韓文約―――韓遂というのが名である。韓約と、呼ばれることもある。
 かつて潼関において曹操に対して陣を構えた折、彼と共にその中核にあったのは、その男であった。
 涼州、金城の出自であり、幾度も長安の側にて乱を起こし、挫かれてのち、また朝廷に帰順するという事を繰り返した男である。叛徒であるのか、何か志あってのことか。決して己が旗印となることをせず、常に人を立て、端から視れば不可解な動きを見せる男は、かつて彼の父の傍らにも存った。
 父と義兄弟と呼び合った事もあった。彼もまた、その男を叔父と呼び、親しんだ。
 それが離反し、戦の最中に、韓遂の軍が彼の母と妹を戳(ころ)した。それが、もう、二十年の昔になるであろうか。
 それゆえ、仇となり、長く戦を繰り返しもした。だが決着はつかぬままの和睦があった。そして彼の父が衛尉の位を得て都に赴いた後、曹操に対して挙兵した彼の傍らに、やはりその男は存った。その挙兵が、四年前の事。
 だが、しかし。
 その男は曹操と旧知であった。誼みを通じていたこともある。それが故に、曹操と韓遂の接触があった折、その男は疑われた。
 その疑念が、連合する軍の齟齬を生む。そこを衝かれて、敗走の憂き目を見た。
 敗けたのだ。
 散らされて、斃れたものもある。だが韓遂は涼州へ逃げ、彼は今、流転の果てに、ここに存る。

 叔父とも呼んだ。だがしかし仇でもある。
 それを憎んだ故に、心をゆるすことはしなかった。その筈であった。
 ただその時は、全ては過去と―――その男は確かに、使える男と。そればかりが事実。それゆえに、そのほかの何もない。
 情などない。敗走の後に己から離れていった者など、気に留める事もない。
 いずこへ逃れたか、それすらも己には関わりのないことと―――そう。
 

 今となっては、全ては過去。
 その筈であった。
 

「岱」
 房に辞し、側にいる筈の従兄に、呼び掛ける。果たして応えはあった。
「知っていたのか」
 訊ねる彼に、答えは返る。
「はい」
「何故、かくした」
「問われなかった」
「問う筈もない。俺はそれを知らなかった」
 だが、問われずともそれが伝われば、お前は伝えるべきだ。
 それを謂う彼に、伏せられていた馬岱の視線が、ゆっくりと向けられる。
「何故」
 馬岱はそう問い掛け、彼は何故と問われる意味が判らない。ただ、向けられる従兄の貌が、ひどく冷たいものの様に思われた。己の知らぬ者であるかの様に、感じられた。
「岱」
「忘れてしまわれればよいと、思った」
 決然とした声が呼び掛けに応じ、彼はそれに息を呑む。
 この従兄が己に対して、このような物言いをすることは、かつて無かったと云ってよい。これほどに固く、冷えた声を彼は知らない。
 そして、その声のまま、馬岱は続ける。
「余人はともかく、文約どのの事は、今の平西将軍にとっては必要のないこと。気に留める事もなく、ここに至ったのではあろうに」
 平西将軍と、その従兄は彼を呼ぶ。
 これは誰だと、彼は思った。突き放す様に己に呼び掛ける、この男は誰なのだろうと。本当にこれは、己の側に存る馬岱という従兄なのであろうかと。
「岱―――」
 たしかめるように、彼は今一度、呼び掛ける。
「岱、」
「若が、」
 冷えた声音が僅かに熱を帯び、以前より―――この蜀に至るまで、家のうちでそう呼んだように、馬岱は彼に呼び掛ける。
 視線が、揺れた。
「若が、あの男のことで心を痛める様を、見たくはなかった」
 僅かに声が顫えを顕し、それに己が心を逆撫でられたような気がした。
 何かが弾けた衝動があり、一歩その男に近付いた彼は、相手の胸倉を掴む。だが間近でその鋭い眼差しを受けてなお、真っ直ぐに彼を視る馬岱の眼があり、そこに沈む色彩に、瞋りと云えるほどのつよさの、苛立ちがわきおこる。
 苛立ちのままに、暫し睨み合い、言葉はない。圧しころされた呼吸が、逆に酷く耳障りに感じた。
 その空気を振り払う様に、彼は馬岱を突き放すように手を離し、背を向ける。
「仔細を」
 ごく冷静に促す声に、馬岱が僅かに息を吸い込む音が続いた。
 


 


 彼と共に起こした兵が曹操に敵わなかったその折、韓遂は涼州の金城へと逃れた。
 再起は、叶わぬかと思われた。その折、彼の父や弟が誅(ころ)されたと同時に、韓遂の子と孫も誅されている。また付き従うものは少なく、腹心というべき成公英のみが彼に従い、羌の族の中で力を養えと献言したという。羌族の中にも韓遂を知り、心を寄せるものは少なくない。彼のように羌族の血を引くものではあらざれど、韓遂もまた涼州に存って、その異族に立ち混じり、時に糾合して事に当る事も少なくなかった。
 だが、金城に依る間に、韓遂は戳(ころ)された。涼州を数十年に渡って騒がせた韓遂という男は、首となって曹操の許に送られた。
 麹演、蒋石という、金城や西平のわたりに陣取る将は、迫る曹操の軍の脅威に、韓遂の首をもって帰順の証としたのである。やむなく、韓遂と共に存った成公英もまた曹操に降伏せざるを得なかったという。
 慟哭し、この方が健在であれば、ここにこうして存ることはなし。成公英は、韓遂の首を前に、そうきっぱりと、曹操に告げたという―――

 今ひとり、韓遂には股肱というべき男がついていた。閻行という男である。
 かつて韓遂が彼の仇として前に存った折、韓遂を守り、若き日の彼と一騎打ちを演じ、見事に勝った男である。韓遂と同郷の金城の生まれで、武勇は誉れ高く、韓遂は成公英以上に、閻行という男を恃みにし、側近く置いていた。
 彼と共に韓遂が関中に兵を起こすとき、最後まで異を唱えたのは閻行であった。韓遂が子と孫を都に置いたように、閻行もまた老父を都に置いていた。人質というべきであろうか。事実、韓遂が曹操に使者を立てる折に赴いたのは閻行である。曹操はどうやら閻行を高く買い、韓遂に帰順を解かせることもしたらしい。そして閻行も、今となっては曹操にこそ拠るべきかと、接近を促していた。
 だが、韓遂は結局、彼とともに関中に兵を挙げた。
 事が起これば、閻行もまた異を唱えず、従っていた。韓遂の背後に、彼はいつも閻行の姿を認めていた。それほどの信を置けるだけの男であるのだと、そう思っていた。そしてその武勇の抽んでることがいかほどか、彼自身がその身を以て、よく識っている。
 だが、閻行は。
 その最後には、韓遂を戳さんと兵を向け、追い落としたのだという。
 己の孫子を誅された韓遂は、今ここで閻行を手放す訳にゆかぬと、己の娘をめあわせた。それは、それでよい。婚姻で結びつきが主と配下のそれ以上のものとなるなら、それをして何ら責められるところはない。
 しかし、韓遂の肚は未だ違うところに存った。
 韓遂が閻行と姻戚となれば、閻行を呼び寄せんとする曹操に疑念が沸く。そうなれば、己の孫や子がそうされたように、閻行の老父もまた曹操に誅されるであろう。
 韓遂は、そう睨んだ。そうなれば、怨みを抱く閻行が、よもや曹操に奔ることはあるまいと、そう―――
 だが、そうはならなかった。
 逆に、それが閻行の不信を招いた。そうせねば己が信頼できぬと思うたかと、今や義理の父たる韓遂に、背を向けた。己の老父の死を希(ねが)った男を、やりきれぬ思いで見たものやもしれぬ。
 また、己の心根を信じぬものに、もはや心より仕えることはできぬと。これまでの忠をも虚しいと感じたか。
 そして、離反し、敵となった。かつての主従は幾度も兵馬を戦わせ、だが閻行はその男を己が手で戳すには至らなかった。だが戦の果てに、逐い落とされた先で、韓遂は死亡している。
 

 それが末路かと―――
 彼はただ、馬岱が淡々と語ることを聞いている。
「岱は、」
 あの男が嫌いだった。そう、ぽつりと彼は呟き、馬岱はそれに一瞬、言葉を詰まらせた。
 だが、暫しあって、静かにこたえる。
「好悪の念ではなく、ただ、」
 かの御仁はひとの心がわからぬと、それを慮った。
 そう、馬岱は謂う。なまじ物事がよく見える御仁ゆえに、それを動かす人の心が、かの御仁の思惑を超える複雑を見せることを、識らぬように慮われたのだと。
「間違ってはおらぬことが、それゆえに情を逆撫でることもある。そこに、危うさを視た」
「岱は、」
 穎(さと)いな、という彼の声に、微かな嗤いが滲む。だがその彼を視る馬岱の面色には、隠し果せぬ悲痛の色がある。
「若、」
 報らせぬままにおこうとした俺を、憾(うら)まれるか。そう問い掛け、彼は首を横に振る。
「知ったとて、どうということもない。知らぬでも、障りはなかっただろう」
 だが、と彼は馬岱を視ぬままに、云った。
「暫し、ひとりにしてくれるか」
 無言で、馬岱はそれに従った。
 

 どうということもない。
 その通りだ。今となっては、彼と韓遂は何の関わりもない。

 かつては、慕ったこともある。叔父と呼び、己に向けられる眼差しに労りをも感じた。
 殺したいと希(ねが)うほど、憎んだこともある。母と妹を奪われ、それをした男を仇と怨み、ただその念を晴さんと希いつづけたこともある。

 だが今は、そのどちらもない。
 

『お前の母親を死なせた、それをまだ、覚えているか』
『忘れるはずもない。だが、過ぎた事だ』
 そう言葉を交わした折ですら、既にそれは過ぎ去りし事だった。既にその言葉の裏にある情念は冷え、幽かな煩わしさばかりがあった、それだけであった筈だ。
 

『俺は父を捨て、貴殿を父と思う。貴殿もまた、俺を子と思われよ』
 あの関中での挙兵の折、彼は韓遂に向けて、そう謂った。その言葉に、妄(うそ)はなかった。

 関中で起(た)つということは、即ち、都にある一族を危機に曝す事ともなる。己の敵は曹操。朝廷に丞相として存り、西の涼州をも平定せんと、兵力を以て威圧を見せたのは曹操だ。それが故に自分は起(た)った。従えという聲に、肯(がえん)じ得なかった。
 それが朝廷の意志か。そうではない。それを認めぬ。
 それを、思った。曹操が兵を動かす事が朝廷の意志、天の意志であるとばかりの勢いが、ただ耐え難い息苦しさを齎らした。それに抗わねば、二度と己の手は碧空に届くことはないと、それを思った。
 超えたいと、幼いころから乞い続けた何かを、永久に奪われると、それを感じた。
 けれど彼の実の父は、朝廷に連なる事を望み、都に存る。けれど朝廷が曹操の膝許にある限り、己はそれに連なれぬ。それ故に―――
 それを叛と看做すなら、三族に至る誅殺を以て報いる。それがならいという事も、無論知っている。
 しかし、己の手が天の高みに届くなら、兵と共に来たる者に剋てるならば。
 曹操に刃を向けることを叛と看做す理不尽を、覆す事が叶うならば。
 そして、己がその理不尽を容れられぬ事を、父もまた知り、身を処す事を知っていた筈。それゆえに。
 子である己を、捨てねばならぬ。己の意志がそれをすることに、忸怩たる思いを抱くことはならぬ。ただ剋つこと。己が敗れねば父もまた敗れぬ。生きて、父が望むが如くに、帝の傍に残る。それを信じる他に、その時に何ができた。
 己が赦せぬ理不尽を、彼と血をひとしくする父もまた悪(にく)んでいるならば―――
 己はそれをせねばならぬ。それを、望んだ。

 そして、その彼の傍らに、その男はいた。
 父と呼ぶ、だから己を子と思えと告げながらも、そこに父子のあいだにあるべき情誼はない。叔父と呼んだ折の敬慕も、そこにはない。ただ冷えた思いだけが彼とその男の間にある。そして、それを知りながらもなお、その男は彼の言葉を容れた。
 ここから先は、剋たぬ限り、行くべき天地は互いに持たぬ。その覚悟のゆえに。
 そして恐らく、その戦の果てに、欲(もと)めるものが等しき故に。
 

 等しい―――?
 そう思い至り、彼は不意に窓に近付き、天を仰ぐ。
 湿度の高い蜀の空は、既に朽葉の色に染められかけている。眼に染みるその色彩の中に、碧はない。
 

 果たして、ひとしいと言えたのか。
 既にそれは判らぬ。真実、韓遂が欲(もと)めたものが何であるか、知ろうとも思わなかった。ただ確かに、あのとき彼の眼前に据え置かれた理不尽を赦せぬと、そう裡に思う心に呼応するが如くに、韓遂の眼があった。それは確かであったように思える。
 のちに戦の最中、曹操と韓遂が接触があった折、軍中に動揺はあった。韓遂の行動の見せる複雑ゆえに、もしやという声があがるのは必定。
 ただ、己は違うと思った。そこにあったのは、疑念ではなかった。
 曹操という存在に、己と韓遂の間にあった冷えを見透かされ、それを衝かれたような心持ちがあった。だから、それゆえに。


『書を受けたのは、事実だ』
 曹操に書面を受けたと、軍中に噂が流れ、だがそれを問うた彼に、韓遂はあっさりと応える。書の内容を云々する気は既に彼にはなかった。ただ、可恐しくつめたい何かが肚の底に蟠り、それを抑える事が、彼には出来なかった。
 苛立ちともつかぬ、焦りともつかぬ何事か。それが、揺らがぬ何かを揺らがせた。そう、感じられた。
『文約、』
 しかし、その呼び掛けに、韓遂は低い声で応えた。
『叔父とは呼ばぬのだな、超』
『貴殿はまだ俺を超と呼ぶのか』
 抑揚のない声が発せられ、韓遂は僅かに唇許を歪める。
『お前の母親を死なせた、それをお前はまだ覚えているか』
『忘れるはずもない。だが、過ぎた事だ』
 取り返せぬ。今更怨み事を云うつもりはない。
 そう呟き、彼は韓遂から目を逸らした。
『曹賊より書を受け取った、その真偽を確かめたかっただけだ』
『他愛ない挨拶のようなものだ。大した信(手紙)ではない』
 もし、お前が疑念を抱くような代物を受け取っていれば、既に儂はこの陣におるまいよ。
 彼は、その韓遂の言葉に頷いたのみで、あとにはただ、行け、という突き放す様な言葉が続く。
 韓遂は黙って自分の幕舎へと戻り、それが最後に、その男と交わした言葉となった。


 あのとき、交わすべき言葉はほかに存ったのか。冷えた己の声音の底に、匿(かく)れた何かが存ったのか。
 判るのはただ、もう二度と、その男を責めることも問い詰めることもできぬと、そればかりだ。
 あの言葉ののち、韓遂は何も云わず、ただ陣を移した。そして言葉を交わすこともないまま、無言で離脱を始めた。
 それが、瓦壊の始めだった。追い散らされて、関中の将は、あるいは戦死し、あるいは逃れた。己もまた、全てを失い、蜀に存る。
 あの男らしい、と彼は思う。危うさを覚えれば、無言で背を向ける。己の父と仲たがいをした折もまた、そうだった。そして、それをする後には、既に拠る先をも視ている。
 だが、今度は拠る先に裏切られ、その男は老いた首を曝す事となった。

 先に裏切ったのは誰だと、それを問うことも無意味だ。その男は今度こそ、完全に敗けた。再起のかなわぬ死は、その男の敗北を端的に示す。再起が叶えば敗けではないと、その男は謂い放った事があったではないか。ただ退き、雌伏ののちに起きること叶えば、未だ敗けではないと。
 その言葉どおり、生ある限り、幾度も巷を騒がせ続けたではないか。

 その、末路が、これか―――

 哀れとも思わぬ。嘲る気持ちも、毛頭ありはしない。
 悲嘆も喜びもなく、ただ韓遂という男の死を、彼は己の中に容れた。そう、どうということもない。知らぬでも障りはなかったという言葉に、妄(うそ)はない。
 どうということもない―――
 
 

 ならば、何故。
 
 

「――――――ァ、っ、」
 眼を見開き、頽れる様に床に膝を折り、彼は己の頭を抱えるように、踞った。
 そこに慟哭はない。涙もない。快哉すら無い。
 ただ獣の如き呷きばかりが、喉を敗る。その低い響きは、房(部屋)の外には漏れぬか、静けさだけが、彼の周りに降りてくる。

 全ては過ぎ去りし事でしかない。今の己には、関わりなきこと。
 ならば何故、この顫えがある。
 何処かに繋がる繊(ほそ)き弦(いと)が、ぷつりと音を立てて切れたような覚束なさは、どこから生じる。
 肩で息を吐き、暫し彼は動けなかった。
「叔父―――」
 叔父上。
 そう呼び掛けようとする己の喉が、半ばまで発したその聲に愕然とし、彼は貌を挙げ、窓に手を掛ける。
 それに縋る様に身を起こし、視上げた先に、未だ暮れに至らぬ空がある。朽葉に耀き、未だ暑さを留める、その空はただ、眼に染みるように、痛い。
 やはり涙はなく、ただその窓に背を向けて立ち、息を落着けようと、肩を喘がせる。
 掌を見降ろせば、既に顫えはない。ただ、朽葉の色のひかりのみが、そこに零れて、床に影を落とす。
 

 この指の隙間から零れ落ちるが如く、過去もまた己の手には、残らぬか。
 

 ゆっくりと手を握り緊め、彼は瞑目し、奥歯を喰い縛った。
 彼の裡で切れた繊き弦は、過去のいずこかへ繋がるものか。既に取り戻せぬ、立ち返ることもできぬ、過ぎ去りしもの。どう足掻いても、ただあのとき「そうしなかった」という事実ばかりがある。
 他に投げるべき言葉はあったか。やりようがあったのか。その可能性を現在(いま)に見出し、それが顫えを齎らすことを、後悔というならばそうだ。
 戻れぬと自覚することを、後悔というならばそうだ。そのときの己を愧じるのではない。ただ、現在(いま)それを見る己の中に、焦燥にも似たやりきれなさが、確かにある。
 そして全ては過ぎ去り、己はそこから断ち切られ、離れて存る。
 この時に、この蜀の地に。
 

 その男を憐れむ事はない。悲嘆も、そこにはない。歓ぶ事も、ありはしない。
 それは既に、己には関わりのない事だ。それを胸の裡に繰り返し、確かに彼の裡はおそろしく謐かであった。
 その男が死んだのか、と。その事実が事実として、存在するばかりだ。
 

 瞼を開き、今一度拡げた手を見降ろす。朽葉の色を益々濃くして、傾く陽が光を零す。影は長く房(部屋)の床に描かれ、その行く先を見遣る彼の唇許から、溜息がひとつ、吐き出された。
 寄り掛かる壁より身を離し、陽に背を向けて、戸口へ動く。
 ゆっくりと扉を開けば、影があった。それに片頬に乗せた苦笑を向け、彼は呟く。
「まだ、いたのか」
 はい、と悪怯れぬ声が寄越され、彼の苦笑が深くなる。
 その彼に向かい、馬岱は云った。
「今ならば、まだ、間に合う」
 何に間に合うというのか。その怪訝を眉に顕す彼に、馬岱は続ける。
「死んだ者に対しては、何もできぬ。だが、未だ生きて存る者には、為せる事もある」
 命じられれば、俺が動く。漢中には未だ、生きて存る者がある。
 彼は暫し無言のまま、それを謂う従兄を見詰めていたが、不意に嗤いを浮かべ、ただその腕を掴んだ。
「生きて存るならば、また己の身の処しかたを、己の意志で選ぶ事も叶う」
 生きて存るならば、それ以上の何を欲(のぞ)まん。
 呟きと共に、馬岱の腕にかかる彼の手に力が込められた。

 この刹那の言葉を、未来(さき)にまた、耐え難い呷きと共に思い起こす事は、あるのだろうか。

 判らぬ、という思いと共に、彼は手を離した。
「若、」
 馬岱の呼び掛けに、乾いた声がこたえた。
「漢中に残る者を、今になって俺の一存で迎えるべく動けば、それはこの蜀に存るものが、漢中を侵す曹操に対して為したことと、そう見られる」
 今の劉玄徳にとっては、それはただの禍でしかない。また俺は戻る先の城門を閉じられ、俺に連なる全ては、行き場を失うやもしれぬ。
 至極淡々と、彼は告げ、馬岱は苦渋に満ちた面色で、貌を伏せた。
 彼は、続ける。
「未だ生きて存るならば、それでよい」
 己がここに存る事を知るなら、いかな不本意な状況であれ、容易く死を選ぶ事はせぬ筈だ。
 そうあってくれ、という思いは、祈るが如く。
 そして死したる者が存るのは、過去にのみ。そこに繋がる糸は、己の中からは断ち切れた。
「若、」
 馬岱は貌を伏せたまま、低い声で云った。
「文約殿のこと、若に報らせずに伏せていたこと、赦されよ」
 構わぬと彼は告げ、過ぎた事だと、云い添える。
「風に、当ってくる」
 馬岱の脇を擦り抜け、彼は未だ暑さを留める外の空気をもとめた。
 夏の湿度の中で、それもまた息苦しく思われるのかも知れぬ。だが、もとめて得られるものは、今はそればかり。

 暑い―――

 聲には出さず、ただ彼は昏みかけた虚(そら)を仰ぎ、雲に塞(ふた)がれたそこには、碧はない。

Mon Dec 23 15:29:44 2002


Index

 

 四十路の苦悩(滅)。不惑にして惑う。いやその。スミマセン。イタい…。
 韓遂が死んだ報が届いた時、馬超はどうしていたんだろうと思ったが故に来た電波なのか、韓遂が気になってしょうがない故に招いた電波なのか判らないのですが。
 なんというか、未だこの辺の馬超を始めとする面々の内部については未消化で不可分なままで、後に何か練り直したら違う事云い出しそうな気もするんですが。
 張魯が巴中へ退いた当りですんで、張魯の許にいる妻子はまだ、この年の秋まで生存しております。ホウ悳も、未だ張魯旗下におります。馬岱が気にしているのは、このひとたちについて。あと、漢中に逃れたのは、程銀と侯選。楊秋は既に曹操に降ってましたか。梁興と李堪は戦死してます。韓遂は作中の通り。ただ、彼の最後のビジョンに「もはや蜀へ行くしかないか」というものがありまして(成公英に諌められて断念しておりますが)馬超が蜀へ動く前ではあったのですが、ちょっとひっかかっております。
成公英もまた、閻行と並んで、韓遂旗下では気になる人ではあります。名前のみでしたが今回。
あと、諸葛亮がなんというか(笑)書いててこの人、それなりに楽しいのですが。なんかとてもヤな具合になってしまい。ただ、馬超視点なのでこうなってしまっているのですが、この時期、呉との関係が悪化してるのに漢中に曹操が押し寄せてきて、こっちは蜀に入ったばっかりで、どうしたもんかと、彼なりにテンパっている状況であったろうということを呟いておきます。とてもテンパってるようには見えませんが。その中で「たのむから、我侭云うなよ?」と馬超に釘刺さざるを得ない状況な訳で。なんかこういう役目は法正あたりに頼んだほうが、あとくされなさそうでいいと思えるのですが。
そしてこれ書いてる時に気になったのは、「馬超、彭ヒョウを密告する」事件。馬超が蜀で微妙な立場にあった事が伺えるのですが、その立場云々より、なんかこの彭ヒョウの物言いが馬超のカンに障ったのではなかろうかと、その背景を鑑みてみたい気もします。彭ヒョウが嫌いだった様な気もすんですが(笑)なんとなく。前後の経緯から考えると、彭ヒョウは馬超を劉備の下から担ぎ出せると思っていた節があったり、「貴様ごときが」と馬超が思った節もあったり。また馬超がその微妙な立場の己をどう受け止めていたのか、とか。
馬超については、ひっくり返す毎に、なんか頭を抱えたくなるほど難しいとしみじみ感じます。結局、今回も潼関に至るまでの彼の心境を煮詰めきっていないし。あーあー。