| 鬼を見た。
闇はただ黝(くろ)く、霞む春の月夜には相応しくないほど冥(くろ)く澄み渡り、
現世(うつしよ)ではない。それを理解する。現世は既に己を受入れぬ。
己にとっては、既に現世にあるものこそ、夢そして幻。
そこに佇む幻がうっすらと闇を払い、顕れて視える。 天心にある月鏡が曇りを払い、おちる光(かげ)は水面(みなも)に溜まる。
鬼が、顕れた。
現世にある姿が幽冥のさなかにあれば、それこそが鬼。
語る言葉もなく、見ているのは白木の枝か、それとも己か。
浅ましい。
何も望まぬ、成す事もなき鬼となりて、未だここに留まるは、その姿を見るためか。
戛(かつ)、と音がしてその方を向けば その姿が腰に剣を帯びて、鞘が鳴る。ただその音のみがそこに存る。
未だ己の依代となるか、その剣が。その鬼は未だその鍔鳴りの音を覚えているか。
幼き日に狩にいでて、振り上げた剣。珍しくもしくじって、枯木に当てて折ってしまった。
その剣のことなど現世にあっても忘れていたものを―――
ただ奔る事のみが成すべきことだと思っていた。
小覇王。誰が己を最初にそう呼んだか。
狂犬孩子と喧嘩はできぬ。誰がそう評したか。
只、前へ。 進むべき道が見える。 だから奔った。 よもや奔る己の脚が止まる事があるなどと 思ったことはなかった気がする。
水面(みなも)に月霜が降りる。凝る光(かげ)が近付いてくる。
漣立つ事すらない。この水は現世の水に非ず。未だ世に棲むものが触れることすらない。
「伯符」
冴え冴えと、降りる月霜。音を捉える事がない己の耳にも届くもの。己をここに縛るひかり。
帯びた鞘から抜き放たれた剣は、なかほどから折れている。 月の鏡の降ろす光の中にあって、やわらかく、そして恐らくはあたたかい、その失われた刃先のひかり。
己に向かう。近付いてくる。
時も失せ熱も失せ、眼も耳も腕も全てが虚ろな己を水面にうつさせ、今いちど人のかたちを取らせたもの。
いますが如く。そう振る舞えば鬼は降りる。生者の前に。
ここに存るのは己(オレ)か、それともお前の心に棲む己をうつした幻か? それを断ち 涙すらなく 思い出さずとも己はお前の中にまだ存るか――― 思い出すな。
欲(もと)めたのは お前のほうだ―――――
「返せ、公瑾」 声は届いたか。
鬼はいない。なにもない。
ただ水底には朽ちる事のない切っ先のみが沈んでいる。
光ることもなく光をうけることもなく、ただ時のない場所で一瞬とも久遠とも知れぬあいだを待ちながら。
折れる事を知らぬ剣は、折れた事にすら気付かぬげに水底にある。 その虚ろを抱えるものの生命の朱(あけ)が、滴り落ちて己を真に朽ちさせることを欲(のぞ)みながら。 己がそこに空けた虚ろが消える事を、かの者のために希(ねが)いながら。
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