栄(はなさ)きて
實(みの)らざる―――

 その庁の奥まった庭に、時ならぬ姿が現れたのは、午後の事だった。即ち、公務を了(お)えるものは了え、しかし未だその山積する務めに追われるものは自ら残って黙々と責務を果たしている、そんな時間である。
 今を盛りと咲く花の下に、ちいさな姿があった。それは桜梅の下にあって一つの絵を描く様に肖合う姿ではあったが、同時にこの場にあっては異様である。
 そこにいるのは、少女だった。まだ髪も上げぬ、背も伸び切らず、花の枝に手も届かぬであろう少女がそこにいる。男ばかりが立ち働くいわば政(まつりごと)の表の庭にあって、家の奥にあるはずの少女の姿は、ここにあるはずのないものであった。長い髪が背に揺れ、じっと桜梅花を見上げる少女はしかし、その場にあって臆する風情もなく、それどころか、自分がとんでもない場所に紛れ込んだ事にも屯着してはいないようだ。そして、それに跫音を忍ばせて近付く姿があることにも。
「花精が庁の庭に現れるとは、これは珍しい――――」
 跫音にも気配にも気付かなかったが故に、唐突に投げて寄越された男の声に、少女は驚いて振向こうとしたようであった。だがそれよりも早く、近付いた男はそのちいさな背から腕を回し、未だこどもの様なその少女の躰を自分の胸に抱き留める。息を呑んで首だけを振向いた少女の前で、その男は歯の浮くような科白を並べてみせた。
「この武骨な男ばかりの庁に、花精である貴女が迷い込んだ理由を、教えてあげましょうか」
 それは、たまさか私がここに音訪れる事を天が知らせた故ですよ。そう男は続け、笑みを浮かべる。
「即ち、私に会う為に―――」
 歯の浮くような科白に少女は瞬きし、男は何が可笑しいのか、くつくつと喉奥で笑ったまま、手を解く気配もない。誰、とも問わず、少女は困惑した容子でその男を見ていたが、次に男が起こそうとした行動に、慌てて身を翻した。
「あの枝を御所望ですか?」
 そう云うや否や、男は少女を抱き上げようとしたのである。だがそれを一瞬早く察した少女は男の腕から擦り抜け、そしてちいさな手を、思い切り振り上げた。
「狼藉者――――!」
 稚い、高い声は澄み切った響きで空気を揺らし、それに呼応し、殴られたまま動きを止めた男を嘲笑(わら)うかの如くに枝が騒く。その中で暫し男は屈んだまま茫然としていたが、やがて我に返ると叩かれた頬をさすりながら、顔をしかめた。
 庁の中にあっては、未だ若い男だと言えるだろう。三十路を超えたか超えぬかというところであろうか。一見して粗野とさえ言えるような、どちらかと云えば男臭い、繊細さとは程遠い面差しではあるが、それを覆う知性とも言えるべきものが、纏う衣裳の趣味の良さともあいまって、粗野を瀟洒に塗り替えている。その印象が、どこか不思議な掴み処のなさを感じさせる男だった。
 少女はその男を怯む事なく睨み付け、しかし男は苦笑し、懲りる気配もなく嘯いてみせる。
「これは、怒られた顔も愛らしい、」
 その声に重なり、高い笑い声が思いがけぬ方向から跫音と共に近付いてきた。
「我が陣営が誇るべき軍祭酒を打つとは、さても勇ましい事よ」
 郭奉孝が女に袖にされるところを見られるとは、中々やるではないか。
「殿、」
 殴られた男は、その姿に驚いて、眼を瞠る。現れた男は二人。一人は堂々たる巨躯の男であった。その男がまるで影の様に付き従ういま一人は、聊か小柄に見えた。背後の巨漢と引き比べてしまうが故に、どうしてもそう見えるという部分もあるであろうが、しかしその小柄な体躯は背後の男よりもなお巨(おお)きく見える。存在そのものの巨(おお)きさと云うべきであろうか。それとも、鮮麗(あざやか)さというべきであろうか。
 少女はその小柄な男に駆寄ると、その裳の影にちいさな躰を隠すように、今し方自分が殴った男を睨んでいる。それに構うでもなく、現れた男は桜梅の下の男に眼を向けたまま、未だ収まらぬ笑いに肩を顫わせている。
 曹操、字を孟徳。それがこの庁の主ともいうべき男で、そして自分の主君である相手であると見るや、狼藉を少女に咎められた男は挙措を正し、揖してみせる。その今更で、どこかしら慇懃無礼とも取れる所作に軽く眉を上げ、曹操は己の裳を掴んでいる少女に視線を落とした。
「我が娘ながら大したものだ。奉孝を打つなど並の胆力ではあるまいよ」
「これは、」
 奉孝、すなわち郭嘉という男は顔を上げ、大仰に驚いてみせた。
「殿の娘御であられたか。それは存じ上げず、とんだ御無礼を」
「嘘をつけ」
 この庁は童女が戯れに迷い込める場所ではない。それが出来るとすれば、現れても咎められぬ身分の娘には違いない。
「とすれば、儂の娘であろう事くらい、とうに見当はついておろう。郭奉孝ともあろうものが」
「御冗談を」
 郭嘉は苦笑し、肩を竦める。
「よもや殿が庁に姫君をお連れになるほど、子煩悩であるとは思いませんからな」
 真実、桜梅の精が降り立ったかと、と性懲りもなく嘯く男に、少女は鋭い声を投げる。
「…うそつき!」
 絶句した郭嘉の表情に、曹操と、そしてその背後の巨漢までもが声を立てて笑った。そして笑いながらも、曹操は幾らか冷えた声で、少女に問を投げる。
「しかし儂も、そなたをここに連れてきた覚えはないのだが」
 その声音に少女は怯えたように躰を顫わせ、そして項垂れた。その萎れた様な風情に幾らかの憐憫を催した郭嘉が助け船を出そうとしたが、しかしそれより先に少女は顔を上げ、父親に訴える。
「花が、欲しかったの。庁の奥にある桜梅の樹はとても見事だと、父上が母上に仰云っていたのを聞いたから」
 母上に見せてあげたかったの。そう少女は訴える。
「それだけの為に、家を抜け出してここに潜り込んだか」
 こくりと少女は頷いた。ひとりでか、と更に重ねて問うた父親に、少女は今一度頷き、それは確かに大した気性だ、と声に出さぬが郭嘉は胸の裡(うち)で呟き、くすりと笑う。
 曹操の娘であれば、大切に家の奥で育てられ、その家の敷地より出た事もなかろう。深窓の姫というのは、そういうものだ。それが一人で抜け出し、この見知らぬ人間ばかりが、それも男ばかりが屯する庁の庭に潜り込むとは。母親に花を見せたい一心だとすれば、大した孝心だと、そう思う。
 だが、それだけだろうかと彼が思った端から、少女は幾らか力を失った声で、呟いた。
「ごめんなさい…」
 それに、父上がいつもいらっしゃる場所がどんな場所なのか、どんな人がいるのか、見てみたかったの。
 その言葉に曹操は顔を顰め、そして嘆息した。
「それで見(まみ)えたのが、この男か」
 どうせ会うなら、もっとましな人間に会っておけばよいものを、と続けた曹操に、郭嘉は軽く眉をあげて反論する。
「心外な。姫君がこの庁で会われたのがこの郭嘉であることを、いっそ幸運だと仰せられませ」
 何せこの庁には、臣(わたし)の様な若く見目のよい男とは違い、四六時中苦虫を噛み潰した様な面で小言ばかりを繰り返す人間も夥多ありますからな。そう捲し立てた郭嘉に、曹操の背後の巨漢が堪り兼ねた様に吹出し、曹操は意地悪く尋ねた。
「それは誰の事だ?陰口でないなら名をはっきりと挙げてみよ」
「本人のおらぬ処で、殿にその名を告げれば、その気がなくとも讒言となります。慎みましょう」
 さらりと躱わした郭嘉は、そのまま首を傾げ、話題を変えた。
「しかし、御多忙であろう殿がこの時間にこの様なところへいらっしゃるとは、如何なる訳がありましたかな」
 その問いに、曹操はにやりと嗤う。
「この春の気候だ。公務から逃げ出して庭で花見を決め込む輩がおらぬかと思うてな」
「それは殿が、風流な臣と共に花見を楽しまれようという心積もりで?雅なことです」
 冗談混じりの主君の厭味を事もなげに受け流す男に、しかし曹操はさも楽しげに嗤った。
「そういう事にしておけ。にしても、見事に咲いたな」
 奥に見せてやりたいという気持ちも判る。そう呟いた曹操は改めて自分を見上げる少女に眼を向けた。
「ひと枝持ってゆくがよい」
 その言葉に、少女の幾らか緊張を帯びた表情が明るくなり、零れた笑顔が父親の背後の巨漢に向けられた。
「虎痴、」
 稚い声がそう呼び掛け、巨漢はにこりと笑い、少女に手を差し伸べると、その太い腕に少女を抱き上げ、肩の上に乗せた。虎痴と呼ばれた男は、少女を抱えたまま樹の下に歩み寄ると、乞われるままに見事な花を見せる花の下へ、その華奢な躰を運ぶ。
「…虎痴に敗けたな。妬けるか?奉孝」
 揶揄を含んだ視線に郭嘉は肩を竦め、いずれ年頃になられれば、自ずから抱かれる男の好みも変わりましょう、と小声で応える。
「にしても、流石は殿の姫だけあって、胆力も好奇心も並外れておられる」
「男を見る眼もな」
 郭嘉の言葉に曹操はさも楽しげに付け加え、流石に郭嘉は顔を顰めた。虎痴と呼ばれた巨躯の男は、常に曹操の側にあり、平時であろうと戦時であろうとその身辺を守る役目を仰せつかった将である。本名を許チョと云うが、戦場にあっての正に虎の如くな勇猛さや剛胆さと、平時の茫羊とした風情との落差に、虎痴という呼称がまかり通っている。それを侮蔑とみるか、それとも親愛を込めたものと見るべきか。少なくとも曹操の、そしてその娘である少女の声音には後者が色濃く現れているのは明らかだった。父親が片時も側から放さぬ護衛のその将に、少女は幾度か見えた事があるのかも知れぬ。
 それと比べられては分が悪い。子供は人見知りするものだ。加えて許チョの雄魁な体躯は、平時ならば可恐しさよりもいっそ愛嬌を感じさせる。それが子供心を捕らえている事だろう。男として比べられている訳ではないし、それにむきになるのも大人気ない。そう思いつつも、それが負け惜しみとなる様で、郭嘉は無言で、枝に手を伸ばす少女を見ている。
「虎痴は―――」
 子供には好かれる性質だ、と、その郭嘉の内心を読んだ様に、曹操は付け加えた。
「だが、子供が育てば、そこに臣としての一線を画す。そういう男だ」
 成程、と郭嘉はその何気ない呟きを漏らす主君の横顔にちらりと視線を向ける。子供好きの巨漢が、その狎れを子供が長じてまで引き摺る男なら、曹操は最初から子供に彼を近付けぬ。そういうひびきが、そこに垣間見得た。長じた子等に近付ける人材を選ぶには、また別の基準がある。そういう事であろう。
 どの途、今のところ自分には関わりがなさそうだ、と郭嘉はそう思った。曹操の子供は未だ稚い。長子である曹昴は3年前に戦死していた。残された子で尤も年嵩の男子は、未だ14才であった筈である。その傅(もり)役を仰せつかう処からは、彼は恐らく、とても遠いところに存った。
「だが困るのは、」
 がらりと口調を変えた曹操が眉を顰めて付け加えた科白に、郭嘉もまた思わず吹出した。
「虎痴が教えた調子外れな歌を、子等がそのまま真似る事だ」
 教えるなら正しい音を教えればいいものを、と云う曹操に郭嘉は声を立てて笑い、それに花の下にあった二人の不思議そうな眼が向けられる。
 だが巨漢の腕に抱かれた少女は父親とその配下が何を笑うのか、それに興味はないようで、樹の下から声を上げる。
「父上――――」
 手にしているのは、未だ蕾の多い枝で、母親の許に持帰り、生けた後も暫くはその清礎な花を楽しませ得るものだ。盛りの花を手折らぬ処が賢いな、と郭嘉は思う。少女はその感慨を知らぬげに、父親に更に乞うた。
「もうひと枝、頂いてもよろしいですか?」
 構わぬ、好きにしろと応える曹操に笑顔を向け、やはり5分咲きの枝を手折った少女は漸く巨漢の腕から降りて、近付いてくる。
 そして郭嘉の前に立つと、そのひと枝を差し出した。
「はい」
 臣(わたし)にですか?と意外さを隠さぬ面色で尋ねた男に、少女は頷いた。その表情に、先に見せた怯えも険もなく、郭嘉は人当りのよい微笑をそれに返し、差し出された枝を受け取った。
「恭悦に存じます、姫様」
「綺麗だと褒めてくれたから。花の精からお礼をあげる」
 そう悪戯っぽく続けた顔には、稚さの中に確かにこれより咲き初(そ)めようとする艶がある。同時にその目許には、年嵩の男を揶揄う様な挑発的な光がある。なるほど早熟なのは父親譲りか、と苦笑した郭嘉をよそに、その父親は娘に問うた。
「おい、頼りにならぬ男ではなく、肩を貸してくれた虎痴には礼もなしか?」
「虎痴には、」
 別段それに慍色(うんしょく)もなく、微笑ましげに少女を見降ろす巨漢を振向き、少女は今度は歳相応と見える無邪気な笑顔を向けた。
「家の庭に、桜梅でなく桃があるの。その花も見事だけれど、それが終わったら実が沢山生(な)るでしょう?」
 その実をあげる。だから、また父上のお伴(とも)で来て頂戴。
「そりゃあ、嬉しいなあ、」
 巨漢はその印象に違わぬ太い、暖かい声で応えた。それに曹操はさも愉快そうな笑い声をあげる。
「我が娘ながらよう判っておるわ。虎痴には花より実か」
「俺(オラ)はそれでも嬉しいなぁ。花もきれいだけれど」
 喰える実も、もっと嬉しい。そう悪怯れず応える声に更に曹操は笑い、大切そうに桜梅のひと枝を抱く娘に頷いた。
「お前の思うままにするがいい。それより、」
 媽々(はは)が心配するぞ。もう用は済んだであろう。戻るがいい。
 それに少女は頷き、伴の者に預けるまで送ってやれ、という曹操の言葉に、虎痴は承知、と短く応えて揖(ゆう)してみせる。
 その二人を見送り、さて、と息をついた曹操は、郭嘉を振向き、さも可笑しげに笑いを堪えつつ、云った。
「にしても郭奉孝が、あんなこどもを口説くほど見境のない男であったとは」
「口説くというほどの事はしておりませんよ」
 酷い云われ様だ、と郭嘉は顔を顰め、反論する。
「稚くとも女人は女人。それらしく扱うのが我が礼儀」
「お前の礼儀は、ああいうのを云う訳か」
 煩方(うるさがた)が貴様を見て苦虫を噛み潰した様な面になるのも判ろうというものだ。油断も隙もない。そう続けた主君に、郭嘉は先に少女に贈られた枝を弄び、肩を竦める。
「別に殿の姫君によからぬ真似をするつもりはございませぬよ。御安心を」
 臣(わたし)は蕾にもならぬこどもを手折る趣味はございませぬ故に、と応えた男に、曹操はふん、と鼻を鳴らした。
「蕾にもならぬとは、あれも酷い云われ様だ」
「は?」
「あれも―――」
 今年で13になるのだぞ。長男の子桓のひとつ下だ。そう続けた曹操に、郭嘉は思わず眼を瞠り、少女と巨漢の将が消えた方を見遣った。
「それは、また―――」
 13と云えば、早いものは既にどこかの室に入る。即ち、嫁入りしても面妖しくはない年頃である。だが、先に見た少女は、とてもそうは見えぬほど華奢で小柄に見えたのだ。10そこそこというところか、と郭嘉は見ていた。だからこその戯れではあったのだが。
「貴様、」
 曹操は僅かな不興を目元に滲ませ、郭嘉を睨み、その視線に郭嘉はたじろいで、あらぬ方へ眼を逸らす。曹操は続けた。
「儂ににて小さい、とでも云いたいか」
「お戯れを。ただ、あまりに儚く華奢であられたので」
 言葉を濁す男に曹操は吐き棄てた。
「まあよいわ。しかしあれも、なかなか鋭い」
 虎痴には実、奉孝には花か。なんとも似合うやり様だ。そう呟く主君に郭嘉は苦笑を深め、確かにあの少女の中にあった、父親譲りの鋭さと才気とを思い起こす。
「殿は、お子に恵まれておられる」
 彼にしては珍しく素直に吐き出された賞賛の言葉に、やはり曹操は幾らか面映ゆげな影を頬の当りに乗せたが、すぐにそれは失せ、後にはやはり相手を揶揄う様な笑みが現れる。
 その笑みの侭、曹操は彼に問うた。
「やろうか、あれを」
 節という名だ。そう曹操は続け、郭嘉は一瞬の絶句の後に、ぎこちなく言葉を繋げた。

「ご冗談を―――」

 無論彼は、己の娘を、手折る桜梅をくれてやる様に云うその口調に驚いた訳ではない。
 午後の陽差しの中、花を見る風雅の中で戯れに持出された言葉は、真意とは思えぬ。だがその諧謔をただの諧謔と捉えられぬところが、この曹操という主君にはある。諧謔であっても、その裏にある言葉はなにか。何故にそんな諧謔を口の端に上らせるか。
 思いつきで出た言葉のようで、何か裏に意図がある。己が裡(うち)ある何かを試される様な緊張感の中、郭嘉は笑みを崩さぬまま、常の如くに如才ない応えを探した。
「臣(わたし)には既に、妻がおりますれば」
 ただでさえ家に戻る事の少ない不実な男に仕える妻を、更に泣かせる訳にも行きますまい。そう、郭嘉は続ける。主君の娘を貰うとなれば、それは当然、正妻として迎えねばならぬ。そうなれば、今ある妻は否応無く側室の身に落とされるであろう。それを憂える振りをしながら、彼はそれを謂う曹操の真意を、その横顔を眼を細めて眺めた。
 眺めながら、続けた。
「あれほどの才を備えた、まさに花精の如き姫なれば、臣などよりもっとよい男がおりましょう」
 事実、配下にくれてやらずとも、曹操ならば己の娘を、己の立場を有利と為す為の手駒とできる。それを敢えてくれてやるというのは、戯れか、それとも己をその諧謔の対象を超えて、価値存るものと見る向きか。己を姻戚とする事になんらかの意味を見出したが故か。信頼の現れと見るべきか。
 そもそも、これを諧謔と見るべきか、切出された重要な何かが隠れてあるものか。
「奉孝―――」
 にやりと曹操は笑い、その刹那向けられた視線に内心でぎくりとしながら、郭嘉は無言で未だ咲かぬ蕾を多くつけた枝を、弄ぶ。弄びながら、嘯いた。
「姫は13。なればこの郭嘉よりなお歳のつりあう高貴なお方もおりましょう」
 慢心するな。そう己に言い聞かせつつ何気なく囁かれた郭嘉の言葉に、曹操は是とも非ともとりかねる表情で、桜梅の樹を見上げる。
 曹操の子は多い。稚い者も多い。その子の名前と顔の全てを、この主君は一致させておらぬ事を郭嘉は知っている。その非情とも言える部分は裏の合理に裏打ちされたもので、その存在がこの曹操という人間の裡にしっかりと捉えられているという事は即ち、その存在がなんらかの利用価値を見出せるだけの重きを持つという事である。
 男子ならばその才を愛でる。女子もまた然り。だがそれ以上に、女子には別の使い途がある。誰かにくれてやるというそれ自体も、使い途のひとつだ。
 そして、それは臣下でなくとも構わぬ。曹操の手の中にはひとり、今年で御歳20歳になる高貴な男がいる。既に妻はあるが、夥多の妻を持つことになんの不思議もない若者が―――
 即ち、時の帝という存在が。それを暗示した郭嘉の言葉を、曹操は過たず捉えた事であろう。だがそれに対して応えはない。
 ただ、諧謔の続きだけが、その喉を低く顫わせる。
「そこが奉孝らしいところよ。虎痴ならば遠慮するにも、もっと素直だ」
 あの顔を柄にも無く紅くして、姫様は俺には勿体無いというだろう。そう続けた男に、郭嘉はくすりと笑い、手の中の枝に視線を落とす。
 虎痴なれば、そうだろう。あの男は言葉の裏を読む必要はない。曹操という存在の側に仕え、その生命をかけて信じ守りぬく、それだけでいい。そして、それを為し果せる純度の高い澄明さが、あの巨漢には失われずにある。主君の言葉が全く別の何事かを暗示しているという可能性など、考える必要もない。
 純粋なる忠義。それは真っ直ぐで、裏はない。己の様に主君と言葉の端々で鎬(しのぎ)を削る必要など、最初からないのだから。
 それと引き換え、己を不幸と見るべきか?唯一と仰ぐ主君が最も心を許せぬものだという事実を歎くべきか?
 そうではないと郭嘉は思う。寧ろそれは喜ばしい事だと言える。己の知謀を買った男と、常にある種の緊張のもとに駆け引きのような言葉を交わす。出過ぎれば僭越、しかし読み違えれば愚劣。その汀(みぎわ)を駆け抜ける様な危うさの中で、己を最大限に引出して、主君を欺き魅了してみせる。それこそが己の位置だ。そう、彼は見ている。
 それが己の、無上の歓びであるのだと。武ではなく忠とも違う、智で仕えるものの本分なのだと。
 その郭嘉の沈黙をどう見たか、不意に曹操は話題を転じた。
「江東で、あの悪孩子(わるがき)が凶刃に斃れたそうだぞ―――」
 風が、騒いだ。
 散り急ぐ花弁の中、曹操はその目元より笑みを払拭し、郭嘉を振向く。その眼差しを受け止め、郭嘉は僅かに眉を顰めた。
 江東の悪孩子。それはここ数年で頭角を顕した孫策という青年だ。未だ26歳の若さにして江東の主となった青年の破竹の勢いに、曹操はかつて苦々しげに、同時にひどく小気味よさげに漏らした事がある。
 あの悪たれ孩子と喧嘩はできぬのだ、と―――
「貴様の読み通りとなったな、奉孝」
 どことなく、己の大きな敵ともなるべきであったその青年を惜しむ様に曹操は続け、郭嘉は眼を伏せた。かつて曹操がその孫策という青年の勢いに焦りともいえる色を見せた時、彼は応えたことがある。かの孫策はその力にて見事に江東を短時間に併呑した逸材、しかしその力の大きさ故にそれを過信し、己を怨む者に対しての警戒を怠ること甚だしい。自ら単騎で駆ける短慮を改める事も無く、それ故、いつかその性急さ故に身を滅ぼすと。
 それは、事実となった。今曹操は、河北に強大な勢力を拡げる袁紹と睨み合っている。遠からず―――恐らくは年内に雌雄を決する事となるだろう。それ故に北方に大兵力を割いており、南の防備は比較的手薄になっている。更に曹操自ら軍を率いて都を発すれば、都の防備までもが薄くなる。
 その間隙を衝いて、孫策は都である許昌を襲撃し、帝の身柄を奪う事を画策していたとの報があった。曹操はそれを苦々しげに見て、事実その進攻があった場合にそをいかに挫くかと戦略を変えようとしていた。
 その矢先である。郭嘉は袁紹と事を構える曹操に、今は南は捨て置かれませ、と進言したのだ。許昌襲撃は実現することはありますまいと。確固たる根拠があった訳ではない。ただ、許昌襲撃は実現せぬと断言した、それはひとつの勘の様なものであった。江東を席捲した孫策の軍はしかし、土着の豪族たちを滅ぼす事に性急でありすぎた。火種はいくつもある。それが収まり切らぬ限り、許昌へ軍を進めるには、なんらかの障害が発生するはずだと、郭嘉はそう睨んでいた。
 事実、その読み通り、孫策を討ったのは、孫策が滅ぼした許貢という男の遺族であるという。怨みを抑え切るには、孫策の使った時間はあまりに短過ぎた。そう、思える。
「孫策は、」
 英(はな)にありて秀(はな)に非ず。そう、郭嘉は呟いた。
「栄(はなささ)かずしても実るを秀(はな)と謂い、栄(さ)きて実らざるを英(はな)という。孫策は大輪にして見事なる英(はな)ではありましたが」
 その見事さを要(もと)める事甚だしき故に、花を守らねば実らぬ事を知らず。それゆえに勢いもまた甚だしく、沸き起こる烈風に英(はな)は散る。それだけの事。そう、彼は続けた。
「天命に敗けじと奔(はし)れば風は勁く起こるもの。その風のつよさに剋とうとすれば花は散る」
「奉孝、」
 貴様は奴を愚かと見るか。そう、曹操は尋ね、しかし郭嘉は首を横に振った。
「後に実るものよりも、栄(さ)き開く見事なる花の為に生を賭ける者もまた、あざやかにして、見事なるかと」
 そういう生きかたをする者もあるのです。ただそれだけの事。
 そう応えた郭嘉に、曹操は僅かに眼を細めた。
「しかし、殿は―――」
 見事なる花の後にいかなる実をつけるか、それがいかなるものでも最後にそれを喰らうべく、秀(はな)を見る。それ故に英(はな)も秀(はな)も殿の側にてその生命の限りを尽くして栄(さ)き狂う。喰らわれる事を覚悟の上で。
「散るだけが能の大輪では、ありますまい」
 そう謂う郭嘉の眼には既に己を韜晦(とうかい)する嗤いはなく、ひたと曹操に向けられている。主君の眼を見て話すは僭越、臣下なれば主君の胸元に視線を宛てよ。それが礼ではあるが、それを敢えて侵す蛮。郭嘉は平然とその域へ脚を踏込み、唖いながら眼を逸らしたのは曹操のほうであった。
 是とも、非とも応える事はなく、乾いた唖いのみがそこにある。
「虎痴は実を取り、貴様は花を取る」
 その言葉は、今の郭嘉の言葉のあとにあっては、幾許かの不吉すら漂わせ、しかし郭嘉はそれに対しては何を応える事もなかった。
 己と謂う花の上に、この主君は何を見る。また己の娘の上に、虎痴という将、庁の中に夥多働く官、兵馬を操る将、兵卒、そして国というものの上に存る帝。
 それらの上に、そしてその後に実るものに、何を見る―――?
 挑む様な視線を郭嘉は向け、そして逸らした。
「北にある大輪もまた、散るか」
「殿が残り、実を残されるおつもりならば」
 応えた郭嘉に、曹操は軽く吐息を吐き出して、天を仰いだ。天から花へ、そして地へと降りる視線に、迷いというものはない。あるべき事実とひらかれた途のみを見据える勁さのみが、鋭く光り、その刹那、小柄とも言える男が己の前を覆うほどの巨(おお)きさを持ってそこにある。
 それを確かに見た郭嘉はふと微笑い、手にした未だ開かぬ桜梅のひと枝を弄んだまま、裾を翻した。
「奉孝―――、」
 その背に、ひくい声がかけられる。だがそれは重さはなく、振向いた先に、またしても揶揄する様な視線がある。張詰めた空気は一瞬にして長閑な春の午後のそれに戻り、郭嘉は先の刹那に感じた息苦しさが失せたと、そう思った。
「その枝、貴様の奥(妻)に届けよ」
 泣かせてばかりの不実な夫は、別の女の処にいる訳ではなく、帰る間も惜しんで庁に詰めていると、知らせてやるがよかろう。
「そういう妄(うそ)も、時には必要だ」
「心得ておりますとも」
 仰せのままに、と郭嘉は応え、後には未だ樹に残る桜梅が、散った後の結実を待っている。

 栄(さ)かずして実るを秀(はな)という。栄(はなさ)きて実らざるを英(はな)という。

 実を取るものも存れば、花を欲(のぞ)み風の中に立つものもある。
 己はどちらかなどと、考える事もない。ただそこに存る主が望むものを見る、それのみだと彼は思い、庁の階(きざはし)に足をかけた。


Return

こ、虎痴のハナシのつもりが脱線しすぎた!つか、この話と虎痴の話を絡めようとしたのが間違いなのか!そうか、その通りだ!スミマセヌ!リベンジさせてください虎痴のハナシ!
 ともかくも、これを思いついたとき「花の季節が終わる前にー!」という焦りは感じていたのですが、間に合ったか?ちなみに「桜梅」。中国の「桜」はいわゆる日本のソメイヨシノではなく、「ゆすらうめ」つまり果実をつける「桜梅」のコトだそうです。開花時期は桜と同じ。ただしこの花が咲いてる時期に孫策死亡の報が入ったかどうかは相当に微妙なんですが。というか色々ダウトがあるがな!見なかった事にしてくだせい!(それでいいのか自分よ)
 曹操の娘「節」は、のちに献帝(つまり退位後の山陽公)の奥方となった女性で、伏皇后の誅殺後に皇后と立てられた「曹氏」のコト。曹丕の即位に際して、最後まで物申した烈女でもあります。生没年は未詳ですが、ここでは曹丕のすぐ下の妹ということで。
 「栄(さ)かずして実るを秀(はな)という。栄(はなさ)きて実らざるを英(はな)という」という文言はジ雅より。魏の話はこれがお初ですか!なんか郭嘉がイメージ違うとか顰蹙買いそうですが、それも大目に見て貰うということで!ウチの郭嘉はどうもえらい骨太なんですよ。神経もカラダも(笑)