鬼を見た。
 
 
 

闇はただ黝(くろ)く、霞む春の月夜には相応しくないほど冥(くろ)く澄み渡り、
その月明かりに照される花すらも見えぬ闇に存る。
ただ闇ばかり、澄明に満ち満ちてひややかに。

現世(うつしよ)ではない。それを理解する。現世は既に己を受入れぬ。
見ることもなくまたそこに存る己を見るものもなく。
 

己にとっては、既に現世にあるものこそ、夢そして幻。
 

そこに佇む幻がうっすらと闇を払い、顕れて視える。

天心にある月鏡が曇りを払い、おちる光(かげ)は水面(みなも)に溜まる。
その光が凝る姿を、ただ枯れた木の傍らに佇んで己の眼にうつす。謐かに、ただ幽かに。
朽木はつめたく、湛えられる水はなおも冷たい。
けれどその冷たさにすら既に狎れたか、それを感じることもない。
 

鬼が、顕れた。
 

現世にある姿が幽冥のさなかにあれば、それこそが鬼。
在りし日の兄弟の姿は十年の歳月を経ながらも変わらぬ風情でそこに佇み、凝る月霜の中に己を見て、
そこに映る色彩の虚ろはかなしい程に澄明にみえた。

語る言葉もなく、見ているのは白木の枝か、それとも己か。
何も映さぬ様な瞳に月のいろが宿り、呼吸すら喪われた様な唇が戦いて凍りつく。
届かぬ声ばかりが闇に喪われ己が耳に届く事はなく、
ただ己の中に浸み入る水のつめたさにその響きを知る。己が彼を呼んだのか、
彼が己を呼んだのか定かならぬ、その謐けさ。
 

浅ましい。
 

何も望まぬ、成す事もなき鬼となりて、未だここに留まるは、その姿を見るためか。
それほどに乞うたか。欲(もと)めたか。未練ばかりを残したか。
生きて存る世への未練が人の形となりてそこに存るか――――

戛(かつ)、と音がしてその方を向けば その姿が腰に剣を帯びて、鞘が鳴る。ただその音のみがそこに存る。
 

未だ己の依代となるか、その剣が。その鬼は未だその鍔鳴りの音を覚えているか。
 
 
 

幼き日に狩にいでて、振り上げた剣。珍しくもしくじって、枯木に当てて折ってしまった。
あァ、思い出した。そんな事はそれまで、いちどもなかったのだから。
 

その剣のことなど現世にあっても忘れていたものを―――
 

ただ奔る事のみが成すべきことだと思っていた。
遊興にいでて起こしたたまさかの失敗など時の流れに圧し流されてしまう程、己の時間は性急だった。
ただ先へ、先へと、手にした武器を換え眼前の敵を破り、破ればまたも新たな先を見る。
進む先はいくらもあった。それを追う事でせいいっぱいだったのだ。折れた剣など顧みる暇もなかった。
 

小覇王。誰が己を最初にそう呼んだか。
進む速度のはげしさに与えられた名を、いつしか己は受入れて存った。

狂犬孩子と喧嘩はできぬ。誰がそう評したか。
塞がる全てを打ち破り続け、たれも己を妨げず、何も畏れるものはないと、そう、思っていた。
 

只、前へ。

進むべき道が見える。

だから奔った。

よもや奔る己の脚が止まる事があるなどと  思ったことはなかった気がする。
その傍らにかれが居る事を、疑った事はなかった気がする。
奔る己の中に存った冬枯れの木の枝を過ぎる風。その風のつめたさをただ一人、己と共に感じた者。
 
 
 

水面(みなも)に月霜が降りる。凝る光(かげ)が近付いてくる。
 

漣立つ事すらない。この水は現世の水に非ず。未だ世に棲むものが触れることすらない。
 

「伯符」



冴え冴えと、降りる月霜。音を捉える事がない己の耳にも届くもの。己をここに縛るひかり。
 

帯びた鞘から抜き放たれた剣は、なかほどから折れている。

月の鏡の降ろす光の中にあって、やわらかく、そして恐らくはあたたかい、その失われた刃先のひかり。
 
 
 

己に向かう。近付いてくる。
―――振り下ろされた刹那、歪む水面の像が失せ、ただあたたかさだけが存る。
感じる筈もない、熱だけが。
 

時も失せ熱も失せ、眼も耳も腕も全てが虚ろな己を水面にうつさせ、今いちど人のかたちを取らせたもの。
 

いますが如く。そう振る舞えば鬼は降りる。生者の前に。
生者の想いを映し   うつくしい思い出として顕れる。
 

ここに存るのは己(オレ)か、それともお前の心に棲む己をうつした幻か?

それを断ち 涙すらなく 思い出さずとも己はお前の中にまだ存るか―――

思い出すな。
思い出すというのは即ち忘れたが故に成せる業。忘れる事など赦す筈もない。
ただそこに棲み、捕われながら捕らえてやろう。
 

欲(もと)めたのは お前のほうだ―――――
 

「返せ、公瑾」

 声は届いたか。
ただ謐かに剣は水に沈み、水面は漣すら立たぬ。
此方とあちらを隔てる薄く澄み切った鏡の面にはなにもなく、ただそこに存るのみで。
折れた剣はそれを潜り、虚ろなる切っ先のみがそこに顕れる。
おとされた 剣把ではなく――――
 

 鬼はいない。なにもない。
虚ろだけがそこにあり、 形代を棄てた鬼は鞘の中の虚ろのみを抱えてゆくのだろうか。
振り下ろす刃の先には既に斬るべきものを持たぬことを、それすらも知らず。
 

 ただ水底には朽ちる事のない切っ先のみが沈んでいる。
 
 

 光ることもなく光をうけることもなく、ただ時のない場所で一瞬とも久遠とも知れぬあいだを待ちながら。
 
 
 

 折れる事を知らぬ剣は、折れた事にすら気付かぬげに水底にある。

 その虚ろを抱えるものの生命の朱(あけ)が、滴り落ちて己を真に朽ちさせることを欲(のぞ)みながら。

 己がそこに空けた虚ろが消える事を、かの者のために希(ねが)いながら。
 
 
 -了-

□虚し世に存る現身(うつせみ)のきみを想う□