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 それをしてしまった己を、その男はいかなる心持ちで受け止めたのであろうか。
 何も語らぬまま、平北将軍たるその男は、都に戻るや自ら謹慎し、沙汰を待った。
 蜀兵一千を失い、魏軍と交戦したまま撤退すること叶わず年を跨いだことを咎として、平北将軍の位を退き、また与えられた陳倉侯の爵位をも返上することを、願い出た。

『承奕殿が爵位を得たのは、その功績が己に相応しいと、漸く認められたが故とばかり、思うていたものを―――』
 その男が帰還するや、謹慎したとの報を受け、彼の母は泣き崩れた。
『よもや、この様な事態を慮(おも)うての事であられたとは』
 付き従った馬氏が本家とは別に、己が爵位を得ることは、その男が、己の家を本家とは別に分けたと考えられなくもない。だが、その後も、その男は代わらずに、彼の家の影となり、側に存った。
 だが今、謹慎の身となった彼は、馬氏が本家の彼の許へ、姿を見せてはいない。
 この失態は、己ひとりのこと。亡きリ郷侯・馬超が遺した家とは関わりなきこと、処罰が下るというならば、己の身ひとつを以て、本家に類の及ばぬよう、帝に御願い奉る。
 その男は、殿軍を務めた事も、魏延を斬った事も功として云い立てる事はせず、ただそれを願ったという。
 
 
 
 

 彼は、奔(はし)った。
 夜の中、館を抜け出し、僅かに離れた、その男が謹慎する邸へと走った。
 何故そうしたのか判らぬ。ただ、そのことを聞くや否や、それをせずにはおられぬ心持ちで、駆出していた。
 その男に会わねばならぬと、会いたいと、そればかりを思って。
「岱はどこだ!」
 夜分に駆込んできた本家の幼い当主に、その邸は騒いだ。当然というべきか、彼の家に影の様に付き従う彼にも、蜀に入って娶った妻と、その子がある。それらは、謹慎の身である主が、敢えて類が及ばぬ様にと避けた筈の本家の少年の闖入に驚き、ともかくその少年を宥めようとしたらしい。伴もなく駆込んだ少年が、独り家を抜け出した事も知れただろう。その少年のおらぬ事を、そちらの家人が騒がぬ様にと、ただ朝を待てと告げ、館へ送って帰そうとした。
 けれど、彼はそれに頷かなかった。ただ、岱に会いたい、会わせろと、殆ど駄々を捏ねている態で泣き喚いた。
 その騒ぎは、邸の奥まで響いたか。
 「構わぬ、お通しせよ」との声があり、漸く彼は、家人の腕から解放され、その男の許へと飛込む事ができた。
「岱!」
 その部屋は灯もなく、昏い。その中に、沙汰を待つその男は静かに端座していた。

 常の如き穏やかさは、戦に窶れた中にも変わらずにある。それを見た彼は、頑是無い子供の様に、その影に縋り、ただ泣き叫んだ。
 岱は、行くなと。
「どうなされました、若」
 宥める声も、背を叩く手も、戦に出る前のその男と変わらぬ。けれど、彼はその腕に縋り、袖を握り緊めて引くと、しゃくりあげながら訴えた。
「帰って来ぬのかと、思った」
 岱がどこかへ、行ってしまう気がした。空を見上げたまま、その向こうにあるものを追って、どこかへ消えてしまう気がした。
 その彼の言葉に、その男は僅かに背を撫でる手に動揺を見せたが、しかし声はない。
 それに焦れたように、彼は繰り返した。
「岱はいくな、どこへもいくな!」
 涙を拭う事もせず、その男の顔を闇の中に見上げれば、彼を見降ろす眼が、幾度か瞬(しばたた)いたのが漸く映る。
「連れていってくれるんだろう?父上が見た碧(あお)を掴みに、連れて行ってくれると約束した!」
 おれが大きくなったら、岱より大きくなったら、連れて行ってくれるんだろう?
「やくそくしたのに!」
 訴える声に、やはり応えはない。
 ただ静かに、背に回った手が離れ、涙に汚れた彼の頬に、その固い掌が触れた。
「若―――、」
 呟く声が、彼に呼び掛け、そしてそれは、今いちど呼びかたを変えて向けられる。
「承どの」
 その時は気付かなかった。それまで「若」と呼んでいたその男が、己の名を、そうして呼び掛けた事は、これまでに無かったことだと。
 けれど、それに気付かぬ儘、彼は頬に触れる手の暖かさに、更に溢れてくる涙を隠すように、その男の胸にすがりつき、顔を埋める。
「岱は、ここにおります」
 穏やかな声がそれを謂い、再び背に回された手が、しっかりと己を抱き留めた。
「ここに。承どのの、お側におります」
 幾度もその声に頷き、けれど彼は、その男に縋る手を放すことができなかった。
 それをした刹那に、その男は言葉に反して、どこか自分も知らぬ、誰も知らぬ場所へ消えてしまうのではないかと、そればかりが可恐しかった。
 そして、暫しそうして彼を受け止めていた男は、穏やかなままのその声で、問い掛ける。
「承どのは、かえりたいと思われますか―――?」
 父君の存った、西の地へ。碧くあおい虚空(そら)の広がる、風の乾いた、その土地へ。
 そのことばに、彼の嗚咽も、躰の顫えも、不意に止まった。

「かえる―――?」
 恐る恐るその男を見上げても、房(部屋)は昏く、表情は影に沈んで、見る事は叶わない。
「この、岱の子等は、蜀で生まれ、蜀で育った。帰りたいなどと、思ったこともありますまい。帰るべき地があるとも、思っておりますまい」
 けれど、承どのは。
 云いさしたまま、その男は再び無言で、彼の頬に掌を触れ、宥める様に撫でる。
 彼は何も云わなかった。けれども、岱の実子たちと己が異なるとも、思わなかった。
 彼もまた、蜀で生まれ、蜀で育った。その外の天地を知らぬ、ひとりの幼子に過ぎぬ。けれど、闇の中にひたと向けられるその男の眼は、勁い光を放ち、何かを彼の裡に視る如く、語り掛けてくる。
 帰りたいと、思われますかと。
 彼の生まれる前に、既にこの世のひとではなかった父が乞うた、西の空にある碧(あお)の向こうにあるものを、掴みたいという言葉は、嘘ではありませぬかと。

 嘘ではない。
 あの日、虚空(そら)を仰ぎ手を伸ばした、その心に偽りなどない。その高みに届けと、色彩すら視ることを拒むほどの碧を欲(もと)めたのは、真実だ。
 その果てに何があるのかも知らず、己が乞うていたものは何であるのかも判らぬまま、その男が視ていた虚空(そら)に、自然、手を伸ばしていた。ただ、そうしたかった。
 そして、その男に抱き上げられ、確かに何かに届いたと、それを思って、嬉しかった。
 けれど―――けれど。

 その男の眼差しに身震いし、彼は弱く呟いた。
「母上を、置いてはゆけぬ」
 その館のある場所の他に、己の帰る場所があるのだろうか。幼い彼はそう思い、その男の向けた「帰る」という言葉を噛み締めた。
 その地は、帰る場所であるのか。
 そこで生まれ、暮したという父の顔すら、己は知らぬ。
 父が蜀で病没してのち、己は生まれた。そして、蜀で育った。亡き父を嗣ぎ、祀りを絶やさず、蜀漢の国に存って、その馬氏の名を穢すなと、それを繰り返し聞いて育った。
 その己が「帰る」のは―――
「承どの」
 影の中で、その男は微笑ったようだった。
 頬に触れた手が頭に触れ、そっと撫でる。それをする男を、彼は闇に眼を凝らし、息をころして見詰めることしかできぬ。
 その男は、云った。
「お母上の許へ、お帰りなさい」
 我儘を云って、お母上を困らせることは、なりませんぞ。
 素直に頷く彼に触れる手は、ただ穏やかに温かい。
「この蜀漢にあればこそ、若は馬氏が家を嗣ぎ、亡き父君のご威光を継いで、いずれは人に仰がれる方となる。かつて父君がそうあった如く、蜀漢の臣として、帝の許で位を昇らせる事になりましょう」
 けれど、辺土ではそれも叶いますまい。今のように、館で師について学問をなさる事も、できますまい。
 それを全て捨てる事を、敢えて望むことも、ありますまい。
 静かにそう告げる声に、彼はただ、頷いた。
 頷きながらも、酷く己の胸の裡がざわめくのを、感じた。不安であるのか、畏れであるのか、彼にも判らぬ。
 ただ、彼は己を撫で、慈しむその男に再び縋り、顫えながら繰り返す事しかできなかった。
 岱は行くなと。どこにも行くなと。
 岱は、帰ってしまうのか。己を置いて、いなくなってしまうのかと。
 それが酷く、可恐しかった。己の前で、虚空(そら)にふと眼を向けたまま、心をどこかへ遊離させてしまったような、その男の眼差しが思い起こされて、しがみついた手を放すことができなかった。
「岱は、ここにおります」
 その男は繰り返す。彼を引き剥がすこともせず、その背を抱いて、宥める様に叩きながら、言葉を寄越す。
「どこにも、行きませぬ。承どのの、お側におりますとも」
 ご心配をおかけして、申し訳ありませんでしたな。
 その声に幾度も、ただ頷いて、けれど彼は、縋る手から力を緩めることが、どうしてもできなかった。

 帰りたいのかと。
 その問いを彼に向けたその男こそが、帰りたいのではないのか。西ではなく、いっそその西の地に広がる碧(あお)き高みへ。
 彼はそう思い、けれどそれを問うて、返される答えを聞くことが可恐しかった。
 
 
 

 その男は、言葉通り、何処にも行くことはなかった。
 兵一千を失う敗北。けれど、その因(もと)となったのは、丞相亡き後の、蜀漢の軍中での内紛である。突出し、敵と当ることになってしまった平北将軍の行動を咎めれば、何故に殿軍がそこに動いたかを詳(つまび)らかにせねばならぬ。
 撤退が速やかでなかった不状を、明らかにせねばならぬ。魏延ひとりが背いた事によって、起こった動揺をも曝け出す事になる。
 何より、じっさいに魏延を斬って後方に届けたのは、その平北将軍である。
 だが、魏延の誅殺そのものが、実際は丞相の命でなく、不仲であった楊儀の意向ではあるまいか。その声はひそやかに広まりつつあった。魏延の首級を足蹴にした楊儀の、その末路を見れば、誰しもそう思うであろう。だが囁きは囁きのまま、表に出る事はなく、魏延も楊儀も、そして丞相すらも、蜀漢の国には既に亡い。

 咎めは、なかった。
 将軍位と爵位の返上も、無用であると沙汰された。
 だが、魏延を討った功の大きさが、認められる訳にも行かなかった。
 ただ大きな波風を立てぬよう、魏延と楊儀のおらぬ今、丞相亡きあと、ようやく定まりつつある政(まつりごと)の均衡を崩さぬよう、それだけが計らわれた。
 その中で、その男はやはり、将軍位から降りる事を願い出た。家督を実子に譲り、爵位を嗣がせ、己は一線を退くことを、繰り返し乞うた。
 それが認められ、彼はそれを畏れた。蜀漢の国での役目を終えたとばかりに、その男が、ほんとうにどこかに行ってしまうのではないかと。
 けれど、その男は邸の内に存り、彼の傍らに存り、何処へ行く事もしなかった。
 西に帰ることも、しなかった。
 



 時は過ぎ、加冠(成人)を迎えた彼は、字(あざな)を持ち、名実ともに馬超の後嗣として認められ、蜀漢における並びなき武門の家、馬家の当主として立った。
 字を撰んだのは、その男だった。
 公翊(こうよく)。「承」の字に「たすける」の意味があれば、それを受けての「翊(たす)ける」の文字か。
「若の御名の、『承』の文字は―――」
 老いた男は、こう云った。
「天にむけて、人がその光を承(う)けるが如くに、手をさしのべる形象(すがた)」
 天に人をささげる形象。
 そう、亡き諸葛亮は告げたという。
「けれどそれは、光溢れるものを受けるが如く、天に、高みに上る事を乞う象(すがた)」
 それが岱の眼には、天に上らんとする翼の如くに見えました。
 それを云う男は、確かに彼を視ていた。同時に、懐かしい何かを探る様に、その微笑に寂寥がある。
 そう、寂寥というべきか。かつてその男が、幼い彼の傍らで、不意に天を仰いだ、その眼差しを思わせた。
「翊は翼。飛ぶ皃(かたち)です。天を乞い仰ぎ見て佇む皃」
 その天の光を求められるかぎり、そこに立つ方を、天に近付けんとして足許を支えるのが岱(やま)。
 その如くに、岱(たい)はここにおります。
「父上の御名であった『超』の字も、飛び、超える意味であったな」
 そう云って笑う彼に、承どのは学問もようなされましたな、と老いた男は頷いた。
「尋常ではこえられぬものを、こえようと跳ぶのが、『超』の文字―――」
 更に続ける彼に、その男は頷く。
「けれど求めるものは同じ。ただ、承どのは、承どの。父君と全くひとしくあられる訳ではない」
 ただ岱は、その許にあるのみ。ここにいろと乞われ、それを諾うのみ。
 
 

 我が場所は、天の高みを乞う御方の許に―――
 
 



 その言葉を向けた男は、おらぬ。
 母もおらぬ。己に名を与えたというかつての丞相・諸葛亮もおらぬ。
 ただ、孤(ひと)り。かの錦馬超の子として、彼はそこに存る。既に妻子も存れど、その子は彼がおらねば立ち行かぬほどに、幼くはない。それを支える者も、夥多存る。
 あの日、虚空(そら)にあの碧(あお)さを見てより、既に三十年が過ぎている。けれど、あれほどの碧(あお)を、未だ見た事はない。己の頭上には、冥(くろ)く凍空。静かに、冬の夜空が広がっている。

 三年前、亡き父は蜀漢の建国の功臣として、その武勇を讃えられ、威侯の諡号を賜った。
 そして今、その蜀漢の国は亡い。

 改元のあった炎興元年の十一月、蜀漢の帝は魏に降伏した。
 威侯の子である己は、その父に愧じぬよう、蜀漢に存って家を嗣ぎ、帝に仕える身となった。だが仕える国は、既に亡い。
 何故か、それを哀しいとは思わなかった。ただ寂寥のみがある。己は孤(ひと)りだと、凍空の下(もと)に、それを慮う。
 手を差し伸べ、その空は近く存る様に感じられ、けれどやはり広がるのは、涯(はて)すらも見えぬ高さ。握り緊める手の中には、何もない。
 届かぬか、と思った。何故届かぬのかと、思った。
 そして、何に届けと祈(こいねが)うのかと。
 その父は、そして父と己の傍らにあった男は、この虚空(そら)に何を欲(もと)めたのか。何があるというのか。
 何処に、還りたいと―――

 そう思う刹那、眼が眩んだ。
 空に陽はない。あの碧(あお)もない。けれど等しく、涯(はて)なき虚空(そら)は、色も象(かたち)もなく、ただ悠(とお)い。
 あの日の碧の如く、ただ眼を眩ませ、彼はそれに眼を細め、伸ばした手を降ろし、虚空を遮った。
 その頬に、流れるものがある。凍てついた空気の中、酷く熱いそれが顎へと伝い落ちて行く。
 

 ―――我が場所は、天の高みを乞う御方の許に。
 ――――その光を承(う)くるべく、虚空(そら)を望む方の傍らに。
 

 耳朶奥に声が響き、還りたい、と彼は勁く思った。
 どこに、という想いはない。ただ勁く、還りたいと。全てを抛っても、還らねばならぬと思う。既に国は亡い。仕えるべき帝は帝ならぬただの人となった。与えられた爵位も官位も、全て意味を成さぬ。
 ただ、己という孤(ひと)り子なる者が、此に存る。
 
 

 帝は魏に降伏し、国は失せた。だが、この蜀漢の降伏を容れた魏将にも混乱があり、それに乗じて巻き返しを図る者も、未だ存る。
 かつて、偉大なる丞相―――忠武侯諸葛亮が、その才を属目した、今や大将軍たる姜維は、未だ蜀の滅びたる事を認めてはおらず、己の敗北をも認めてはおらぬ。忠武侯に託された国が喪われる事を、彼の情理において認める事ができようはずもない。彼は魏将の鐘会と密かに結び、魏へ背く事を企て、ために蜀漢の都たる成都の動揺は、未だ収まったとは言い難かった。
 

 還りたい。その想いの中に膝を折り、祈る様に伏せた顔を掌に蓋い、彼は暫し、動かなかった。
「馬将軍、」
 その彼に、心配気に声をかける者があり、彼は漸く、顔を上げる。
 その彼を見て、驚いた様な顔を向けたものがあった。未だ少年のようである。将軍たる彼の傍らについていた武官の傍らにあって、その少年は不思議そうに、何やらその武官に言葉を投げる。
「馬将軍を見て、少々驚いたようです。闇に、眼が光った様に見えたとかで」
 再び彼を凝視する少年に苦笑を向け、彼は立ち上がった。彼の父の更に祖母が、羌という異族の女であったらしく、その血を享けた彼は、人よりいくらか眼の色がうすい。灰色とも云えるかもしれぬ。普段はさして目立たぬが、夜明りの中ではいくらか違って見えたようだ。
「夜空の雲が、耀くようであったと」
 副官は続け、彼はただ、そうか、と呟いた。そして、再び天を仰ぎ、続ける。
「この混乱の中、一族に望むものがあれば、ついてくるようにと報らせよ」
 ただし、望まぬなら強いるな。魏も、よもや既に降った蜀の都の全てを、戳(ころ)そうとは思うまい。
 降った帝を、魏は丁重に遇していると聞く。よもや、暴虐は働くまい。多少の掠奪は兵事の常であれば、その嵐が過ぎれば、落着こう。
 そう語る彼に、副官は頷く。
「ご決断なされたか」
 彼はちらりと、唇許に笑みの形を見せた。
「北へ」
 我が父の、故地へ。馬家がかつて、その騎馬をもって駆けた地へ。
 空を仰ぐ彼は、未だ見た事のない地を思う。その地の虚空(そら)を乞うて、手を伸ばしたという父を思う。
「配下にも、強いるな。これは我が一存。既にわたしは、蜀漢の将ではなく、馬承―――馬公翊という名の、孤(ひと)りの男に過ぎぬ」
 位も国も抛ち、ただ孤(ひと)りとなり、望むままに駆けたいだけのこと。ここに留まる理由がない故に、全てから離れたいだけの事だ。無理について来ることはない。国が倒れても、日々の営みを、今まで通りに続ける事は叶おう。
「将軍―――、」
 声を詰まらせる副官の隣で、その遣り取りを知るか否か、少年が不意に声をあげた。
「khor-yug!」
 彼はその声に、驚いて顔を向ける。
「異族のことばですな。こやつ、羌の出の故に、将軍を導くことも出来るかと思いましたが」
 そう眉を顰めた副官の隣で、少年は今いちど、「khor-yug」とその言葉を繰り返す。
 己の字(あざな)が、羌の言葉の音に肖ていたか。そう思った彼は、ふと興味を惹かれ、少年に近付いた。
「公翊というのは、わたしの字(あざな)だが、」
 それがどうしたのだ、と彼は問い掛ける。少年は、どうやら今すこし漢土のことばを操るには難があるらしく、身振りを交え、舌足らずに喋りはじめた。
「khor-yug…周り、回る…ぐるぐる、まるく回る形で、自分の周りの世界、」
 円のかたちは成就の形。世界を顕し、ひろがるもの。天につづくすべてのもの。
 その言葉に、彼は瞬きし、少年は恥かしそうに微笑を浮かべた。
「将軍の字(あざな)が、そう聞こえ…ました」
 眼の色も漢人と少し違う。将軍は、羌の方ですか?
 そう訊ねる少年に、副官が顔を顰め、要らざる事を云うなと遮ろうとした。だが彼は手を上げてそれを制し、軽い衝撃と共に、虚空(そら)を見上げる。

 父の祖母は、羌の女だった。そして、父の従兄たるその男もまた、そうだった。
 その男は知っていたのであろうか。羌のことばを。それを知って、己の字を撰んだか。それとも、これは偶然であろうか。
 回るものは、いずれ還る。それが成就のかたちとなり、世界をかたちづくる。

 『かえりたいと、思われますか―――?』

 耳朶奥に、卒然、その声が響く。

 『我が場所は、天の高みを乞う御方の許に。その光を承(う)くる者の傍に。
  それを天に近付ける岱(やま)となりて支えるもの』

 凍空の色が滲む。色すら定かならぬ悠(とお)さが霞み、伸ばした手の先に光が降りてくる。闇に見える天も、眩むばかりの碧(あお)とひとしく高く、その涯(はて)に光をやどし、手を伸ばせば、それを承(う)くる事が叶う。
 孤(ひと)り、それを承くる者として立ち、羽(つばさ)をひろげ、乞えというのか。その碧(あお)の高さを欲(もと)めよと。
 かつて、父が超えてゆこうとしたものを、ひとしく仰ぎながら。

 『光ある場所へ。その碧(あお)の許、遺し、継がれよ。その誇り高き血をもって、孤(ひと)り立たれよ。
 岱は、ここにおります。岱がかえる場所は、その光を承くる場所に―――』

 その男は、最後に何を知り、己に託したのか。
 もはや問うことは叶わぬ。けれど、彼は確かに、あの日の碧(あお)を、その凍空の彼方に視た。その手に届いたと、それを感じた。
「―――将軍?」
 天に手を伸ばし、虚空を掴む彼に、少年の怪訝な声が届く。
 虚空を掴み、握り緊めた手を己に引き寄せ、彼はそのことばを己に告げた羌の少年に、笑貌を向けた。
「還ろう、」
 わたしは、還ろう。その乾いた風の吹くという地へ。碧い虚空(そら)の広がる地へ。
 少年は頷き、副官はただ、その蜀漢の将軍であった男に、深く頭を垂れた。
 
 

 遥かに高い天涯(そら)の下に、彼はその孤児(ひとりご)として、目指すべき地に顔を向ける。
 位もなく爵位もなく、ただ与えられた名のみを持ち、その父を天の碧(あお)に感じる。その彼の前に、地平が白く光り、匿(かく)れていた涯(はて)よりの日(ひかり)が滲み、広がって、虚空(そら)を染めた。
 その光に眼を細める彼は、己がたしかに、未だそれを承(う)ける地にあると知る。
 なれば、その傍らに、全ては未だ失われずに存る。
 
 

 その男が守り続けた何かは、未だ己の裡に存る。己と共に存る。
 全てを漂白する払暁のひかりの中、彼はそれを思い、己の足を、一歩前(さき)に踏み出した。
 
 

Sun Dec 8 18:01:20 2002 Kate NiSee.


Index

馬承と岱爺の話です。つうかもりもり無理があります。矛盾もあります。物語仕様になっているのでこういう語り口ですが、実際に史観から何かを書くなら、全く違う見解のもとに書くだろうと思われます。馬承視点で、あらゆるものを大きく削ぎ落としております。たとえば、魏延誅殺のくだりを馬岱視点で書くと、全く違う何かが発生したりしそうです。
あくまで、ひとつの物語として。史書に殆ど出てこない馬承を真ん中に持ってきたので大変な事に。すみませぬ…。ちなみに、この馬承自体が、いったい何時生まれて何してたのか判らない上に、馬超が死ぬ時に言及されてないわ、家を継いだはいいが蜀漢でどんな位置にあったのか不明なうえ、蜀漢滅亡後にどうなったのかも不明だったため、出自からはじまり、全てを捏造させて頂いております。ご了承ください。つか、信じないようにおながいします。字の「公翊」も捏造です。
ちなみに、この公翊の「khor-yug」との相似も無理が(笑)古典チベット語からひっぱって来てはおりますが、こういう音写は相当に無茶だと思われ(んでも「bagatu-r」が「冒頓(ぼくとつ)」と音写されてるくらいだから大目に…駄目か。とほ)大体がこの古典チベット語が7世紀くらいの資料だった辺りからもう駄目ぽ状態なんですが。
先に書いた「その天より承くるもの」から続くかたちになるのですが、岱の視点を排除してゆくと、肝心な箇所が抜けてゆくことが判明。それはそれで、別のテキストを起こしたいです。五丈原の辺りとか、姜維や魏延やその他蜀の皆様については特に。ちうか馬岱ファンの方々にも申し訳なく…!
岱爺とか云うてますが、年齢差を考えると、潼関の韓遂と長安の馬超が一緒にいるような具合で。岱の年齢もこのサイトでは捏造しておりますが、馬承の加冠を21と考えると、岱がその時点で70になるという事実。
「その天より〜」にも繋がりますが、お気付きの方もおられるかもしれませんけれど、「ソノ板屋ニ存リテ 我ガ心曲ヲ乱ス」にも途中で繋がっていたりする辺りアレな感じで。
ともかく、最後まで読んで下さった皆様に、今回もまた多大なる感謝をば。