて見ていたあの瞳の色彩にも近い。悠い地ではなく、悠い時…征く先ではなく過ぎた時を見ている様だと、彼は思った。もしくは、この眼の前の男にとって、それは等価なものなのか。
だが、不意に鋭い瞳の光は緩み、唇許が冷笑を刻む。
その後に続いた言葉に、甘寧は思わず、背筋を電流にも似た何かが走り抜けた様な、そんな錯覚に襲われた。
『誰かの為に己を賭するなど、つまらんぞ――――』
やめておけ、と続いた言葉に、甘寧は言葉もなく、座ったままでその男を見上げている。
だが一瞬でその不穏さと凄絶さを払拭した男は、悪童の様な表情で笑い、陽が落ちる前に戻るか、と大きく伸びをしてみせた。
「遠望(えんぼう)以て帰るに当つ可し…」
その後に続いた謡(うた)に、甘寧は苦笑する。
「遠くを見て帰った気になる、ってなァ、周郎」
俺はともかく、あんたはとっとと家に戻りゃいいでしょうが、と漸く呪縛が解けた態で、彼は首を横に振った。声を立てて周瑜は笑い出し、そうするさ、と甘寧に背を向け、歩きだした。草を掻き分ける音が響き、残された彼にはあざやかに灼けた鋼の色の残像だけが残っている。
焚火は既に消え、辺りは徐々に暗くなり始めていた。
「遠望(えんぼう)以て帰るに当つ可し、か」
哀調を帯びたその謡(うた)は、誰が作ったものか知らぬが、酒場などへ行けばよく聞くものだった。泣き上戸の酔っ払いが調子外れに謡うのを甘寧も何度か聞いたが、周瑜のそれは大分趣(おもむき)を違えて耳に残る。
周瑜が軍人でありながら、音楽の素養に恵まれていることは周知の事実だ。成程、ただの鼻歌でも謡う人間によっちゃ違うもんだな、と彼は感じる。
そして、気付いた。
『帰らんと欲するも 家に人無く―――』
あの謡は確か、こう続いた筈だ。
周瑜の家に人がない訳がない。考え過ぎだと云えばそうだ。だが、最前に江を見霽かしていた周瑜の表情が、ただその俗謡を思いつきで謡わせたとは思えぬものだったのも事実だ。
彼は立ち上がり、既に漁師の家に礼を伸べ、立ち去ろうとしているその男の後ろ姿を見た。ちらりと見える横顔に、先に見た、あの背筋が凍るほどに凄絶な何かは感じられない。ただ、甘寧が不思議な違和感と共に見ていた、人当りのよい笑みだけがある。
『帰らんと欲するも 家に人無く―――』
帰りたくとも、その場所に希(もと)めるものは亡いのだ。
その裏声が響いた様な気がして、彼は再び、己の頬の疵に指を触れていた。
江の風は未だ謐かで、人は営々と日々の暮しを続けている。
だが確かに嵐は迫り、その故の静けさが周囲を蓋おうとしていた。
その、中で。
確かに彼は、苦い追憶と共に、己が何故「その時」に賊であったのかと、悔やんでいた。何故「その時」に、彼の人がいた場所に共に存る事が出来なかったのかと。
そうなれば、己の天命も、もしや幾許か違ったものになりはしなかったか―――?
考えても詮無い事だ。柄でもないと、そう思う。けれど確かに彼は、その男が西を望み見せた表情が、「その時」には如何なるものであったのか知りたいと、そう思っていた。
Return
(いわゆる赤壁直前にサボタージュ。望南の番外編ということで、まだ明らかにしてないそっちの設定が絡んできたりで良く判らなくなる、要はイタい失敗しております。
太ちゃん捕獲大作戦の前にインターバル。同時に「あの」夷陵(甘寧救出大作戦)キャンペーンのオマケというか。ちなみに先の「既生覇(上弦月)」と対で「既死覇」は下弦月の意味ですが。
…よう判らん話になってます。まさに長いモノの中からちみっと引っ張ってきたみたいな。スミマセン今回マジ駄作じゃわ。東州兵の掘り下げも浅いし。というより甘寧絡みで、あの益州の代替わりの時の騒動と東州兵についてはもちっとツッコんでみたいキモチ。「料理人殺しちゃったゴメンりょもちん」事件とも連鎖する筈だし。習作ということでゴメン!) |