既生覇−2
 とまれ、これは過去の話で、今は小覇王と呼ばれた孫策はおらぬ。呂蒙の主君は今やその弟である孫権である。
 その孫権が仇と狙う男が、江夏にいた。劉表の将、黄祖という男である。孫策・孫権の父親である孫堅が横死したのは、その劉表を攻めていた折、黄祖の兵卒が放った流れ矢に当った為である。その後遺された軍は黄祖を捕えたが、奪われた孫堅の遺骸を引取る条件として劉表は黄祖の身柄を要求し、彼等はそれを呑んだという経緯があった。
 戦場での生死は無常なるものだが、仇は仇。ひとつの名目とは成る。江夏を手に入れるのは孫家の荊州戦略の中で大きな意味を持ち、その名目として彼等が掲げるのは仇討ちとして黄租を獲るという旗印である。孫策の生前にも江夏の攻略は行なっていたが黄祖を討つ事は叶わず、孫策を嗣いだ孫権が自身の手でそれを行なうという事にも大きな意味はあった。
 無論、孫権も先に黄祖討伐の軍は出している。だがあと一歩のところまで追い詰め、黄祖を敗走させながら、黄祖を捕える事は叶わなかった。
 敗走する黄祖の軍の殿軍(しんがり)を努めた一隊。それを呂蒙も覚えている。凄まじい勢いで追撃する孫権の軍を防ぎ、ともすれば大将の敗走により総崩れになりかねぬ軍を最後尾で纏め、追撃を防いだ見事な手腕。その一隊の隊長が放った矢が孫権の武将である凌操の命を奪って進軍を食い止めたというのを呂蒙は今も鮮明に覚えていた。
 ただ止めて、深追いせずに軍をかえしたその鮮やかさ。あれほどの男が黄祖の許にいたのかと、それを知るものは密かに囁き合った。乱戦の中から追っ手の急所を過たず捕えた弓の腕も、返した馬の手綱捌きも空恐ろしい程だったと。
 その男が、黄祖の許を離れ、孫権の許へ身を寄せたいと、突拍子もないことを報らせて寄越した。それが呂蒙を今、困惑させている所以である。
「希ってもない話といえば、そうではあるな」
 ともかくも自分なりにその報を受け容れ、知らせた先で、その相手は呟いた。
 孫家の水軍を預る若き将師、周公瑾である。だがそう呟いた後で、彼は僅かに首を傾げ、そして呂蒙に穏やかに問い掛けた。
「それで子明、お前はそれをどう思う」
 そら来た、と呂蒙は苦笑を押し隠し、その人の唇許を見ながら応えた。
「容れるべきかと。容れるに損はないと」
 考えに考えた末の結論に頷き、その人はそれでもやはり考える風情を見せる。相手に熟慮を乞うたなら、己もまた己なりの思慮を成す。それがその人の在り方だ。それが意地悪ではなく、信頼と誠意の裏返しだと気付くのに時間はかかったが、今の呂蒙はそれを識り、逆にそれをされねば棄てられたと感じるだろうと、そう思う。
 穏やかな風情、穏やかで深みのある声。整った面には漣ひとつ立たぬ静けさだけがあり、整った顔の静けさはいっそ冷たさすら覚える。もしや、整い過ぎた貌というのは損をすることもあるのかも知れぬと呂蒙は慮(おも)う。整った貌だが、ふと視線を逸らし、その貌を如何なるものか述べよと云われれば惑う。稀有な整いかたは特徴というものを削ぎ落とし極端なる均整を見せ、それ故に美しいとそれのみが印象として残る。彼の人の裡にあるものを知らねばまさに捕え所のないもので、人を惹きながら深くに立ち入らせぬ壁ともなる。
 だがその美貌の主は、ちらりと笑みを見せ、揶揄う様につづけた。
「にしても、大した面の皮だ。己を仇と狙う者がいるやも知れぬ、きのうの敵軍に身売りするなど」
 埋伏と考えられても仕方があるまいに。そう云う声はいっそ楽しげで、響きによっては意地が悪い。この人はこういう事をさらりと口に出すから、と呂蒙は今度は苦笑を禁じ得なかった。
「埋伏の毒を仕込むには遅い。第一、黄祖がそういう手を打てる将ではないと、周郎も御存知だ」
 それはそうか、と呂蒙の言葉にその人は軽く笑い声を立てた。そういう迂遠な手を打つより、喪を狙って巻き返しを謀る方が黄祖らしいと。
 黄祖を敗走させた後、孫権が追撃の軍を出さなかったのは、孫権が母親の喪に服していた所為である。母親といっても孫権を産んだ女性は未だ健在で、亡くなったのはその妹である。だが妹もまた孫権の父である孫堅に嫁いでおり、ために彼女もまた孫権は母と同等に遇していた。
 その喪中に、この報である。
「子明は、その男を見たか?」
 尋ねた周瑜に、呂蒙は頷いた。
「会って、話をしました。甘寧、字を興覇という男で」
 信がおけると思われました。そう続けた呂蒙に周瑜はそうか、と微笑する。
「子明がそう思うなら、信ずるに足るだろう」
 ともかく俺も会ってみたい。それからだ、と頷いた周瑜は、更に座を立ち笑いながら、またしても呂蒙が苦笑せざるを得ない言葉を呟いた。
「昨日の敵は今日の朋という言葉を地でゆくほどの男なら、面の皮のみならず自分を売込めるだけの口と手腕もあるだろう。その気構えをまず拝ませて頂こう」
 俺と殿の信がおけるかどうかは、その後だ。面の皮だけで世の中渡れぬと向こうも先刻承知の事だろう。
 そういう物言いをするのが周瑜という男で、だからこそ自分はもしや、あの甘寧という男をこの上司が気に入るのではないかとそう思ったのだと、口には出さねど呂蒙は改めてそう思い、つい苦笑に溜息が混じった。
 

 呂蒙が初めて会った甘寧という男は、柄があまり宜しくないと自覚している呂蒙ですら、どこの賊だと思ったほどの強面で、そして下品の至近距離にあった。
 いでたちの派手さはともかくとして、その腰に下げた鈴である。歩くと騒がしくなる鈴は彼の全身から発する派手な風情とあいまって、まさに存在そのものの騒がしさすら思わせる。
 その男が、一応の礼は弁えているのか、辞を低くして呂蒙に接するのが、いっそ奇妙な愛嬌すら感じられ、呂蒙は一旦構えを解き、その男に尋ねた。
「貴殿の言い分はあい判ったが、しかし貴殿は黄祖に仕えたものだろう」
「仕えたつもりはない。向こうもそうだ」
 きっぱりと、甘寧という男は応えた。歯切れの云い声はつよく引いた弓弦にも似た張りがある。
「向こうは某(それがし)を食客として扱っていた」
 食客というのは相応に遇されている間は恩を返すが、相手に己を用いる力量がないと知れば離れる。それだけの事だと甘寧は謂(い)う。
「第一、某は本来、そちらの孫家に向かうつもりだった。だが途上、軍を率いて通る事は叶わぬと黄祖に止められ、食を与えられた。だから、留まった」
「しかもその後、黄祖に従って我等と戈を交えた」
「仕方あるまい。奇遇した相手がそちらと戦をするってんだ。喰った分だけ働くのは道理だろう。そこで手柄を立てればよりよい待遇が得られるかもしれん。食客とはそういうものだ」
 筋は通っている。成程な、と呂蒙は頷き、そして将として取り繕おうとする言葉の端々から覗く生地に内心で苦笑していた。なるほどこの生地は、黄祖、ひいてはその主君である劉表のところでは遇(あ)うまい。劉表は家柄の良さとその知性を重んじる、つまりは文というものを愛でる相手である。賊すれすれの生地の悪さを見せる毛並みの悪さは好まれまい。尤も、呂蒙やその主君当りにすれば、その毛並みの悪さが威勢の良さと感じられ、いっそ好ましくすらあるのだが。
「…だが、貴殿は先の戦で功があった」
 貴殿の所為で黄祖を逃したといってもいい。その功で待遇は良くなりはしていないのいか。
 そう問う呂蒙に、甘寧は苦い貌をした。
「してたらンな処にいるもんかよ。その位判るだろ」
 舌打ちすらした男の言葉が崩れ、今度こそ呂蒙は肩を顫わせて笑った。甘寧は続ける。
「そうだよ、こないだの戦での殿(しんがり)は俺だった。大した腕だと思ったろ?」
「余裕を持った撤退とすら見えた」
「それも俺の腕だ。実際、死地だったんだぜ。敗軍の殿なんてのは大概、死地だ」
 そこに踏ん張って命救ってやったのに、あの野郎、待遇を変える事は全くなかった。そう、甘寧は吐き棄てる。
「それどころか、俺の子飼いを引き抜き始めた。俺は俺で猟犬として飼い殺し、部下は自分の子飼いにする。汚ねえやり口さ」
 やってられっかってんだ、という言葉を吐く表情に妄(うそ)はない。だがその子供じみた表情に呂蒙は堪り兼ねて声を立てて笑い、甘寧という男の眉を顰めさせた。
「ンだよ、その笑いは」
「面白い奴だと思ったから笑っただけだ。他意はないさ」
 あの殿を率いた羅刹の様な男を使えぬ黄祖という男もまた莫迦だと思うしな、と続けた呂蒙に、甘寧は我が意を得たりという表情で身を乗り出す。
「あんた、話が判るねェ」
 その反応に、呂蒙は更に好感を持つ。悪くない、と思った。腕も立ち、性格に影が少ない。世の中を渡るだけのすすとさはあるが、それが悪い意味で陰影を添えていない。それが判る。
 だが、やはりそれを容れるには問題というものが無い訳ではない。
「俺は、貴殿をご主君に勧める事に、否やはない」
 だが、と呂蒙は笑いを収め、真顔になると、声を低めた。
「だがな、先の戦でお前が矢で射た男。あの男の遺児が、遺された軍を纏め、率いている」
「あァ、そういや、あの乱戦の中にえらい小さな餓鬼がひとり、いたなあ」
 泣き喚きながらも軍を纏め直してた。立派なもんだと思ったよ、と応える甘寧の声はあっけらかんとしたものだ。あの乱戦でそこまで見たか、と呂蒙は素直に感嘆したが、しかし彼の論点は違うところにあった。
「その遺児は、貴殿を仇と狙うだろう。無論、その配下も貴殿を良くは思わん」
 軍中にも同じ空気はあり、貴殿を用いるに否と云うかも知れん。そう続けた呂蒙に相手は眼を見開き、そして頓狂なほどに高い声で、応えた。
「そんなもん、俺の知った事かよ!?」
 俺はその餓鬼の親父だと知って、そいつを狙った訳じゃねえ。戦で、たまたまその男の部隊が前にいた、それだけだ。その大将を狙うのは相手に含みがあるからじゃねえ。当然の事だろうが。
 その応えに今度は呂蒙が唖然と眼を見開き、そして死んだ凌操にもその息子である凌統という青年にも申し訳ないと思いつつ、失笑した。
「そうだろ?戦ってなァそういうモンだろ?俺は別に悪い事をした覚えァねえよ。餓鬼にも親父にも含みはねえし、バタバタ死んだ黄祖の軍の連中にだって子も親もあらァ」
 そんなもん、一々気にして戦が出来るか。嫌なら戦なんか出なきゃいい。
 続ける甘寧を呂蒙は手で遮り、もういい判った、だがそれを殿の前で云う時には言葉を撰べ、とそれだけを告げた。
 凌統の事は、痛々しいとは思う。二十歳にも満たぬ若さで親を失う気持ちは、同じく早く父を失った呂蒙にも判る。だがその情誼とは違うところに、この男は立っている。説くだけ無駄だ。そういう、自分とは違う次元でものを視るのがこの男なのだと、それだけを考える事にした。
 そして、思った。
 情誼を切り放った、冷徹なほどの論理。倫理とは別のところにある、愚直な程の合理。これは誰かに似ているな、とそう思った。
 好悪の念より、使えるか使えぬか、それをまず第一に考えて誤解を招く行動に出る。そういう男が、自分の上には、もうひとりいる。
 眼の前の甘寧という男とは対極にあるといっていい、穏やかさと品の良さ。多分にそれは猫の皮だと誰かが評したが、そういう男を自分は良く知っており、主君に甘寧を推挙するには、まずその男を通すべきだ。
 おそらく、質が似ていればこそ、推挙するに当って巧く手を打つだろう。自分はこの男を信ずるべし、容れるべしと判断した。そこまででいい。あとは今度こそ、あの男に任せればいい。
 美周郎、などと羨望と揶揄いの混じった呼称で呼ばれるあの男。先代孫策の無二の親友である、あの綺麗で、少しばかり怖い男に。
 

 あの男か、と周瑜は遠くから甘寧を視て、眼を細めた。
 取り敢えず、どんな男か見極めるには、まず自分の素性を隠した方が良かろう。そう周瑜は呂蒙に告げ、たまさか立ち寄った呂蒙の知己とせよ、と彼に命じている。従って姿も、ごく瀟洒な平服である。その姿でも、やはり水際立って見えるのだから、身を窶した事にはならぬだろうなあ、と呂蒙は感嘆しつつも難義なことだと感じる。
 だが、その些細な難義よりも更に大きな難義が、眼の前に展開しており、思わず彼は眼を細めた。
 甘寧は、云われた通り、呂蒙を出迎える為に、宛てがった館の外にいる筈だった。確かに、そこにいる。
 だが呂蒙には未だ気付かぬのだろうその男の手にあったのは、今しがた人間を斬ったばかりの血刀だった。背を向けた甘寧の前に、斃れるいくたりかの姿がある。それが斬られた男だろう。
 拙いな、と呂蒙は思わず周瑜を伺った。案の定、眉を顰める白皙の貌がそこにある。
「周郎…」
「周郎、はやめろ。化けた意味がない」
 ぼそりと周瑜は呟き、じっとその鋭い視線が甘寧の背に注がれている。
 その視線に気付いたか、甘寧はゆっくりと振返り、頬の血を血刀を掴んだままの腕で拭った。些細な喧嘩でついた傷だと甘寧自身が先に呂蒙に話していた頬の傷痕が、白昼の陽差しにちらりと覗く。
 それを視た周瑜が息を呑んだのが、傍らの呂蒙にも伝わった。瞬きした周瑜の眼が見開かれ、一瞬、伸ばされた手が呂蒙の肩を掴む。表情を失った周瑜の動揺が、触れた手から直截に伝わり、眼の前の光景よりもその事に、呂蒙は驚いて傍らの男を伺った。
 だが驚愕はすぐに解け、詰めていた呼吸が唇を解くと、それはふわりと笑みに代わる。一瞬弾けた火花の様なあざやかな笑顔が、更に苦笑へ、そして冷笑へと代わり、呂蒙の耳に届いたのは、聞き慣れた、揶揄う様な声だった。
「さても、物騒な男だな」
 笑みを含んだ声のまま周瑜は呟き、斃れている死骸へと視線が向けられる。漸く我にかえった呂蒙は、一歩歩み寄り、甘寧に厳しい声で尋ねた。
「どういう事だ。何の故あって、その男どもを斬った?」
 返答如何によっては、お前を推挙する話はないぞ、という声に、悪怯れない容子で甘寧という男は肩を竦めてみせる。
「狗が、混じってたんでね」
 黄祖も俺を、黙って行かせてくれる気はなかったらしい。そう甘寧は応え、血刀を軽く振るい、血飛沫が飛び散った。
「俺の配下に見慣れねえのがいたなと思ったら、案の定ってトコだ。俺を張ってたらしい」
「なるほど、お前の鼻は狗より鋭かったらしい」
 動じた風情は片鱗も残さず周瑜が云うと、甘寧は当たり前だ、と貌を顰めた。
「こちとら、ここに流れるまでに賊まがいの事もしてた。俺の配下(した)に毛並みの違うのが混じれば、すぐに判るさ」
「しかし、哀れな」
 哀れなどと欠片も思っておらぬ響きで、周瑜はそう告げる。
「その男達も、職務に忠実であっただけだろうに。まさか死ぬとは郷里で待つ家族も思っていまい」
「知るか。その怨みを宥めるのが、こいつらを遣った黄祖だろ」
 人にものを命じる時にゃ、相応の覚悟がいる。それをして、こいつらを弔うのが黄祖の役目ってもんだ。そう、甘寧は応える。
「首は向こうへ返してやらァ。尤も、あの吝嗇(けち)な親父が、失敗した配下をどう扱うかなんて眼に見えてるがなァ」
 だからって、俺がこいつらを哀れと思ってやる義理がどこにある、と、あくまでその男の論理は明快である。唇許にうすい笑みを刷いて、周瑜はただその男の云い状を聞いていた。呂蒙は思わず溜息を付き、だがその呂蒙の気苦労を知る由もない甘寧という男は、更に近付いて、周瑜の貌を覗き込むと、とんでもない言葉を云い添える。
「あんた、いい男だなァ」
 その旦那の連れか、と呂蒙を顎で指して尋ねた甘寧に、周瑜はそうだと応える。更に甘寧は眉を器用に片方だけ上げて、続けた。
「いい男だけど、その笑い方は気に入らねェ。哀れと思ってもねえのに敢えてンなおためごかしを云うのもだ」
「そうか?」
「おい、甘…」
 思わず口を挟み掛けた呂蒙の肩を軽く触れて周瑜は制し、首を傾げる。
「この貌は生まれつきだ。気に障られても、俺にはどうしようもない」
「貌が気に入らねェたぁ、云ってねェよ。寧ろ好みだね。女にしたら、って類いじゃねえが、掛け値なしに男前だ。いっそ惚れるね」
「それは良かった」
 相変わらず、周瑜は薄い笑みを浮かべたまま、それを聞いている。
「…だがな、その笑い方だ。肚でよからぬ事を考えてる面だな。あんた結構な悪党だ。そうでねえとしても、結構な悪党になれる面だ」
 余りの云い様に呂蒙は2の句も告げず、更に甘寧は続ける。
「先刻、俺が振向いた時は、一瞬見蕩れる様な貌で笑ったじゃねえか。ああいう面なら、俺は好きだな」
 その指摘に、周瑜は瞬きした。
「…長い事放っておかれた女が、漸く待ちかねた男に会えたって笑顔だった。あれは芯からの笑顔って奴だ。今の笑い貌はともかく、あれはいいな」
 オチるな、と甘寧は呟き、暫し呂蒙と周瑜は絶句していたが、その沈黙を破ったのは周瑜の笑い声だった。
「成程、そう視たか」
 中々鋭い男だな、俺も惚れそうだ。そう声を放って笑う周瑜に、呂蒙は思わず頭を抱え、首を振る。
「どうした、呂子明の旦那。ひとり苦虫噛み潰したみてェな面して」
「興覇殿…」
「子明をあまり困らせるな。これでも、お前を自軍に推挙すべく、骨折りをしてくれた恩人だろう」
 口を挟んだ周瑜の貌にあるのは、やはり甘寧が悪党と評した、その表情である。
「あんた、俺を知ってんのか」
 尋ねた甘寧に、周瑜は肩を竦める。
「黄祖の食客、甘興覇。先の戦での見事な殿(しんがり)、こちらでは語り草だ」
 覇を興す、なかなかいい字じゃないか、と周瑜は続け、少し考える風情を見せる。
「だが、覇という文字には月光の意味もある。月のしろい光に、曝された骨のしろい色を重ねて視た文字だ。覇ということばと同時に、死骨の静けさと夜闇を払う光の不吉さと、どちらもお前に似合いだな」
 夜襲の軍にあれば、動きを照す覇(月光)のひかりは死をも意味する。そういう光に貴殿はなれるか、とその人は問いかけた。
 呂蒙も思わぬ言葉に瞬きしたが、云われた甘寧もきょとんとして、絶句する。更に周瑜は揶揄う様に続けた。
「黄祖の食客が降るとなれば、構えはすれども、こちらは喜んで然るべきだ。さぞ黄祖の軍中や陣を良く知っていると誰もが思う。寧ろ、お前そのものよりも、その事実こそ最初は誰もが期待するだろうなあ」
 云い難い事をつらつらと口にする周瑜に、甘寧は何かを反論しようとしたらしい。無理もない。許の味方を売れ、それがお前の価値だと周瑜は歯に衣着せずに云ったようなものだ。
「あんた、」
「おい、気を悪くしたのか?昨日の敵に身売りしようとする男の面の皮はその程度か?」
 お前はもっと面の皮の厚い、神経の太い男だと思っていたのだが、と周瑜は笑う。
「何せ、自分を仇と狙う奴がいて当然という陣に身を投じるんだ。胆の太さも並ならぬだろうと思っていたのにな」
 その憎悪を自ら跳ねのけ、新たな主君(おとこ)の寵を真実得ようと思うなら、と周瑜は甘寧という男の表情を覗き込む様にして唇許を歪める。
「次に軍を出す時、貴殿が一番働きをすればいい。貴殿の手で、黄祖の首級を見事に挙げよ。それをもって、こちらは貴殿の忠誠の重さと見よう」
 これは大変だぞ。何せ、黄祖の首の重さは御主君にとっては覇者の足掛りだ。並の重さではない。
 続けた周瑜の眼差しはいつしか笑いを収め、その鋭さに甘寧は絶句する。
 絶句して、詰めていた呼吸を吐き出すと、首を横に振った。
「里心ついたか?なら帰れ」
 この程度で怯む男なら要らん。使えん。そう、周瑜は嘯く。
 たまりかねて、呂蒙が周瑜の袖を引き、呟いた。
「周郎…」
「周郎、だとォ?」
 聞き咎めた甘寧が声をはね挙げ、周瑜が貌を顰めて呂蒙を肘で小突いた。
「阿蒙の所為でばれたじゃないか」
 反射的にすみませんと応えた呂蒙は、しかしはっと我に返り、慌てて反論する。
「阿蒙はやめて下さい。ともかく、そんな言い方をされればどんな奴だっていい気分じゃありませんよ」
 いっそ甘寧が可哀相だ、とは云わぬが、内心でそう思っていた呂蒙の声に哀願の響きがある。だが周瑜はしれっと応えた。
「この程度で怯んでどうする。これから先、殿にこいつを引き合せた後の風当たりを考えろ」
 先に己の立場を弁え、つよい風当たりに慣れて貰うにはこの程度は当然だろう。
 それを本人の眼の前で悪怯れもせず云う当りが周郎だ、と呂蒙は頭を抱えたくなった。だが、同時に多少の安堵もある。
 つまりこういう物言いをするという事は、周瑜は眼の前の、いっそ粗暴とも言える男を気に入ったという事なのだ。全く、この綺麗な郎子(若様)は、最近大人らしくなられたという評はあるものの、こういう処は改められる気配もない。
 そういう処が周郎らしく、いっそ気分がいい程だと、呂蒙は諦め半分に思う。
「周郎、というと、あの周郎か」
「どんな噂が耳に入っているのか知らんが、俺が周公瑾だ」
 甘興覇どの、改めて宜しく頼むぞ、と周瑜は優雅なほどの動きで揖してみせる。
「我が主君への推挙の件、この周瑜も尽力しよう」
 子明の推挙でもあることだ、と彼はかるく呂蒙を見て、今度は険のない笑顔を向けた。
「この子明が信に足ると見たならば、誤りあるまい。それに充分、使えるな」
 未だ茫然としたままの甘寧に、周瑜はふと手を差し伸べ、僅かに屈んで、その腰に帯びた鈴を、指先に揺らした。
「だが、殿の御前に出るなら、これは外せ。」
 承知の事と思うが、我が主君は未だ喪中だ。騒がしいのは困る。
 慌てて甘寧はそれを押え、そして思い出した様に、礼を取る。
「申し送れた。某は甘寧、字は興覇…巴郡の出自で、」
「判っている。まずその血塗れの衣服を改めた後、ゆっくりと話をきこう」
 それまで、子明の館で待たせて貰うぞ、と周瑜は言い置いて、呂蒙を伴い、その場をあとにした。
 

「巴郡の出自か」
 甘寧は未だ現れぬ。先に呂蒙のみを連れて戻った周瑜は、ぼんやりとそう呟いた。
「色々な意味で使えるな。面白い」
「周郎、」
 しかしあれは意地が悪い。そう告げる呂蒙は、しかしその人が既に先のあれこれから一旦その怜悧な頭脳を引き剥がし、別の思索に沈みかけているのを、その横顔から悟っていた。
「巴郡に、何かありましたか」
「いや、」
 いずれ欲しい。こともなげに、その男はぽつりと呟き、そのさり気なさに呂蒙はそれを聞き流し掛け、そして数瞬の間を置いて尋ね返した。
「何ですと?」
「我が君のために、巴郡は欲しい」
 巴郡。つまり長江を遡った先にある西方の地、益州である。
 甘寧はその土地の出自であった。黄祖の許に留まる前は、巴郡を治める劉氏のもとで、役人などをしていたらしい。だが、性に遇わぬとすぐ止めて、賊まがいの暴れかたをしていたものが、そろそろ年貢の収め時かと落着き先を探した。そして、今の彼の境遇である。
「劉氏が、今の劉璋とやらに代替りしたとき、乱が起きたな」
「ああ、先代はともかく、劉璋は頼みにならぬから追い落とせと、彼の地で蜂起した者が多かったそうで」
 鎮圧されたものの、その動揺は未だその地に響いている。その乱に実は甘寧が加わっていた事も、呂蒙は本人の口から聞いていた。
『あのボンクラについてたってロクな事ァねえからな。だが追い落とすにゃ、黄口児の手勢の破落戸(ごろつき)ばかりじゃ手にあわねェ。だから、いっそそれを併呑できるだけの器について、故郷に錦を飾りてェって肚もある訳よ』
 かの男らしいあけすけな物言いをいくらか緩和し、呂蒙は周瑜に伝えていた。
 その事を、周瑜は云っている。だが巴郡はこの江東の地からは遠い。それを云えば、周瑜は頷き、どこか遠くを見遣って応えた。
「ああ、遠い。だが俺は巴蜀が欲しい。そこを足掛りに、更に西北…西涼の馬氏と組む」
 そうすれば、河北一帯を押え、帝を擁する曹操に拮抗できる。そう、かれは謂う。
「尤も、その為にはまず、目先の荊州を陥とさねば話にならんが」
「…遠大な話です、な」
 思わず息を呑む呂蒙に、周瑜は微かに目元を綻ばせた。
「阿蒙(蒙ちゃん)には、知っておいて欲しくてな」
「阿蒙はやめてくださいよ」
 貌を顰めながらも、呂蒙は何故か、この周瑜に「阿蒙」と呼ばれる事にさほどの嫌悪がない自分に気付いている。いい年をして子供扱いされているとも取れるが、同時に酷く、親しみの込められた物言いである様に感じられる、そういう声音で彼は呂蒙に呼び掛ける。「阿蒙」と。
 他の者なら許さぬものを、と彼は思い、そしてその巴郡を目指すという周瑜の言葉を、それを自分に知っておいて貰いたいと謂う人の声を、酷く嬉しいと感じていた。
「周郎がそこまで、壮大な計を考えておられるとは」
 確かに、その計略が成れば、天下は2分される。孫家は曹操と並び、天下を目指す磐石の地盤を獲るだろう。
 だが感心した端から、周瑜は肩を竦め、くすりと笑う。
「まあ、今のところは机上の空論という奴だがな」
「周郎、」
 これだからこの人は、と呂蒙はがくりと肩を落とす。相手が感心した端から、自分でその興に水を注す様な物言いをしれっとしてのける。そういう処が、程普という、先々代から仕える古参の将などに謂わせれば「黄口児が偉そうに小面憎いことを」と彼を良く思わぬ原因となるのだが。
 だが更に問題なのは、周瑜に全く悪気はなく、寧ろそうやっていちいち周瑜に苦言を呈する(呂蒙などはいっそ、ただの厭がらせで絡んでいるとしか思えないと稀に思う)程普に対しても、「あの御仁の小言が聞こえぬと、一日が始まった気がせぬよ」などと嘯く事なのだが。
 周瑜にすれば「小言も聞こえなくなれば、見捨てられたと思う。構って貰えるうちが華だ。鼻についているという事は、相手の視界に入っているという事だから」と、さも嬉しそうに語るところなのだが、呂蒙にすれば心臓に悪いことこの上ない。
 云ったところで、その性根は代わらぬのだろうと、今回の件でも思い知ったが。
「子明、」
 今度は字で呂蒙に呼び掛け、振向いた先に、酷く柔らかい眼差しがある。
「机上の空論を、現実にする。それが俺の努めだ。俺は、夢を夢のままで終わらせてしまう愚行はしたくない」
 あいつの様に。
 そう続けられた言葉に、覚えず呂蒙の表情が引き締まった。
 そして、気付く。ああ、そうか、この戦略はもしや、あの方の為のものであったかと。
 自分を導いた勁い声の持ち主。あのあざやかな光の様な声を持つ、先代の主君。今の主君の兄君、小覇王。
 同時に、その今は亡き男の頬にも、傷痕があった事を思い出した。甘寧というあの男の傷と同じ場所だ。同じ様な背格好の、あの男が振向いた刹那の周瑜の表情を、呂蒙は思い出して息を呑む。
『長い事放っておかれた女が、漸く待ちかねた男に会えたって笑顔だった』
 甘寧の言葉が甦り、だが周瑜はそれを否定するように首を横に振る。
「肖ているとは思っておらん。ただ、」
 あいつもあの手合いは気に入る性質だと思っただけだ。そう言葉を濁した周瑜の声が、幾らか弱い。
「俺は、」
 呂蒙は躊躇いながらも、切出した。
「あの甘興覇、小覇王よりもむしろ、周郎に肖ている気がした」
 だから、推した。そう告げる声に周瑜は驚いた様に口を噤み、そして酷く嫌そうに貌を顰めた。
「阿蒙、お前」
 嫌なことを云う様になったな、と周瑜は憮然と腕を組み、そこに呂蒙の家人が来客を告げる声が割って入った。
「…来たな」
 周瑜は呟き、呂蒙はその来客をこちらへ導く様にと、家人に告げる。
「巴郡の男が、来ましたな、周郎」
 忘れず、覚えておきますよ。そう呂蒙は告げ、周瑜は頷く。
「今は荊州。それだけを思え。でも忘れるな」
 遠くを常に見渡せ。
 その言葉を胆に命じ、呂蒙は自ら立って、衣服を改めてきた甘寧を室に導き入れた。
 

 そして、喪が明けると同時に彼等の主君である孫権は立ち、黄祖の首級を挙げる事となる。その戦において確かに甘寧は勲功を挙げ、己が有用なる事を行動によって示したのである。
 呉に甘寧あり。その将の名は永く讃えられ、けれど今はまだ彼は一介の将として、初めて見えたばかりである。
 

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