3
弱い部分を崩された孫策の兵は、しかしすぐに、太史慈の勢いを殺す様に側面から群がり、突破を許さぬ。その孫策が再び太史慈に追い縋ろうとした刹那、太史慈の背後についていた兵が振向き、矢を放つ。
「ちッ!」
当りはせぬものの、掠めた矢の勢いに馬が竿立ちとなり、馬上の孫策が体勢を崩し掛け、手綱を引く。そこを狙おうとした兵の一人を、しかし唐突に地面から投げられた槍が襲った。
払おうとした兵は落馬し、そこにいたのは、未だ幼いとすら言える小柄な姿だった。
「莫迦!孩子(こぞう)!」
手前ェの武器を投げちまう奴があるか、と馬上から孫策は叫び、それに気付いた伯海が、敵の只中に一人踊り出てしまったその兵を庇う様に馬を動かす。同時に後列から飛出した兵が、引き摺る様に槍を投げた少年を退がらせた。
「阿蒙!何故ここにいる!」
その声に、孫策は追撃の最中に馬を止め、声を立てて笑った。
「なんだ孩子、えらくちっちゃい奴だと思ったら、」
勝手について来たクチか、という声に、少年を庇った兵は恐縮した態で頭を下げる。
「申し訳ありませぬ!我が義弟の呂蒙と申しますが、」
「構わん。怒るな。俺にも覚えがある。だがな、」
次はンな無茶しねえように、ちゃんと見張っとけ。時が来たら、俺の側で使ってやる。
そう云い放つ孫策はそのまま馬を駆けさせようとしたが、ふと思いついたように今一度少年を振向き、明るい笑みを向けた。
「助かったぜ。礼を云う。だがな、兄貴を困らせるなよ」
それだけを言い置いて孫策は再び駆出し、そこに更に合流した一団があった。
「よし!このまま太史慈を追え!逃すなよ!」
孫策と共に兵は動き、その中で未だ義兄に肩を抱かれたままの少年は、呆けた様にその後ろ姿を見詰めている。
「あれが…」
あれが、うちの大将なのか、と呟く稚い声が、興奮に掠れていた。
「徳謀!」
祖郎の軍をじりじりと押し返す程普の軍に、凄まじい勢いで合流した一隊は、黄蓋の部隊であった。それに気付いた祖郎は舌打ちし、馬首を翻す。弓兵隊がそれに矢を射掛けたが、振向く事なく祖郎の部隊は闇の中へと素速く撤退してゆく。
「追うか?」
息を弾ませて追い付いてきた黄蓋に、程普は無言のまま、馬を止めて祖郎の背後を見遣っていた。
「…祖郎という山越…」
古馴染みの同僚から発せられた苦い声に、黄蓋は怪訝そうに眉を顰める。程普は続けた。
「大栄…祖茂の縁者であったよ」
その言葉に黄蓋は目を見開き、やはり祖郎の姿を目で追った。祖茂という男は、かつて孫堅が存命であった頃、その近習ともいえる位置にあった男で、字を大栄という。黄蓋や程普とは、戦友とも言える男であった。
だが、孫堅に付き従って戦に出た折、祖茂は孫堅を庇い、落命している。それを思い起こし、黄蓋は呟いた。
「大栄の、縁者か…」
奴は己の出自を知らぬと言張っておったが、山越であったか。そう続けた黄蓋に、程普は溜息と共に吐きだした。
「奴は孫家を憾(うら)んでおる。大栄を死なせたその故に」
奴は大殿が大栄を見殺しにしたと云うておったよ、という程普の言葉に、黄蓋は酷く苦い表情で首を横に振った。
「なんということだ…」
大栄の死を誰よりも悼んだのは、亡き大殿であったというのに。八方手を尽くし、その縁者を探そうとしておったものを。そう、黄蓋は続ける。
「詮無い。遺骸すら取り戻せなんだ。大殿も大栄も亡き今、生き残った我等がどれほど言葉を尽くそうと、届きはせぬ」
程普は再び溜息を吐き、そして祖郎の残像を振切る様に背を向けると、黄蓋に問うた。
「若殿の方はどうだ。太史慈とやら、かなり手強かったと見たが」
「何、大丈夫であろう」
今頃は、と黄蓋は表情に幾らかの苦さを残したまま、微笑を浮かべた。
「今頃は、かたがついておる。城からも援軍は来なかったという事は、砦の方も抑え切ったということだ」
太史慈を追撃する孫策の軍に合流した一団は、そのまま勢いを殺さず太史慈を配下から引き剥がし、ついに山中で太史慈を捕縛したという報が、程なくして孫策に伝えられた。
それを伝えた巨躯の男に、孫策は驚いて目を見開き、しかし次にはその表情が満面の笑みに代わる。
「子烈!子烈か!」
「久しいな、伯符殿、」
赤い瞳の巨漢はやはり笑顔を返し、そして馬を降りると、恭しく揖してみせた。
「いや、殿。陳子烈、周郎の求めに応じ、馳せ参じた。我が一隊、孫家の軍に加わるをお許し願いたい」
「勿論だ。よく来てくれたなァ、」
公瑾(周瑜)が城背面は大丈夫だっつったのは、子烈のお陰だったのか。そう嬉しげに孫策は頷き、城を見遣る。
「向こうは、抑え切ったか」
「奇襲の手勢が見事な手腕を見せた。あの将、なかなかの男だ」
おかげで周郎は僅かな兵と共にそちらと合流し、残りをこちらに回す事ができた。今頃は向こうも鎮圧していることであろう、と子烈は続け、孫策はにやりと笑う。
「成程、」
仲謀の目はやはり確かだ。その声に滲むあかるさに、子烈は頷き、捷(か)ちましたな、と顔を挙げた。
「当たり前だ、」
孫策は子供の様に無邪気な表情でくすりと笑い、それに応える。
「力量も互角。兵力も互角。だが俺は、太史慈にない多くのものに恵まれてた」
それで敗けたら話にならねえさ、と孫策は続け、そして声を張り上げた。
「太史慈は捕らえた!遁げる奴はそれ以上追うな!降る者は殺さず受入れよ!このまま砦へ向かうぞ!」
幕舎を払い、制圧したケイ県の城へと孫策の軍は一旦拠った。
その中に、捕らえられた太史慈が引出されて来る。兵の多くは離散し、太史慈がほぼ一騎となったところを縄をかけられ、そのままの姿である。
だが疲労している筈のその男は、それでも縄に両腕を縛められたまま、傲然と顔を挙げていた。尚も孫策の前にその体を突出そうとすると、身を捩ってそれを降り払い、自らの脚で孫策に近付き、その目を見据える。
「太史慈、」
孫策はそれに近付き、やはり視線を逸らさぬ侭で尋ねた。
「先日は神亭山で世話になったな。下手をすれば、今のお前の立場に、俺がいたところだ」
そこで言葉を切り、孫策は軽く眉を上げて、尋ねる。
「どうだ。もしあの時俺を捕らえていたら、劉正礼どのは、一体俺をどうしただろうなァ」
「今更、知った事か」
吐き棄てた太史慈に、孫策は笑う。
「お前らしいな」
過去を振向き、悔やむ事もないか。そう云いながら孫策は帯びていた剣を抜き放ち、構えた。しかし太史慈はそれに臆する事も無く、微動だにせず孫策を睨み据えたままである。
「お前がつけた右眉の傷、残りそうだぜ」
俺の顔に傷をつけたオトシマエはつけて貰うぞ、と云いながら孫策は太史慈に近付き、しかし顔を上げた男はそれに応える事も無く、顔を上げて佇立している。
「なあ、太史慈」
劉正礼を今更悪く云うつもりはねえが、奴がお前を使えたか。お前が奴に義理を果たさねばならぬ程の事をしてくれたのか。
そう尋ねる孫策に、太史慈ははっきりとした声で応えた。
「それでも、俺は一旦かの御仁に仕える事を自ら望んだ」
それに殉じ、主君の恥を雪ごうとするは、一個の将として当然の事だ。
それに孫策は浮かべていた笑みを治め、酷く厳しい声で云った。
「それだけかよ」
なら問う。劉正礼はこの地を治める人間として俺に勝ったか。
孫策の声に太史慈は無表情なまま顔を上げ、応える事はない。孫策は続けた。
「劉正礼が無能だとは云ってねえ。正当な手順でこの地に赴いた男だ。大義も奴にある。だが奴はここでずっと続いてた小競り合いを収める気があったか」
大義を振り翳しながら、小競り合いで誰が苦しむのか、真剣に考えたかよ。
その孫策の語気の勁さに、太史慈の表情に初めて動揺が走った。畳み掛ける様に孫策は言葉を吐きだす。
「手前ェの面子は守っても、民を守る気はあったか。この一帯切り従えて、その自分の縄張りをしっかり落着けようって気はあったかよ!」
「云うな!」
太史慈は叫び、孫策に顔を向ける。
「それでも我が旧主。我が配下はそれに従い、俺についてきた。旧主を罵れば、俺とその配下全てをも罵る事となる」
「褒められる事をしなきゃ、罵られて文句が言えるか!」
上に立つ奴が力量以上を望めば、それは既に咎(とが)なんだよ、と孫策は怒鳴る。
「俺は、」
幾らか声を落着け、孫策は太史慈に剣を向けた。
「俺がいる場所からは、下らねェ面子で喧嘩を仕掛ける莫迦を叩きだしてやる。俺の縄張りで、そんな喧嘩に巻き込まれて泣く奴がいるのは我慢ならねえ」
地と人と時と、全てに俺は受入れられて、この江東に望まれてやる。
その言葉に太史慈は息を呑み、それに孫策は笑い掛け、太史慈の背後から剣を突きつけた。
次の瞬間、背に刃の気配を感じ、これまでか、と歯を喰い縛った太史慈の腕から、縄が落ちる。驚いたように、彼は自由になった手を見降ろし、そして孫策を振向いた。
「俺と一緒にやろうぜ、太史慈」
お前は、と続ける孫策の表情から厳しさが消え、笑顔が戻る。
「旧主の面子に拘泥り、配下と共に抗い無意味な戦を続けようとした、この敗残の身で」
「違うだろ」
太史慈の苦い声に、孫策は肩を竦める。
「お前は面子だけじゃねえ。その配下だった全てに対し、オトシマエをつけようとした。主君と共に逃げ出した臆病者と呼ばれる己を許せず、けれどその誇りにだけ固執した訳じゃねえ」
しっかり残りを纏めて、腰を落着ける場所を探して、活路を探したじゃねえか。
そう、孫策は続ける。
「お前のその意気に応えた奴がいた。そいつらにとっちゃ、劉正礼の存在は既に無意味だった。ただお前がいて、それを信じた。お前は、それに応えた。違うか太史慈」
お前は立派だよ。そう云う孫策に、太史慈は苦く笑って縛められていた手首を擦った。
「買いかぶられたものだ…」
「買いかぶっちゃいねえ。事実だ。もし、お前がただ旧主の面子のためだけに闘ったなら」
縄を切られた時、そのまま俺から剣を奪って、その剣で俺を刺していただろう。
「後先考えず、そうしただろうな。お前にはその力がある事を俺は知ってるぜ」
その言葉に太史慈は喉奥で嗤い、諦めた様に溜息をひとつ吐くと、膝を折り、孫策に向かって叉手して見せた。
「この敗残の身が、貴殿と共にこの地に受容れられるというならば」
この命、如何様にもお使いくだされ。
その太史慈の言葉に、孫策は弾ける様な笑みを浮かべ、その手を取った。
「太史慈!いや、子義と呼ばせてもらうぞ」
お前も、捕らえたお前の配下も悪いようにはしねえ。俺に力を貸してくれ。
そう続ける孫策に、太史慈は顔を上げ、そこにほとんど眩しいとすら言える程の笑顔を見た。だが同時に、自分の配下という言葉に、僅かに胸の奥に疼くいたみを感じる。
自分と、そして捕らえられたものは、確かにこの孫伯符というあざやかな青年に受入れられるであろう。だが、ここにおらぬ者は。
己の為に集まり、あの戦で散り散りになった夥多の者は、これから先どうなる。それを考えると、一抹の苦さが肚の底に蟠る。
その苦さを吐きだす様に、太史慈は眼の前の主君に、膝を折ったまま、告げた。
「孫伯符殿に、いま一つ頼みがある」
この青年は、それを受入れ得るだろうか。だが受入れられねば、己もまた、それを願っているとはいえども、この青年の許に残る訳には行かぬ。その覚悟で太史慈は続けた。
「某(それがし)に、時間を下され。あの戦の折り、捕らえられた者も多いが、遁げ散った者も多い」
某がその残党を纏め、孫家の兵として従う事を約させてここへ戻る為の時間を下され。
その言葉を聞くものに、動揺が走った。
無理も無い。折角苦労して手捕りにしたものを、ここで一旦自由を与えれば、またも集めた兵と共に離反するやも知れぬ。一時凌ぎの方便で、自由を得ようとしているのみに過ぎぬかもしれぬ。
だが、孫策は応えた。
「時間は、どれほど欲しい」
俺はあまり気が長い方じゃねえ。期限をはっきり定めてゆけ。それなら、待ってやる。
その孫策に、太史慈は応えた。
「六十日」
はっきりとした声に、しかし反論は起こった。
「待たれよ!一旦は降ったとはいえ、太史慈の旧主は未だ生きてある!」
ここに戻らず、残った兵を糾合し、背かぬ迄も戻らなんだらいかがされる。
「由来、太史慈は青州の出。この江南に留まらずとも、兵と共に郷里に戻れば再起の途などいくらも存ろう」
そう反論したのは、程普であった。
「不満か、徳謀」
「太史慈が今まで降らなんだのは何故か。それはその男の義心故。その義の心が再び旧主の為に動かぬと何故言える」
憾(うら)みはさほど容易く消えるものにあらず、という声に、孫策は違う、と応えた。
その厳しいとすら言える声に、流石の程普すら口を噤んだ程であった。孫策は続ける。
「子義は俺に憾みはあるだろうさ。だがな、その憾みと、自分がこの仕義に追込まれた憾みと、今はどちらが重い」
劉ヨウがこいつをちゃんと信頼し使っていたなら、こんな事にはならなかった筈だろう。そう、孫策は云い放つ。
「ああ、子義は義に篤いのみならず、頭も回る。ここで遁げるつもりなら、いくらでも方策は考えつくだけの頭はあるだろう。そう、孫策は太史慈に目を向けた。
「だがな、」
自分を見上げる太史慈の表情に、孫策は笑みを浮かべた。
「ここで一時凌ぎの方便でそんな事を云いだしても益がねェ事くらい判る男だ。それにな、」
この義に篤い男は、最期の最期まで劉ヨウに付き従い、それが俺の手の届かんところまで遁げ果せるまで守ってやってた。同郷の誼みというその一事のみで従った義心を信じず自分を斥侯ごときに使って飼い殺した男に、それだけ尽くしたんだ。
「もう、充分だよなァ、子義」
義理は果たしたって奴だ。そう、孫策は膝を折り、未だ跪いたままの太史慈の肩を叩く。
「お前の信じる途を、お前自身が選んで悪い事ァねえ。俺は、お前の力が欲しいって云ってんだ。俺はお前を飼い殺したりしねえ」
飼い殺される悔しさは、俺だって身に染みて判ってる。そう続けた孫策に、太史慈は目を伏せる。その太史慈の肩を今一度叩き、孫策は立ち上がった。
「この義に篤いと評高い男が、」
60日って期限までつけてんだ。それを敗ると思うか?と周囲を見渡して問う声に、沈黙だけが戻って来る。孫策は、それに頷き、更に付け加えた。
「俺は信じる。自分だけが俺に厚遇されるのを許せねェって、その気持ちも判る。だからお前が約定通り60日で兵を纏めて戻ってきたら、」
俺はその信義に応えるべく、お前をその一団のアタマとして相応に遇する。
きっぱりと云ってのけたその声に、太史慈自身が驚き、顔を上げた。周囲の動揺の中、揺らぎのない視線が、自分に向けられている。疑いなど、その眼差しからは一片もかんじられぬ。
可恐しい事を云う、と太史慈は思った。この青年は、今、自分を配下ではなく、一団の長としてその信義のもとに同盟者として扱うと云ったも同然だ。
流石に、皆が聞いている中でのその宣言は重過ぎると、太史慈自身も思い、果たして反論はあった。
「お待ち下さい―――、」
高くはない、しかし澄んだ声が幾許かの焦りを見せ、その場の空気を顫わせる。それまで末座に近いところにあった、端正な面の将がそこにいた。あの神亭山で、孫策の援軍として現れた、あの黒馬の将だと、太史慈は思い至る。
だがその将が何事かを云う前に、孫策は唐突に悪戯を思いついた悪童の笑みを浮かべ、顎でその将を示し、云った。
「人前では、大変礼儀ただしい周家の郎子(わかさま)がな、お前との一騎打ちの後、そりゃぁ凄絶な面で怒り狂ってなァ」
虎の尾を踏んでもあれほど怖くはなかろうよ、と孫策は笑い、その物言いに太史慈は応える術を失い、瞬きする。構わずに孫策は言葉を継いだ。
「怪我して戻った、この俺の男前な横っ面容赦なくブン殴りやがって、云うんだよ。次に敗けたら今度は殴るだけじゃなく、そのまま叩き出して家に入れてやんねェぞってな。という訳で、俺としては早いトコ子義と決着をつけたい訳だ」
俺はまだ敗けてねェっつってんのになァ、と声を立てて笑い、その言葉に思い当る節でもあったものか、周家の郎子と云われた将はひどくばつが悪そうに顔を顰め、孫策から顔を背ける。それに更に笑いながら、孫策は太史慈に向き直り、云った。
「帰って来い。俺が待ってんだ。戦は終わったが、あの神亭山での一騎打ちのケリはついてねェだろ」
戻ってきたら勝負だぜ、と孫策は太史慈の腕を掴んで、立ち上がらせる。
「早く戻らねえと、どうやら俺はあの周郎の頭ン中じゃ「総大将ともあろう者が無謀にも単騎で飛出して、挙げ句不状にも敗けて戻ってきた」って事になったまんまらしいからよ」
俺を助けると思って、な?
その物言いに、当の太史慈ばかりか幕舎の将すべてが堪り兼ねて吹出し、その場は先の緊張感を吹き飛ばす様な笑いに包まれた。
「判り申した。この太史慈、必ずや60日後に、孫伯符殿のもとへ帰参しよう」
太史慈は笑いを収めると、改めて叉手し、孫策に頭を下げ、孫策もまた、それに満足げに頷くと、よし、行って来い、と応えた。
果たして、出立から60日後、太史慈は戻ってきた。その率いる一団の中には、劉ヨウの許から共にいた者もあれば、ケイ県で集まった山越もいる。その全てを孫策は言葉通り受入れ、自ら太史慈を出迎えた。
だが、太史慈はその前に膝を折り、謝罪の言葉を口にする。
「どうした子義、遅れてねえ。60日丁度だ、何を謝る」
「某(それがし)があの戦の折に率いた兵、全てではござらぬ」
一人、どうしても御身に引合わせたい男がいたものを、それが叶いませなんだ。申し訳ござらぬ。
その太史慈の言葉に、孫策は怪訝そうに眉を顰めた。
「誰だ、それは」
太史慈に一目置かれる様な男がいたか、と尋ねる孫策に、太史慈は応える。
「祖郎と申す、山越の一群の長―――」
その名に孫策は息を呑んだ。
山に散った敗残の兵をとりまとめ、また己の下で働く気があれば来いと募った山越も含め、太史慈の許には再び、多くの兵が戻っていた。
それを一旦取りまとめた太史慈は、出立の前に、単身で祖郎が身を潜めているという山塞を音訪った。祖郎の族はそこに再び集まっており、しかし今の処は当りを騒がすでもなく、まるで戦など知らぬといわぬばかりの風情で、日々の暮しを守り続けていた。
不思議な男だ、と太史慈はその容子を眺めて、思う。
「祖郎殿、」
「子義どのは、」
己の途を見付けられたか、と太史慈に座を勧め、杯に酒を注ぎながら、祖郎は抑揚のない声で呟く。
だがその男は、太史慈が杯を受け、更に言葉をかけようとする前に、云った。
「儂は行かぬよ」
険しくはないが、翻らぬ意志のはっきりと見える声だった。
己の杯にも酒を満たし、それを煽った祖郎は続ける。
「儂は既に、その始めに孫伯符の兵を挫いた男という名を得てしまった。実はどうあれ、その名は既に、山越や江南の孫家に背く者の中で、一人歩きしている」
重い名ではあるが、それが故に我が一団に加わる者もある。その儂が今更、あの孫家の孩子(こぞう)に膝を折れぬ。
その祖郎の言葉に、太史慈は一旦持ち上げた杯を置き、応えた。
「しかし孫伯符につくことは、貴殿の一族にも、貴殿自身にも悪い事ではない」
あの青年は、と太史慈は苦笑を浮かべる。
「まさに、霹靂(へきれき:雷)」
嵐と共に唐突に現れ、しかしそれが呼んだ嵐が収まれば、晴れ渡る碧空が広がる。あの青年が行き過ぎた土地には、明るい碧空の恵みが万民に齎らされるという気がする。
そう比喩(たとえ)た太史慈に、祖郎は唇許から杯を放し、肩を顫わせて嗤った。
「その霹靂のあざやかな光に途を照される者もあれば、」
後に来る碧空を待たずして、霹靂に撃たれ死ぬ者もある。儂はそれよ、と祖郎は自分の杯を干し酒を継ぎ足すと、太史慈に目を向けた。
「子義殿は、その霹靂の後に碧空を見出した。それは僥倖というものだ。儂にも、確かに、あの孫伯符には天命というものがあるという気がする」
「祖郎殿、ならば、」
「子義殿が神亭山で、そして儂が以前に丹陽で、その背後の後一歩というところまでおいつめながら、やすやすとあの孫伯符はその死地を逃れていった」
祖郎の言葉を、太史慈は黙って聞いていた。
「子義殿、儂はあの時、孫伯符の背を斬ったと確信していた。だが実のところは鞍に傷をつけたばかりであった。あの孩子は、天運すらも追い抜かんばかりの熾しさで駆け抜けて、誰も追い付く事は叶わぬ」
ならばその天運が今一度儂を圧し流すまで、儂はここで抗いたいのだ、と祖郎は呟き、太史慈は深い吐息を吐きだすと、置いた杯をとり、一気に飲み干した。
祖郎は続ける。
「だが、儂の下にいる若いものまでそれに殉じさせる気はない。この山塞でも子義殿の姿を見て、孫伯符の許へ行きたいと願うものもいるだろう。それは、連れていってやってくれ」
「承知したが、しかし」
「もう云われるな」
儂の事は、捨て置け。そう、祖郎は続ける。
「儂よりも、今一人―――」
ちらりと、祖郎は屋外へ目を向けた。そこに、山越の女たちに混じり、まめまめしく働く若い女が見える。その姿に、太史慈は微かに目を見開いた。
「あの娘を、いずれ孫伯符の治める城下へ送り届けさせよう。知らせを寄越す故、落着いたら迎えに行ってやってくれ」
「しかし、あの娘は、」
それはかつて、太史慈が劉ヨウの敗残兵に凌辱された処を救い、拾った娘であった。
「貴殿に改めて礼が云いたいという。仕えさせてやってくれ」
妻にせよとは云わぬ。そう、祖郎は云った。
「俺などに付き従うより、ここにいた方が倖せかも知れぬのに」
「あの娘が、子義殿に会いたいと願うたのよ」
既に妻帯されて、若い娘を家に呼ぶのは困るというなら諦めさせるが、と祖郎は続け、まだ妻帯はしておらぬ、と太史慈は応えた。
そのまま視線を落とし、暫し考え込む風情を見せた太史慈は、顔を上げると、判り申した、ときっぱりと応える。
「彼女がそう望むならば、我が許に置かせて頂く」
有難い、と祖郎は漸くうすい笑みにその髭を動かし、そして深く呼吸をすると、太史慈の杯に酒を注いだ。
「儂には、兄がひとり、おった」
唐突な話題に、太史慈は杯を受けながら、次の言葉を促す様に、祖郎に目を向ける。
「血は繋がっておらん。我が族は、租税を払えず困窮した漢の民が棄てた赤子や、戦乱で親を失うた子を拾い、育てる事がままあった」
兄もまた、そんな孤児のひとりであったよ、と祖郎は懐かしげに目を細める。
「儂の父が拾い、本物の兄弟同然に育った。だが父が病んだ折り、幼い儂を残し、兄もまた15にもならぬ幼さであったのに、家を、一族を飛出した」
自分がおっては、族長の実子である儂にとって厄介を齎らすとでも思うたか、どこかで手柄を立て、ひとかどの人物となると言い置いて、出ていった。
「ひとかどの人物となったら出自を明かし、我等を呼び寄せて一族もろともに栄えようと云うてな」
「その兄上は、どうなった」
「ある男に見出され、己が賭けるべきはこのひとだと、それは誇らしげに伝えて寄越した。その男は兄の見込んだ通り、戦に出ては勝ち続け、人はその男を江東の虎と呼んだよ」
その「江東の虎」という二つ名に、太史慈は目を見開く。
「祖郎どの、それは、」
「しかし、兄は戻らなんだ。とある大戦で主君であるその虎の男の身代わりとなり、骸すら戻っては来なかった」
兄の名は祖茂という。そう、祖郎は続ける。
「兄は己を賭けた主君を命懸けで守り、それを憾みはしなかったであろう。寧ろ誇りとすら感じた上で散ったであろう。だが、」
儂はその死に様を知らぬ。だから哀しみのみが残される。
祖郎の言葉とともに、握られた拳が卓の上で顫え、太史慈は息を殺してそれを見詰めていた。髭で覆われた表情は影が濃く、窺い知れぬ。だがその瞳が宿す色に、かける言葉すら見当たらなかった。
「哀しいというこの慮(おも)いが拭い去られる事が存るのかどうか、それすら判らぬ。ただ納得が行かぬと、そればかりだ」
だから儂は孫家には仕えぬ。そう、祖郎は続けた。「江東の虎」とは誰あろう、孫家の先代、すなわち孫伯符の父親である孫堅の事である。
「霹靂に撃たれたとて、生命を落とさぬ者もある」
暫しの沈黙のあと、太史慈は満たされた杯を干し、そう云った。
「生き残り、それまでの全てを忘れ、新たな途を晴れた空の元に得るものもある」
「それも、天運だ」
祖郎は、酷く穏やかな声でそう呟き、今度ははっきりと笑みを浮かべた。
「子義殿、我が運は未だ導かれてはおらぬ。それまで儂はここで、流れに抗い続けてみよう」
そのあらましを語った太史慈に、孫策は酷く乾いた声で、そうか、とだけ呟いた。その傍らにいた周瑜は、それは違う、と顫える声で反論する。
「大栄(祖茂)殿は、俺を庇ったのだ!大殿が見殺しにしたのではない、俺の為に、」
「云うな、周郎!」
程普の厳しい声が飛び、弾かれた様に顔を上げ、周瑜は口を噤んだ。
「その事実がどうあれ、大殿があの戦で、大栄を代わり身と立てた事には代わりがない」
「程公(程普)、しかし、その代わり身を献策したのはこの…」
尚も反論しようとする周瑜に、更に程普は大喝する。
「黙れと云うておるのが判らんか!」
大栄を身代わりと立て、いつも殿に従っていたお前か若殿の何れかを従えて危地を抜ける、その策は確かにお前が云いだした。だがそれを取上げたのは、大殿自身。そう、程普は告げる。
「そして、それに反対せず、お前と大栄を共に身代わりとすると寧ろ促したのは儂等ぞ。すなわちそれは、策を取上げた大殿の責、そして我等全てが負う責!」
お前一人がしゃしゃり出て、それを一身に負う、それこそ主を蔑ろにし分際を超えたた、すなわち僭越というもの。そう厳しい声が続け、周瑜は項垂れて、口を噤んだ。
「祖郎の事は、」
時に任せるしかありますまい、と控え目な声を挟んだのは、黄蓋であった。それに、孫策は苦笑を向ける。
「そうだな、俺も今いきなり祖郎が出てこられても、ちょっとばかり困るかなァ」
何せ奴には大きな借りがある。子義とは別に、決着をつけたいところだ。そう孫策は嗤い、そして太史慈に手を差し伸べた。
「祖郎は靡かんでも、俺の親父、そして俺自身にとっても大恩ある元の配下の遺族の在りかがわかった、それだけでも充分だ」
礼を云う、と跪いたままの太史慈を立たせ、孫策は背後を振向いた。
「さあ、酒にするぞ。子義が戻るまで戦勝の祝いは取っておくと決めたからな!」
皆待ちかねたぜ。何せ2、3日ならともかく60日だ。そう明るい声で告げる孫策に、背後から歓声が挙る。
その中で未だ衝撃の抜け切らぬ周瑜に近付き、背を叩いたのは黄蓋であった。
「周郎の所為ではない。云い様は乱暴だが、徳謀はそう云いたかったのよ」
寧ろ大殿のみならず、若殿の片翼をも守った事を、大栄(祖茂)は誇れど憾みはするまい。祖郎にもいつか、それが伝わる。
その言葉に周瑜は泣き笑いの様な表情を向け、ありがとうございます、と低く呟いた。「何シケた面してやがる、公瑾」
太史慈の腕を執った孫策が揶揄う様な声を向け、周瑜は振向いた。
「こいつが、あの神亭山で一騎打ちの邪魔をしやがった周公瑾だ」
俺の義兄弟だ、と孫策は告げ、太史慈は頷き、向き直って礼を取ってみせる。その太史慈に孫策は口を尖らせて続けた。
「この野郎、自分が途中で邪魔しにきやがった癖に、勝負のついてねェ事を捕まえて俺が敗けた敗けたと連呼しやがる」
挙げ句主君の面に思いきり拳を叩き込む様な奴だ。大人しそうな見てくれに騙されんなよ、と孫策は続け、周瑜は舌打ちして反論した。
「ですからその件につきましては某(それがし)も重々反省しております故、どうぞお許しをと申し上げたではございませぬか、殿」
態とらしく作られた恭しい口調に孫策は何とも言えない表情で絶句し、太史慈が堪り兼ねて失笑する。
「失礼、その節は某(それがし)も数々の沮喪を…」
言い掛けた太史慈は、ちらりとその視界の端に映るものに、目を向ける。
未だ飾られたままの、破れた戦袍がそこにあった。孫策が、あの一騎打ちの折りに纏っていたものだ。なるほど、とその戦袍と孫策を見比べる。
「確かに、あの勝負は未だついてはおりませぬな」
どちらも勝っても敗けてもおらぬ。そう呟いた太史慈はひとり奥へ進み、その破れた戦袍を手に取ると、端近に立ったままの孫策の方へと近付いた。
「ならばこれで、」
あの勝負は水に流し、またいずれ、新たにひと勝負ということに致しましょうか。
孫策と周瑜を見比べた太史慈はその顔に笑みを浮かべると、庭に降り、焚かれた松明の中に手にしていたものを放り込んだ。
ひときわ高く炎が上がり、それが収まれば、孫策は頷き、その表情には明るさだけがある。
霹靂の様な。
その印象は変わらずそこにあり、そしてその背後に碧空が感じられるのは、恐らくはこの青年が天運のみならず、傍らに控える夥多のものに恵まれているからだ。
そう、太史慈は思った。数の上での互角を上回る何かを、この孫伯符という青年は確かにもち、それこそが己との器の差であった。そう、十も年下の青年を見て、素直に思える自分が可笑しくもあり、また酷く清々しい気分だ。
いつかこの青年の呼ぶ嵐は、祖郎にも今いちど及ぶであろう。その後に祖郎が碧空を望む事が出来るようにと、そう願う。
今はただ―――
階(きざはし)を上り、この敗残の身を、率いた兵全ての重さと同等に見て相応に遇すると告げた、思い切りのよいこの青年に従うのが、己に見えた途だ。
そればかりを考え、太史慈は導かれるまま、孫策の率いる一団の中へと立ち混じっていった。
Return
お、終わった…なんじゃこの長さ。一瞬終わらねえんじゃなかろうかと思ったよ!
つか、前回「神亭山っつっといて周郎の出張り具合はどうよ!なら俺様も!」と云わんばかりに余人がわらわらと顔見せに出てきてしまったのが最大の原因というか、話の焦点が散乱しているというか。途中で太史慈と祖郎の絡みをともかく書いておきたかったというか。祖郎。史書には数箇所名前が出てくるだけですが、どーにもオイシイ出方をするために印象にえらい残ってこの始末。すみません殆どオリジナルです。つか、彼と祖茂の繋がりは実際ありません。姓は同じだから同族と見るといって仕舞われればそうですが。
この分だと、「会稽で太史慈の弓の腕前の話を書くなら俺の孫軍デビゥも!」と、辺境の花柄男、賀公苗殿も名告りを挙げてきそうです(…本当に孫策代に拾ったのってヤンキー紛いが多いよなあ…)「俺の過去は!見せ場は!」と呂範も主張したそうです。
それはさておき太史慈。やっぱ「肚に一物背中に二物、だけど性根は真っ直ぐ」という訳のわかんない人物になってしまったというか。個人的にこのひとには「狙いボケ」の印象がある所為なんですが。
つまりは己を効果的にアピールする場を心得て、突拍子もない事をしているというべきか。ともかくもこれでプロポーズ完了。お輿入れ決定です。良かったな孫策!
なにげに呂蒙が出ている当り、今ちょっと呂蒙について考察を深めている影響モロ見え。「彼は内在する一定の美学が侵された時、破壊行動に出ます。それは自己実現への道が確立されている証。すなわち彼には品性が具わっている」という1フレーズをとある学園マンガで見て、「これだ、これがりょもちんだ!」と勝手に大盛り上がりした故ではあるんですが。
参考までに。その「極東学園天国」という日本橋ヨヲコ先生の漫画(ヤンマガKC全4巻)。私は大好きです(笑)主人公の信号(シンゴ)。あれがりょもちんのイメージとやや被りという思い込みがそのあの。すみませんイタタ。 |