CIVER/KS
新場書房
Kazan Shinjow
Presents
「Kanon」沢渡真琴

 

 

 『その温もりを忘れないで……』

 

 

 

 

「あったかい……」

 その呟きが愛しくて、俺は胸の前で丸くなっている小さな小さな女の子の栗色の髪をそっと撫でた。

指先に感じられる細い感触。さらさらと心地よいその感触。

「ん……っ」

「ああ、悪い。寝てて良いぞ」

 反応して開かれる瞳。キラキラと輝いた生気に溢れた眼差し。見上げる上目遣いの視線。

 俺は自分の非礼を詫びてその瞳を閉じさせる。彼女はとろんとした目をなんの疑問も不安もないかのようにそのままゆっくりと伏せた。

(無邪気というか無垢というか)

 その表情を見ていると邪念など起きようもなかった。信頼が故の表情。別にその信頼を守る義理など何処にもありはしなかったが、あっさりそれを裏切る必要もないように思えた。

「お前は一体何処から来たんだよ」

 寝てて良いなどと言ったにも関わらず、ついついちょっかいを出してしまう。胸の前、丁度見下ろすと目の前に来る辺りの相手の頬をちょんと突っつく。

「あう……」

「ああ。悪い悪い。寝てて良いぞ」

 今度は片目だけ開いて応じてくる。俺はやっぱりそれも笑顔でいなして、相手になんでもない事をちゃんと説明してやる。

 それで納得するのか、少し身じろぎしてから彼女はからだをより小さく丸めて今度は俺の胸の辺りに額を当てるようにして眠りに就く。

「なあ、真琴……」

 彼女の温もりを胸の辺りに直に感じる。額から彼女の熱が伝わってくる。少しの重みと共に大事な大事な彼女の証が伝わってくる。

 今、彼女がここにいる、それを感じる事の出来るその証が。

(俄かには信じられない話ではあるけどな)

 頭の後ろで両の手を組む。こうしてベッドに入ったは良かったが、まだしばらくはまともに眠れそうな状況ではなかった。

 疲れていない訳ではない。むしろ、ここ数日の環境の変化は俺の精神を参らせ、ちょっとした事でも疲労に繋がる可能性を大きくしている。こうして転がっていればすぐにでも睡魔が襲ってきてもおかしくはない。

「お前、俺の事を知っていたんだな」

 俺は自分の上に乗っかっている存在をまじまじと見つめた。

 変な気持ちは湧き上がってこなかった。優しい、穏やかな想いが精神を浸していくような気がした。

 そうして、それが自分の眠りを押し留めている事を俺はなんとなく自覚していた。

(どんな風に思っていたんだ?)

 俺の上にいるこの子は自分の事を沢渡真琴だと言った。その人名には心当たりがあった。

 そうして、その結果が導き出したのは突拍子もない話だった。だが、信じるしかないような事を彼女は幾つか示して見せた。その為に今のこの状況は成り立っている。この、奇妙で不思議で異常にも見えかねない状況が。

「……やっぱり、憎かったのか?」

 決して故意ではないのだが、俺は昔、真琴をこの地にひとり置き去りにしてしまった事があり、俺はこれまでその事を忘れていたのである。

 かくして再会は起こり得たが、俺が真琴の事を覚えていなかったからそれは最悪の喜劇だった。

(悪かったな。こんなに綺麗になってるとは思わなかったよ)

 思わず溜息が漏れる。上下する胸の感覚がイヤなのか、真琴は寝返りともつかない動きをして俺の胸から頭を離す。

 イコールとしてそれは彼女の頭をとす、とシーツの方に落とす結果となった。

「あう」

「まだ夜だぞ」

「……うん」

 答えながらも目を擦っている。起きだそうとはしないようだが、どうも焦点を合わせようとしているらしい。

「ゆういち、寝ないの?」

「寝るぞ」

「真琴、ここにいたら邪魔?」

「馬鹿言え。真琴がいるからあったかくて良いんじゃないか」

 最近、俺は真琴と一緒に寝ている。別に疚しい事は何もない。いやらしい事をしている訳ではないし、いい訳がましく聞こえるかもしれないが、俺が望んで始まった事でもない。

 寒かった夜が最初で、真琴が俺のベッドに潜り込んで来た事がきっかけだったと記憶している。十中八九、この記憶に間違いはないはずだ。

「うん。真琴も……あったかい」

「だから、問題ないぞ」

「うん……」

「ほれ。布団上げるぞ」

 俺は布団の中に両手を沈めた。それから肩の辺りまで布団を引き上げる。布団の重さがずっしりと言うほどではないが肩にかかってくる。

 いつもの事なのだが、これをやると真琴はすっかり布団に包まれて足が下から覗いてしまうらしい。ゆっくりゆっくり上の方へとずり上がってくる。

「んしょ、んしょ」

「肩出すなよ? 風邪ひくからな」

 緑色のカエルパジャマが布団の上辺りから見えると言ってやる。真琴は意外と寝相が悪かったりする。ちゃんと布団に押しこんでおかないと簡単に風邪をひくことだろう。

「あったかいよ?」

「肩出して寝たら冷えるだろ」

 お互いに横になっていつでも眠れる体制になってから確認する。釘を差しておかないとすぐに忘れるのは目に見えている。

「ゆういちと一緒なのに?」

「布団から出たら寒いんだぞ」

「大丈夫だよ」

「それでもだ」

「あう〜」

 困った顔をする。寝ているせいか、普段している赤いリボンがないせいか、はたまたお互いに横になっているせいなのか、こうして向かい合っている時の真琴はまた別の表情を見せてくれる。誰も知らない、沢渡真琴。

「あ、それじゃ、ゆういち、手……」

「手?」

 なにか思いついたのか、真琴が布団の中から手を差し出してくる。これはいつもと違う行動。

 俺はその意図が読めずに聞き返してしまう。手をどうしようというのだろうか?

「手を出したら肩も出て冷えるだろ」

「そうじゃなくて、繋いでよぅ」

「え? 手を繋ぐのか? 布団の中でか?」

「うん……ダメ?」

「……」

(上目遣いは汚いぞ。ダメって言える訳がないじゃないか……)

 真琴の方がいくらか身長が低いのだからこういう姿勢で俺の方を見れば自然と上目遣いになってしまうのだろうが、それでお願いされたら大抵のやつは撃沈されてしまうだろうと俺は思うぞ。真琴。

(しかし、素直になったと言うか俺に対しても穏やかに接してくれるようになったと言うか)

 少し前には真琴とこんな風に俺がひとつの布団を共有して床に入っているなど微塵も考えもしなかった事だ。真琴は俺に対して敵愾心を剥き出しにしていたし、俺もまた何もかも忘れかけてしまっていたから、どうしてそんな風に敵意を向けられなければならないかを理解出来なくて徹底的に抵抗していた。傍から見たら戦争状態にあった二人だったのだ。

(それが今やこんな風に穏やかに時間を過ごせるようになってる)

 不思議と思うと同時に、ここに至る選択と偶然、それから周囲の変遷をありがたく思う限りである。

「手、どこ?」

「ぐあっ! それは違うぞ!」

「ごめん。ええと……」

「お前、平気なのか?」

「なにが?」

「……いや、なんでもない」

「?」

「きにするな。ほら」

「あ。ありがと」

 手を差し出す。真琴がその手をきゅっと握る。二人の胸の前で腕が繋がる。布団の中。温かな繋がり。

「これでいいのか?」

「うん……ありがと。ゆういち」

「手を繋ぐのは良いけど、肩を出すなよ?」

「うん。あったかい……」

「……そうか」

 俺は布団を少し上までずり上げる。真琴の鼻の下辺りまで一番上が来ていたけれども、それほど問題はないだろう。

「苦しくないか?」

「平気」

「重たくないか」

「大丈夫」

「寒くないか?」

「あったかいよ」

 真琴は俺の言う事言う事にどこか楽しそうに答えた。俺と真琴の上に乗っている布団の枚数は三枚。ちょっと大目に感じるかもしれないが、この地域の寒さは想像を絶する時がある。これだけあってもまだ寒いと感じる時がある。俺の身体は少しこの布団を重いと感じていたので真琴には苦痛ではないかと配慮したのだが、どうやら杞憂だったらしい。

「本当だよ。真琴、何も不便に感じないよ」

 そう言って、真琴は笑った。それから、思い出したように一言付け足す。

「あ、でも……」

「どうした?」

「もっとゆういちの近くに行っても良い?」

「……ああ。構わないぞ」

 ちょっとだけ重いかけ布団の中をもそもそと潜行して来る。俺の方へと真琴の顔が近づいてくる。

 近づく距離。触れる身体。腕と腕。掌と掌。

「ああ。やっぱりこの方があったかいね」

 とくんとくんとくんとくん……

「あったかいよ。ゆういち」

 とくんとくんとくんとくん……

「当たり前だ。生きてるんだからな」

「うん」

 きゅっと真琴が手を握り締めてきた。俺はそれを軽く握り返した。

 真琴が俺の胸に顔を埋めてくる。結ばれていた手と手がほどける。けれど、またすぐに二重に結ばれる。

 とくんとくんとくんとくん……

「あったかいよ……」

「ああ。俺もあったかい」

 とくんとくんとくんとくん……

 皮膚を通じて熱を感じる。熱いぐらいの音と温度。

 きっとこれが真琴の捜し求めていたもの。俺が与えずに放り出してしまったもの。

 とくんとくんとくんとくん……

「ゆういち、ゆういち、あったかいよぅ……」

「……ああ」

 とくんとくんとくんとくん……

 真琴の鼓動を感じながら俺は目を伏せた。

 それから大きく息を吸い込んで、ただ言うべき言の葉を自分の舌に乗せた。

「待たせてごめんな。もう、寒い思いはさせない。俺がずっと、お前の傍にいるからな……」