今となっては、それすらも過ぎ去りし事。

『お前の母親を死なせた、それをまだ、覚えているか』
『忘れるはずもない。だが、過ぎた事だ』

 あの折、交わした言葉の如く。
 それが数年前にせよ、数十年の昔にせよ、起きた事は起きたこと。取り返しがつかぬことには変わりがない。ただその過ぎ去りし時が、未だ躬を顫わせるのは何故か。
 繊(ほそ)い弦(いと)が未だ己の裡より、そこに繋がっているかの如くに。
 己の心が、その弦の顫えに痛むほど、繊弱だとは思えぬものを―――


 


 建安十九年。漢帝国の皇叔たる劉玄徳は、蜀の地に入った。
 劉玄徳より、漢中に存った彼の処に使者が送られた折、未だかの皇叔は{各隹}城(らくじょう)を陥とせずに存った。だが使者が彼に断言した通り、彼がその許へ兵馬と共に拠る事を諾い、赴いた時には、{各隹}城を抜き、蜀の都たる成都を包囲していた。
 そして、彼の到着より十日弱。益州牧たる劉璋は降伏し、新たにそれに代わって益州牧となった劉玄徳の許に、彼は留まった。
 彼が帰順を諾った折、劉玄徳は「儂は益州を手に入れた」と快哉を叫んだという。
 それが、彼の武名の偉(おお)きさ故か、彼の名族としての矜持を慮ったものか。判らぬが、ともかくその快哉が妄(うそ)にあらずと示すが如く、劉玄徳は成都に入ったのち、彼を平西将軍に任じている。

 錦馬超―――

 彼の異名(ふたつな)である。羌・テイという異族の乱を平定に赴く時、その中にあっても眼を惹く鎧姿は、ただ煌々(きらぎら)しく、音に聞こえた武勇と共に、彼はそう讃えられ、また畏れられた。
 けれど蜀に存る彼は、ただ孤(ひと)り。
 彼が関中に乱を起こし、涼州に敗走した折、乱の前より都に存った父と弟は、悉く誅(ころ)された。
 その後の敗走と流浪。その間に妻子をも戳(ころ)された。
 後に漢中の五斗米道の師君(教祖)、張魯の許に身を寄せたが、そこに留まる事もあたわず、側妾と子を残したままに、彼ひとり、この蜀の地に存る。
 身内というべきは、二歳年長の従兄である馬岱のみ。
 父の代より随き従った、ホウ悳も未だ、張魯の許に存る。彼が蜀に奔った折、病を患ったホウ悳は、漢中の地に残してきた。さて、その耳にも、彼が劉玄徳の許に拠った事実は届いたか。
 判らぬ儘、彼は蜀に存る。もはや行くべき場所もない。今となっては、涼州に戻ることもあたわず。それが叶うとすれば、漢朝の帝を戴く丞相・曹操の西へ伸びる手を、劉玄徳が跳ね退け、西北の地を版図に入れた、その時のみ。しかし未だ力は足りず、その輔けとして、武臣としての己が存る。
 孤(ひと)り、彼はそれを思い、曇る蜀の地の空を視る。碧く碧い三輔の地の空よりまだ低く、けれどそこにすら、伸ばす手は届く事はない。
 ただ、幽幻なる湿度に、霞む空。ただそれが、展(ひろ)がっている。

「貴殿は、地にあらぬ天に、手を伸べられるか」
 爪弾かれる弦の如き声に、彼は驚くでもなく、振向いた。
 武官にもおさおさ劣らぬ、背の高い姿が佇んでいる。しかしそれは、武官に非ず。長袍を纏う道士めいた姿に、手にするは剣ではなく白い羽扇。
 諸葛亮―――伏龍とも讃えられる知謀を以て、内に外に、劉玄徳を佐けること、輔翼というよりは寧ろ、手足の如く。
 その男が、何を思うか、彼に眼を向けていた。それを見返る彼の手は既に天をもとめず、降ろされて存る。
 何の用向きか。そう思いながらも、それを問う事はせず、ただ彼は諸葛亮の次の言葉を待っていた。
 僅かに彼に近付いて、しかし諸葛亮も、暫し言葉を発する事はない。ただ、ちらりと彼の視ていた天に眼を向け、それを降ろし、携えた羽扇を揺らしたばかり。
 あいかわらず、とらえどころのない男だと、彼は思う。知謀を讃えられても、その鋭さが顕れる事はなく、ただ眼を向けられれば、時に居心地の悪さを感じる事がある。人当りは穏やかで、厭う余地はない。ただ、この伏龍と呼ばれる男が持つ眼差しは、己に向けられながらも己に焦点が合っておらぬような色彩を見せることがあり、それを感じると、不意に己の躬を透徹した何かを見透かされた思いが沸く。
 裡を見透かされるのではない。ただ、ここにある己の意味そのものを、客観のきわみより問われるように思われる。それだけだ。だがそれを感じるのは己ばかりで、恐らくその眼を持つものに、そのような意思はないのであろうが。

 入蜀より明けて、建安二十年。
 その夏の、蜀の地特有の蒸し暑さすら感じぬように、伏龍たる男は涼しげに存る。しかし口には呟くように、暑いと告げる。
 よもや、それを謂うために、己に近付いたのではあるまいに。
 そう思う彼の視界で、ちらりと動く影があった。何事か言葉をかけようとしたか、従兄の馬岱の姿が見える。しかしそれは、彼の側の諸葛亮の姿に気付いたか、話の邪魔をせぬように、けれど交わされる言葉の聞こえる距離で、黙して控える。
 それを意識の片隅に捕えながら、彼は漸く口をひらいた。
「何か―――」
 軍師将軍たる諸葛亮が、ただ世間話の為に、己に寄る訳もなし。それを怪訝と思えども、余分を問うことはない。それが未だ馴染まぬ降将の、主を主とも思わぬ嬌慢とも謗る声となるのは判っているが、己に用がないのに、何を言葉を費やす必要があるかと。用があるものがそれを謂えばよいというのが、彼の態度である。今や主たる劉玄徳も、またこの諸葛亮も、この彼の姿勢を云々することはなかった。
 今もなお。非礼を咎めることもなく、沈黙に不安を覚えた風情もなく、その男は彼の傍らで、ただ僅かに羽扇の影に、憂色を見せる。
「曹操が、漢中に軍を動かしました」
 既に張魯は、巴中へ退いたとのこと。
 ようやく口を開いて出た言葉に、彼は僅かに眉を動かす。
 重い衝撃が、胸の奥にあった。蟠るものが蠢き、胸中を騒がせる感触に、焦りにも似た不快を覚える。
「張公祺(張魯)を降す心積もりか」
 元はその身を寄せた相手を字で呼び、彼はいわでもがなの事実を問い掛ける。諸葛亮はそれに頷き、長くはかからぬでしょうな、と云い添えた。
 素っ気無いほどの、云い状だった。
「今年のうちに、けりはつくでしょう」
 漢中の師君(教祖:張魯のこと)のもとには、既に貴殿がおらぬのだから。そう続けたのは、彼に対する阿諛か事実か。それも、どうでもよかった。ただ、曹操が漢中を攻めているという事実のみが、彼の前にある。
「よろしいのですか」
 諸葛亮は、そう問うた。
「漢中には、貴殿と共に戦うた者も、そして貴殿の妻子も、未だ身を寄せている」
 そう問い掛ける中に、ふと諸葛亮の眼が、鋭い光を帯びた気がした。己の中を探るような眸の光に、彼はただひたと眼を向け、そしてこたえる。
「今、左将軍(劉備のこと)の旗下に存って、我が一存で兵を動かす訳にはゆくまい」
 益州に入ったばかりの、人心を宥める事が先決であるこの時に、敢えて張魯を助けるべく兵を動かすことを、よもや望むまい。そこに援軍を送る謂われは、どこにもない。寧ろ外事に兵をもって当る事は、禍となる。
 それを謂う彼に、今一度、諸葛亮は問い掛ける。
「よろしいのですか」
「末将(それがし)に、何をさせるおつもりか」
 己を末将(それがし)と謂い、自嘲するように、揶揄するように、彼はちらりと唇許を歪め、一瞬の嗤いを閃かせた。だがすぐにそれは失せ、後にはただ、表情のない貌が相手に向けられる。
「我等が関中で挙兵した折、連合した者のうち、いくたりかは滅びた。だが、生きて存る者が漢中へ落延びた事も、そこに留まっていることも、識っている」
 だがそれら全ては、己の意志だと彼は謂う。
「あの折、連合して兵を挙げた者はすべからく、己の意志で、それをした。末将(それがし)もまた然り」
 求めるものが何であったか、何の故の戦か、それは全て、各々の胸の裡にのみ存り、ただその鋒先に曹操がいた。ひとつの敵を前に、それをせねばならぬと思う者の裡に存ったものまでは、ひとつではない。
 今にして、彼はそれを思う。
 そして敗れた今となって、未だ曹操に抗する―――未だ戦う意志があるや否や、それを確かめる事も、できぬ。己の生を全うする為に成すべきことは、各人すべてがひとしい訳ではない。
 そう、己が今、蜀にあって、劉玄徳に膝を折ったように。そして、それをする意味を識るのが、己ひとりであるように。
「末将が何を強いる事もできぬ。たとえば、」
 ここで今ひとたび声を放ったところで、かつての同胞すべてが、この蜀に存る劉玄徳の旗下に集う訳もあるまいよ。
 そう云い放つ彼の傍らに、息を呑む気配があった。今や主君たる者を字で呼び捨ててしまった彼の非礼に、傍らの馬岱が、ならぬと云わぬばかりの眼を向ける。
 だが、彼の前に立つ諸葛亮は、それを聞き流したようであった。意に介する風情もなく、ただうすく笑いをうかべ、彼に云う。
「存外、ご自身を低く見積もっておいでだ」
 揶揄されたのだと気付くまでに、暫し時間がかかるほど、和らかな口調であった。そしてそれに彼が気付いて口をひらきかければ、伏龍はそれを制する様に言葉を繋げる。
「私もまた、貴殿に何を強いるつもりもない。ご主君も、然り」
 ただ、問うてみたかったのみです。そう、その男は告げる。
「貴殿がそれを知らぬでは、とても済まされぬ事でありましょうからな」
 後に悔やまれ、ご主君を憾(うら)む事ともなれば、我が配慮の足りなかったという事にもなりかねぬ。
 そう告げる男の真意が何処にあるのか。彼には未だ、判らない。
「かつての御同胞はともかく、ご妻女とご子息の無事は、お祈りしておりますよ」
 その言いぐさに、彼は軽く声を立て、笑った。今、同胞の為に私(わたくし)の意志で兵を動かせぬと云った身で、妻子の為に動ける筈もない。祈りという宛てにならぬものしか赦さぬと、眼の前の男は告げている。
 それを残酷というのなら、ここに至るまで妻子を伴わなかった己はもっと―――
 思い掛けた彼はかるく唇を噛み、そして外へと眼を向けた。
 暑い―――
 温度と湿度が、真綿の如くに緩やかに思考を吸取り、締め上げられて、息が詰まる思いがする。
「あの折は」
 自虐的な慮いの中、彼は呟いた。
「韓文約も、関中に名を馳せていた。我が父と幾度も轡を並べたかの男が、父がおらぬ中で我が傍らにあればこそ、あの折の連合があったと云える」
 その名を出した折、ちらりと諸葛亮の眼に、怪訝の色が奔った。
 関中において兵を挙げた折、彼と共にその中核となった男の名を、そういう形で彼が口にすることは、意外であったのか。
 だが、事実、敵たる曹操が旧知たる韓文約に揺さぶりをかけ、その事実に韓文約を除く彼を始めとした関中の将たちが動揺と疑念を見せた折、関中の連合は軋み、生じた亀裂より砕かれたのである。
 認めたくなくとも、それは事実だった。
 それなり、再び沈黙が降りる。それを破る様に、諸葛亮がふと、呟いた。
「韓約(韓文約)どのも、さぞ無念であったことかと―――」
 哀れといえば哀れな末路、と続けた声音に、彼はふと瞬きし、その男に視線を戻す。
「軍師どの?」
「貴殿は御存知ありませんでしたか?」
 逆に驚いたように問い掛ける諸葛亮に、彼は更に「末路」という言葉の意味を問おうとする。
 しかし、そこに割って入った声があった。
「軍師どの!その件は、今しばらく――――、」
 それまで黙していた馬岱が、唐突に顔色を変じ、諸葛亮の声を遮る。その勢いに驚いて、彼は従兄に眼を向けた。
 常から穏やかに彼の傍らに侍している彼が、このような非礼とも云える態度を見せることは、尋常でない。だが、それに僅かに眉を顰め、彼はなおも諸葛亮に問い掛ける。
「軍師殿、末路とは」
「それは―――」
「軍師殿!どうか、」
 尚も哀願するように、軍師の言葉を遮る馬岱に、眼を向ける事なく、彼は鋭く「黙れ」と声を投げる。
「軍師殿、続けられよ」
 促す声にちらりと馬岱を視た諸葛亮は、ふと息を吐き、そして幾分けわしい表情を彼に向ける。
「貴殿と共に曹操に兵を向けたのち、涼州に奔った韓約どのは、」
 既に亡い。そう、その男は告げる。
「この五月に、曹操の許に首級が届けられたとのこと」

 暫し、声もない。
 息を呑み、馬岱に眼を向ければ、彼から眼を背けるようにして、そこに存る。その貌に浮ぶ表情から眼を逸らし、彼はそれを告げた軍師に向き直り、呟いた。
「そう、か―――」
「貴殿は、御存知ありませんでしたか」
 諸葛亮は、微苦笑を浮かべる。
「従兄殿を、責められますな」
 私には判らぬ、仔細あっての事でしょう。
 そう告げる声に、心ない事をしたかもしれぬという呟きが、続く。
「否」
 彼は応え、未だ表情を浮かべる事もないまま、僅かに眼を伏せる。
「既に末将(それがし)とは、関わりのない事。ただ、そうであったかと、思ったのみ」
 従兄の非礼をお赦し願いたい。そうぞんざいに告げ、彼は踵を返すと、その場を離れた。
 何故それが、一瞬でも己を動揺させたのか。苛立ちにも似た慮いが、そこにある。
 

 Next   Index