YASUHIROの過激な人生模様を赤裸裸に綴ります。

1.出生から幼年時代

留学時代に終戦を迎えた父は命からがら本土に戻りすべてを追われて祖国に戻って印刷関係の商売を始めた。

そのまま大学を卒業していればエリートコースを歩むはずであったが戦争と言う運命が父親の人生を大きく

狂わしてしまった。荒れ果てた日本に戻った父は兄弟たちの面倒を見なければと商売を始め何とか生計を立て

家族を養っていた。たまたま商売で知り合った母とめでたく結婚し三人の男の子が生まれた。僕は次男として

生を受けた。

***

男兄弟と言うのはとにかく喧嘩が絶えない環境であり,僕は腕白であった。幼い頃家にはクロと言う犬がいた。

この犬を連れてずいぶん悪戯をしたものだ。近所の家の玄関からヤクルトや牛乳を失敬したり,石を投げて

窓ガラスを割ったり,近所の子供達を虐めたりする事も良くあった。近所のおばさんが家まで来て怒鳴りに来た事も

何度もあったようだ。自由奔放に育てられた僕は恵まれた自然環境の中で蝉やカブト虫,バッタ,蝶を捕まえるのが

好きだった。今山登りに夢中になっているのはそのような環境で育った影響が強いのだろう。また冬になれば雪が

多かった事もありよく近所の家の屋根に登り屋根から雪の上に飛び下りて遊んでいた。雪は身近な存在でありあの

38豪雪の時は4歳だったが屋根まで積もった雪を今でも覚えている。雪の中で一日中遊んでいるような子供でもあった。

***

自然の中で一日中遊びに夢中だった幼年期だから勉強などした事は無かったし,本も読んだ事は無かった。とにかく

近所では名の知れた悪ガキを演じていた。幼い頃を知る人たちは僕が医者になった事など多分想像もつかないと思う。

2.小学校時代

小学校に入学しても相変わらず悪ガキだった僕は教室でいつもいたずらをしていた。担任の女の先生のスカートを

まくるなんて序の口だった。いつも教室の後ろに立たされていた記憶がある。教室の後ろに立たされてもまたいたずらを

するのでついには廊下にほうり出され最後には家に帰れと帰らされた事もあった。さすがにこの時は父親に叱られると

思ったが意外にも叱られなかった。気に食わない優等生がいたら帰りに待ち伏せしてぶん殴ったりした事もあった。

***

とにかく勉強も大嫌いで成績表はいつも5段階評価の1か2と悲惨なものだった。勉強するくらいなら外で真っ黒

になって遊んでいた方が良かった。毎日日が暮れるまで外で虫を追って走り回っていた。

***

小学校の時学年でいつもぶっち切りの成績をとっていたT君がいた。6年間首席だった。彼とは一人の女の子をめぐって

競い合っていた。この小学校でその後医者になったのは悪ガキだった僕とこの首席のT君の二人だけであった。

医者になって病院巡りをしていた時偶然このT君と再会して僕が医者になった事を彼はずいぶん驚いていた。

***

僕が6年生の時このT君と同じクラスになった。この時担任だった女のA先生にも随分いたずらをして迷惑をかけた。

卒業式の時YASUHIRO君は卒業させないと叱られた事を今も覚えている。このA先生がその後癌になって大学病院

に入院した。たまたまT君が医学生だった大学病院だったので,彼は何度か見舞いに行ったと言っていた。

A先生は亡くなる間際までいつも僕の事を話していたとT君が教えてくれた。先生も僕がその後医学生になった事を

本当に驚いていたとのことだった。

3.中学校時代

中学に進学しても勉強に熱が入る訳でも無かった。クラブはテニス部に所属した。成績は中の下,

クラス40名の中で30番近くであった。中学でも仲間は不良の悪たちばかりであった。

先生からも目を付けられその程度の成績でもお前にしては上出来だと小馬鹿にされた。

中間試験で頭の良い生徒にも馬鹿にされた事が無性に悔しかった。

勉強するには家庭環境も大切である。しかしこの環境にも恵まれていなかった。

***

と言うのは親には悪いが自宅はおんぼろ長屋でとても狭く,タンスに囲まれた6畳の部屋に両親と僕と弟が寝ていたの

だった。もう一部屋にはばあちゃんと兄が寝ていた。僕の部屋には一応机はあったが勉強に集中できるような環境では

なかった。もちろん塾や家庭教師なんて論外であった。自慢では無いが医学部に合格するまで塾や予備校など余分な

お金をかけた事は一切無い,今思えば孝行息子であった。

***

しかし奇跡は起きた。1年生の後半の中間試験の数学でまぐれで90点をとったのだ。自慢げに父親にテストを見せると

父は喜んでくれ,お前もやればできると励ましてくれた。そして勉強するなら書いて覚えろ,覚えたい事は10回書きなさい

と勉強のコツを教えられた。そうか書いて覚えるのか。人一倍負けず嫌いだった僕は勉強のできた秀才たちを見返して

やろうと猛勉強を始めた。両親や弟が寝静まった狭い部屋で机を照らす卓上ライトが睡眠の邪魔にならないようにしながら

深夜2時3時は当たり前で夢中になって夜が明ける事も良くあった。

***

その後成績はぐんぐん伸びた。テストで成績優秀者は先生が公表するのが慣例であったが,これに名前を呼ばれるのが

快感で励みになっていた。当時の中学は市内でも一番のマンモス校で1学年600名近くいた。3年生の実力試験では

ついに夢のトップ10入りを果たしたのであった。最高は5番であった。

***

もう誰も成績で僕を馬鹿にする人はいなくなっていた。やればできる勉強とは根性である。人に負けたく無ければ

人以上に努力すれば良い。やるしかないと言うのが僕の哲学になっていった。友だちにも恵まれた。テニス部でペアー

を組んだ友人は大学教授の息子で彼に大いに感化を受けた。彼にも負けたく無いと更に励みがついた。彼はその後

ぶっち切りの成績で現役で東大に進学してしまった。今どうしているだろうか。

***

高校入試も滑り止め受験無しの一発勝負で無事地元の進学校に入学を果たす事ができたのであった。当然中学校

1,2年の頃の悪グループだった友人たちは僕の変身ぶりに驚いていた。僕はもう悪から脱却し善良な生徒への道

を歩み始めていた。本気になって頑張ればやれない事は無い,できないのはやる気が無いだけである。

4.高校時代

めでたく進学校に進んだ僕は卓球部に入部した。当時体力の無かった僕は毎日のように走らされ,学校の近くの山まで

ダッシュを繰返した。かってはインターハイでも上位に食い込む活躍をしていたのだが,入部当時はいつも

1回戦負けのような惨状であった。何とか部を立て直そうと努力しキャプテンに担がれた事もあったが限界を感じて

3年生になる前に辞めてしまった。自分で楽しいと思わない事はやはり続かないものである。好きこそ物の上手なれである。

しかし1年下の後輩たちはだらしない僕達に触発されたのかメキメキ頭角を表しインターハイで活躍する程になった。

***

人生引き際も大切なのかも知れない。限界を感じたら潔く敗退する事は山でも大切な事である。

***

勉強もそれほど気合いが入らなかった。将来の夢もまだ無かった。進学校ゆえ優秀な生徒も多く,どれだけ頑張っても

あの優秀な生徒たちにはかなわないだろうと諦めていた。そうしているうちにまた悪癖が出てしまった。バイクに

凝りだした。父親から全校でベスト10に入ったらバイクを買ってやるとニンジンをぶら下げられ必至になって

ベスト10に入ったのは良かったがその後バイクに夢中になり勉強は二の次になった。

***

夜な夜な遊びに出る事も多く青春時代を謳歌した。一度しかない青春やりたい事があればその時しかできない事を

思いっきりやる事も大切だろう。青春は一度限りである。

***

3年生の時大きな事件があった。と言うのは当時仲の良い女子生徒はいたが僕にはずっと片思いの子がいた。

バトミントン部に所属しインターハイでも大活躍していた女の子だった。ある日清水の舞台からから飛び下りる気持ちで

自宅に電話をかけ愛を告白した。彼女は翌日体育館の裏で返事をするからと言ってくれた。翌日ドキドキで返事を待った。

***

だが,もうすぐ受験だから恋愛はできないと言う返事だった。ガーン,人生初めての失恋だった。

僕は地獄に突き落とされた様にその後数日涙は止まらず,食事も取れない日々が続いた。

もちろん勉強どころではなかった。しかも大学受験まで残り数カ月と言う微妙な時期だった。

かろうじて立ち直りかけたが糸の切れた凧のように日々さまよい成績も下降した。

***

結局その後も完全に立ち直れないまま不本意な受験を迎え,かろうじて地元国立大学の工学部に入学を果たした。

彼女も教育学部に入学した。しかし今思えばもしあの時つきあう事になっていたら仲良く大学に進学しラブラブになり

もう一度医学部を受験しようなどとは絶対思わなかっただろうから人生とは不思議なものである。

***

まさに災い転じて福となすである。

5.何故医学部を目指す事になったか

めでたく地元国立大学の工学部建設科に入学し将来建築家になる予定ではあったが,桜並木をくぐり抜け入学式に出たが

嬉しくは無かった。このまま不完全燃焼で人生を決めて良いものか,一度しかない人生悔いは無いか真剣に悩んだ。

***

僕が子供の頃いつも風邪をひいたら見てくれていた先生がいた。うちと同じくおんぼろ医院であったが,先生は白髪で

いつもネクタイをピシッと決めた長身のDrであった。じいさんが自宅で脳卒中で息を引き取った時もその先生が最後に

脈をとってくれた。待ち合い室には粗末な火鉢しか無く薬もいつも先生がすり鉢で調合してくれていた。僕はその先生

を尊敬し診てもらうだけでいつも病気が治ったような気がしていた。

***

地元でもとても信頼の厚い先生であった。その先生はその後も最後までそのスタイルを貫き医院を閉じた。あの先生の

様になりたいと言う憧れが無い訳では無かった。このまま工学部に進んでも必ず後悔すると思い,大学に休学届けを

出そうと決意した。母親や親戚は皆一同に止めてくれと制止したが,父親だけが頑張ってみろと背中を押してくれた。

***

もう迷いは一切無かった。一度完全燃焼してやれるだけやってみようと決意した。しかし親には金銭的な迷惑をかけたく

無かったので独学で頑張る事に決めた。第一志望は伝統のある憧れの某国立大医学部であった。高校の先生に相談に

行ったところその大学の医学部は東大(医学部は別)より難関で東京の駿大予備校に2年程行かないと絶対無理だと

一蹴された。

***

そう言われれば言われる程燃えるのが僕の性格で絶対に合格してみせるとメラメラ気力に火がついてしまった。

早速大学には休学届けを提出する事にしていよいよ辛く長い浪人生活が始まったのだった。

***

もう引き返す事はできない。死ぬ気で頑張ってみせると心に決めた。

6.浪人1年目

浪人1年目勉強は大学の図書館を利用する事にした。図書館は朝9時から夜8時まで使えるし昼御飯は生協でとれるので

都合は良かった。単調で不規則になりがちな独学生活をさけるため毎朝5時起床で旺文社のラジオ講座を聞く事にした。

これを聞いて朝食を食べれば大学へ行って図書館に籠ると言う規則正しい生活を行う事にした。

***

キャンパスでは同級生が女の子たちと楽しい学園生活を満喫していたが,色欲,食欲,遊欲など全て断つことにした。

すなわち合格するまで欲しがりませんを貫いた。半強制的に勉強するようにストップウォッチを机に置いて毎日

最低でも13時間は勉強するようにした。正直人生の中で最も辛い時期だった。

***

幸い図書館には司法試験を目指していた法学部の学生が朝から晩まで毎日勉強していたのでこれは大いに励みになった。

毎日全国の難関大学の入試問題を解きまくり,徐々に成績は向上していった。予備校主催の模擬試験でも成績優秀者に

時々名前が載るくらいにはなっていた。この調子なら来年は合格できるかも知れないと言う安心感もあった。

***

大学が夏休みになったある日図書館で勉強していたら高3のクラスメイトに出逢った。彼は現役で地方の国立大の

農学部にかろうじて引っ掛かっていた。<俺今休学して来年は医学部を受験しようと思っているんだ>と話したら

彼も同じように現状に不満を持っていた。

それなら俺もと彼も僕に触発されて大学を休学して医学部を受験したいと言い出した。

***

正直心強い仲間ができたと思った。夏以降彼と二人で大学の図書館で朝から晩まで勉強を続けた。彼も凄かった。

僕達が卒業した次の年から新たな共通試験が始まる事になっておりこれまで勉強した事のない科目も2教科勉強

しなければならない事になった。彼は新しく勉強を始めた化学で1ヶ月後の模擬試験で全国ランキングに

名前が載ったのだった。とんでもない奴だと思った。真面目に勉強すれば伸びるような才能のある奴もいるので

ある。当時多くの同級生は新たな試験制度を嫌って皆妥協をして進学する事が多かった。

***

毎日13時間以上机に向かう禁欲生活は一日も欠かさず受験まで続けられた。この時期には第一志望の難関大学の

医学部もB判定ほどになっていた。さあ一発勝負である。滑り止めなんか無い,1年の全ての成果をこの受験に

賭けようと思った。

***

始めての共通試験元年,9割には届かなかったが何とかボーダーをとる事ができた。しかし友人は930点近くを

とっていた。彼は更にランクを上げ旧帝大の超難関医学部を受験すると言い出した。うちの高校でもまだ一人も

合格者がいない医学部であった。

***

さあ二次試験,第一志望校は二次の配点が大きく数学がカギを握るとされていた。何とか英語は大丈夫だ,さあ

最後の数学次第である。問題は3題,1題が百点を越す一か八か問題だった。しかしながら最後の3問目がまるで

歯が立たなかった。これで百点以上は差を付けられた事になった。多分駄目かも知れないと試験の帰りに思った。

***

さあ合格発表の日,やはりあの一問が解けなかった事が大きく響き僕は不合格になっていた。

友人は見事に半年の受験で旧帝大の超難関医学部に一発合格していた。母校始まって以来の快挙だった。

***

ショックは大きかった。再受験を諦め復学する選択肢もあったが,父親に頭を下げてもう一度だけチャンスを欲しいと

頼み込んだ。もし来年落ちたら大学を辞めて就職するからと言う約束でもう一度リベンジを果たす覚悟を決めた。

あの365日地獄のような日々がまた始まるのかと思うと気が遠くなって来た。しかしその時の僕にはもう前しか

見えなかった。

6.つらい浪人2年目

2年目の僕は孤独だった。もう友人たちは大概進学し,更に浪人しようと決めている仲間は誰もいなかった。

独学の僕に予備校の模擬試験などの色々な情報を教えてくれた女の子も無事東京の女子大に進学し更に孤独さに

拍車を掛けた。相変わらず予備校に行くような金銭的な負担は求められないので大学の図書館で朝から晩まで

机に向かう日々が続いた。

***

深い海底に沈んで光を求めて海中を泳いでいるような気持ちだった。孤独な事ほど辛いものは無い。

この地獄からいつ脱出できるのだろうか。自分で選んだ道とは言え頑張るしか無かった。

できる事は少しでも人より多く勉強する事だけであった。食事以外の時間は机に向かう毎日が続く。

***

その甲斐もあって成績は更に上がって行った。もう模擬試験では第一志望もA判定になっていた。

母校で行われた現役浪人を含めた実力試験でも総合で一番になっていたが,2年目と言う事もあり

嬉しくも無く2年目でまだ名前が張り出される事が恥ずかしかった。

***

いよいよ共通試験日が近付く。共通試験ではもう安全圏に入っていた。後は2次試験である。

問題はまた第一志望にこだわるかどうかである。2次試験はまたあの数学3題で400点満点となる。

もし一題でも苦手な問題が出てできなければこれだけで不合格になる可能性があり,昨年の失敗

を踏まえて受験大学を変える事にした。

***

試験問題を分析して数学の問題数が多く,1題くらいできない問題があってもそれほど総合点に

影響のない国立大学の医学部を捜した。その中でも関東の某大学は伝統もあり毎年自分好みの

問題が出ていた。この大学なら絶対間違い無いだろうと思った。もう地獄から解放されたい。

***

そしていよいよ2次試験,数学の問題数は6題ありどの問題も当たり外れなく無難に解答できた。

試験の帰りの列車でもう絶対落ちる事は無いだろうと確信した。

***

そして2週間後の合格発表,電話で合格の通知が来た。これでようやく地獄から解放されたと思った。

正直な感想であった。合格のうれしさよりあの苦しさから解放された事が一番うれしかった。

青春時代の貴重な2年間を浪人生活を送る事になったが,努力をすれば夢はかなうという気持ちを養う

事はできた。日本と言う国は平等で努力をすればどのような職業選択も可能な国である。

二十歳前後と言うこの時期に人生の進路が大きく決まってしまう。今思えばあの時本当に頑張って

良かったと思う。

***

こうして僕の医学生としての道はスタートした。

7.青春イコール寮生活

ようやく2年越しに医学部に入学した僕は大学生活を寮で送ろうと考えた。親の経済的負担の軽減と

もう一つ寮生活への憧れであった。大学の寮はその当時珍しい男女共同の寮であった。

男子百数十名,女子約五十名が5畳一間の個室で生活していた。トイレと風呂は共同で

学生は自炊生活をしていた。寮費は水道光熱費込みで月5千円ほどと格安であった。

***

寮に入った新入生はまず入学式前夜に大広間に集められ入寮式を行う事になっていた。

大広間には舞台が作られスポットライトが当てられる異様な雰囲気であった。

通称ストームと呼ばれる荒っぽい歓迎式だった。

***

新入生は舞台に独りずつ立ち,先輩が一人向かい合って出身高校および名前と大声を張り上げる。

新入生はあらん限りの声を張り出して答えなければならない。先輩全員がOKを出すまで延々と続く。

続いて特技と来る。ここで特技を披露する。先輩が納得するまでうける芸をしなければならない。

僕は舞台上で咄嗟に笑い転げる芸をして随分うけた。

こうしてストームは入学式が始まるギリギリまで徹夜で続けられた。

先輩は儀式が終わらなければ入学式も出さないと脅かした。

僕はとんでもない寮に入ったと思った。

***

当然半泣きになってその夜自分の番を待たずに逃げ出す新入生もいた。しかし僕は試練だと思った。

これから厳しい学生生活や社会人になるための試練なのである。

郷に入りては郷に従え,これも度胸をつける大切な儀式だと理解した。

***

無事ストームが終わると次は判子もらいと言って先輩全員の部屋を訪れて挨拶をして判子をもらう。

タイムリミットは1カ月間,この間に仕上げなければ退寮である。

しかし先輩はただで判子はくれない。厳しい課題を突き付けられるのである。ある新入生は1週間

ヒッチハイクをして大学まで通えと言われた。また地下室で24時間座禅をさせられた奴もいた。

近くの交番の看板を取ってこいと言うとんでもない課題まであった。全てが青春であった。

***

また花見の会では新入生は酒を浴びるほど飲まされた。救急車で何人もの新入寮生が病院へかつぎこまれた

ものであった。この寮は全学の寮であり医学部以外の学部の学生や国外からの留学生も入寮していた。

毎日多くの先輩後輩と語り合い,青春を謳歌した。僕の大学生活はまさに寮生活が中心になっていた。

***

この寮に入った医学部の同級生は4名であり僕を含め皆2浪以上であった。同じように他大学を中退して医学部

を再受験して来た者も3名いて皆苦労したんだと互いに慰めあった。

***

寮生の中でも特に寮長は特殊なオーラを放っていた。寮長は学長や学生部長とも交渉しなければならず

まして寮の様々な難問課題を解決しなければならない。僕も寮生活の深みにハマるにつれ将来は寮長になりたいと

密かに企てていた。しかしながら選挙で勝たなければなれないし,多くの寮生が認めてくれなければなれない。

寮でも様々な仕事をこなしそれなりに実力をつけた僕だが3年生の時ついに選挙に出た。

対抗馬は教育学部のつわものであった。

***

多数派工作に明け暮れそれなりに票はとれると思ったが結果は見事に落選した。まだ寮生は僕に信頼を

寄せてはいなかったのだ。しかし僕はめげずに寮内で寮誌編集委員長や寮祭実行委員長などを引き受け

頑張って4年生の時再度寮長選に出た。

***

さすがに二度目の挑戦では対抗馬に圧勝してついに憧れの寮長になった。

勉強もそこそこに僕は精一杯寮長の職務を果たした。全国の寮長の集まりで東大の駒場寮にも何度か訪れた。

学長や学生部長との交渉も強気で頑張った。この時の体験は金では買えない多くの生きるための資質を

養わせてくれた。リーダーとは,人を引き付ける魅力とは,交渉術とは,協調とはすべてが勉強であった。

***

今の学生には寮は人気がないと言う。しかしこのような金では買えない素晴らしい体験を送れるのは

寮ならではである。まさに僕の学生生活は寮生活とイコールであった。

8.難民キャンプ海外ボランティア

寮生活を満喫していた1年生のある日,寮に一枚のボランティア募集の紙が届いた。ドレドレなんだろう。

そのボランティアと言うのは約4週間に渡ってカンボジアとタイ国境の難民キャンプに日本からの

援助物資を届けキャンプで医療や教育などの奉仕活動を行うと言うものであった。当然行くなら休学届け

を出して試験は再試験を受けなければならない。何かを得るなら何かを捨てなければならない。

***

こんな機会滅多にない事だと武者修行の一つと理解してすぐに大学に休学届けを出して参加する

ことにした。即決断即実行である。結果は後から考える。行くしかない。

行きも帰りも船である。東京晴海埠頭から1万トン級の大型船に物資を満載して僕達はタイへ向かった。

全国から物好きな学生が百数十名ほど募集に応じていた。寮からは僕を含め3名の物好きが参加した。

***

初めての海外旅行だと正直嬉しくて仕方がなかった。しかし行きの船内では毎日のように研修やタイの言葉や

習慣の勉強をさせられて睡眠時間は数時間しか取れなかった。おまけに船は外洋に出ると大揺れで

多くの学生は吐きまくっていた。船酔いするのは気合いが足らんからだと団長は口癖のように言っていた。

この団長の迫力は凄かった。若干30台半ばでこのような大掛かりなボランティア活動を組織して

計画するとはしかも女性である。この女性こそ現在衆議院議員のI女史であった。

***

大学生は班毎に分けられ様々な研修を課せられた。僕の班には東京農大の応援団長や早稲田の雄弁会

の学生その他パワー溢れる学生が多かった。農大の応援団長にはかの有名なダイコン踊りを叩き込まれた。

東大を始め全国から志を持った多くの学生と船と言う空間で切磋琢磨できた事は僕に取ってかけがえのない

経験であった。南十字星を眺めながら甲板で女学生と海風に吹かれるような楽しい事もあった。

***

連日連夜厳しい研修を重ね僕達はタイに立った。難民キャンプまでの道はいつ何が起きるか分からないし

砲弾も飛んで来る危険があると言われた。僕達の乗ったバスの前後は軍隊が護衛してくれるような

状況だった。キャンプでは悲惨な難民が多かったが日本から援助物資を大量に届けて少しは役にたった

と思った。医学部生だった僕は半人前だが多少は医療活動もできた。

***

タイでの活動は短期間ではあったが充実していた。移動のバスが1台故障して急遽屋根に載せられ移動する

事もあった。浪人生活が長かっただけにとにかく全てが僕にとって新鮮な経験だった。

このボランティアに参加して多くの事を学んだ。日本の素晴らしさ,戦争の悲惨さ,それから志を同じくする

多くの大学生とも知り合いになった。学生の中には今衆議院議員となり活動している仲間もいる。

まあ変わり者の大学生が多かった。思い切って休学して来て良かった。

***

帰国後団長だったI女史にかわれてさらに教育ボランティア活動に

参加しないかと誘われた。僕は二つ返事でハイと答えた。

これを機会に更にハードで有意義なボランティア活動が始まることになった。

9.教育ボランティア(更に海外へ中国,アメリカ.....)

東京池袋に本部を持つこの教育ボランティアの大変さは半端では無かった。全国から1000人近くの小中学生を

集めて大きな船に乗せて船内で10日前後の研修会を行うのである。将来の日本のリーダーになれるような

人格を育てようと言う会の主旨だった。毎年夏と春この研修会は行われた。

毎日朝6時の朝礼から始まり夜10時過ぎまでリーダーの資質を育てるための厳しい研修は続けられる。

初対面の子供達と真正面からぶつかり時には涙して向かい合った。

***

僕達指導員の生活は更に過酷で子供達が寝てからも毎晩深夜までミーティングが続けられる。研修会中の10日間は睡眠時間

平均2時間でぶっ通しであった。20代と言う若さゆえ耐える事ができたのだ。最も印象に残る研修会は日中国交回復10周年を

記念して始めて中国で交歓会を行った時のものだ。東京晴海埠頭には衆議院議院も駆けつけ大臣の激励のメッセージまで

多数届けられた。当時の総理大臣中曽根康浩氏の親書まで持たされての大規模な交歓会であった。

***

当時指導員の中でもすでに中核的立場にあった僕はいきなり団長から交歓会の実行委員長に任命されてしまった。交歓会での

多くの出し物や寸劇その運営を中国に向かうわずか4日間で準備すると言うとんでもない委員会の長である。

もう頭の中は真っ青だがやるしかない。不可能を可能にできてこそ本当の仕事である。

全国からやってきた約1000名の初対面の子供達をわずか5日間で鍛え上げ交歓会で中国側にひけをとらない出し物ができるように

指導しなければならない。僕を含めて約30名の指導員たちは毎日徹夜で頑張った。指導員は皆東京近郊の大学生であり,

皆疲労からボロボロ状態であったがその迫力,気力は今思い出してもすざまじいものがある。

今頃皆社会の第一線で活躍している事だろう。

***

さて中国に到着すると至る所で熱烈歓迎の式典が開かれた。僕達の乗ったバスは常にパトカーに先導され交通を遮断して

通してくれるという歓迎ぶりだった。天津の総合体育館で知事を招いて大々的に交歓会は行われた。中国の子供達もかなり

前から練習していたらしくその演技は素晴らしかったが,日本の子供達の演技も決してひけをとらなかった。

よくまあわずか5日間でこれほどまで仕上げる事ができたものだと感動した。

会は大成功を納める事ができた。

***

さらに北京では一般人が立ち入れない政治の中枢部である人民大会堂に招待され盛大な中華料理で僕達一行は歓待された。

中国の日本に対する並並みならぬ熱列歓迎ぶりを肌で感じる事ができた。この実行委員長職をやり遂げたと言う自信は

その後の僕の人生に大きなプラスになった。人生できない事は無い,何事もやり抜くというモチベーションがあるかどうかだ

***

この教育ボランティアは学生時代に5年間行った。北海道から沖縄更に小笠原諸島まで様々な土地を子供達とともに研修会で

回らせてもらった。学生ゆえ金は無かったのが本当にお金に変え難い貴重な体験を積ませてもらった。

***

指導員の中でも中核になると更に高次の研修会に連れて行ってもらえた。高校生対象の研修会では飛行機でアメリカでの研修会

も開かれた。僕はこの研修会にも指導員として参加する事になりアメリカを始めメキシコやハワイなど海外にも同行するように

なった。アメリカではサンフランシスコ,ロサンゼルス,ヨセミテ国立公園など西海岸を移動しながら研修事業を行った。

貧乏学生ではあったが海外にただで連れて行ってもらえる事は夢のようであった。

ただしただほど高いものは無いと言うようにこれほどきつい研修事業も無かった。

***

学生時代にはそれこそ何でも果敢に挑戦したものだ。この教育事業だけではなく,YMCAの教育事業にもリーダーとして

参加していた。それこそ貪欲に挑戦し続けて将来医師になった時の肥やしだと頑張った。だから僕が医学生だった6年間は

本当に忙しかった。寮長とクラブのキャプテン,教育団体のチーフ指導員,YMCA指導員などひとりで何役も同時にこなす

と言うハードさだったから医者になった今でも仕事をこなす事に関してはかなり要領は良いはずである。

とにかくまず結果を恐れず行動して後から考えれば良いと教わったものだ。

即決断即実行が僕の座右の銘であった。

***

ただ不思議な事に学生時代は登山には全くと言うほど関心を示さなかった。スキーに関してもまるで興味は無かったから

人生とは不思議なものである。

10.学生結婚と長男誕生

勉強に関してだが自分で言うのも何だがどちらかというと真面目な方だった。医学部と言うのは入学して2年間は教養で3年目から

専門に進む。入学してストレートで卒業できるのは8割,そのうちストレートに医師国家試験に合格できるのはそのまた9割,

つまり2-3割の学生が留年か浪人する事になる。入学時にすでに2年遅れた僕にとって無事6年で医師になる事は絶対条件であった。

***

だから色々な仕事をこなしながらもとにかく勉強も頑張った。しかし仕送りは当時月3万円だったのでバイトにも精を出した。

日雇いの工事現場からアンケート調査,コンサート会場の整理員しかし一番収入の良かったのはやはり家庭教師であった。

医学生という事で特に地元では優遇されており週2回,4時間食事付きで月5万程度出してくれた裕福な家庭もあった。

だから何だかんだと月10万円くらいの収入はあり仕送りはいらないよと親に言っていたほどだった。おまけに授業料が免除

されていた時期もあり本当に国や社会から受けた恩恵は今でも有り難いと感じている。

***

今自分が親となり子供に仕送りする立場になったが自分のような金のかからない子供だったら本当に親孝行だろうと思う事がある。

さてかみさんと出逢ったのはたまたま5年生の時に兄の結婚式で地元に帰った際に知人から紹介された事がきっかけだった。

これも偶然だがかみさんと出逢うまで同じ医学部の女子学生とつき合っていてたまたま出逢う前日に別れ話が決まった所だった。

***

丁度フリーになったので面白半分に逢ったかみさんとつき合う事になってしまった。しかしかみさんは当時OLで遠距離恋愛で

あった。僕より2歳年下だったがとにかく控え目で行動的な僕の性格と正反対だったので何かしら惹かれるものがあった。

手編みのセーターやマフラーも良く作ってくれた。遥々北陸から関東まで月に一度は会いに来てくれたがどうせ結婚するなら

早い方が良いとこれも即決で結婚を決めた出逢ってわずか半年もしない内に一緒に暮らし始めてしまった。

***

医学部は比較的年をくった学生が多く学生結婚はそれほど珍しいものではなかった。僕のバイトとかみさんの失業手当てを

あわせれば贅沢さえしなければ十分生活は可能であった。毎日かみさんの手弁当を持って学校に通っていた。家賃2万程度の

おんぼろアパートでまともな家財道具一つなかったがそれでも楽しい生活だった。

***

6年生になり後卒業まで1年と言う事で色々なボランティアはすべて止める事にして勉強一筋で頑張る事にした。かみさんの

お腹の中にはもう子供がいて何が何でも国家試験に一発で合格して来年春から医者として収入を得なければならなかったからだ。

僕はもう猛勉強した。6年になって受けた模擬国家試験で全国順位30番程度ともう既に合格圏内に入るくらいであった。

***

かみさんが妊娠中は産婦人科の研修を兼ねて自分で妊婦検診なども行っていた。そうしてようやく9月に長男が生まれた。

とにかく五体満足に生まれた事がとても嬉しかった。しかし10月からいよいよ卒業試験に突入する。毎週のように試験が続く。

わずか1ー2週間で教科書1冊を丸暗記しなければならないような厳しい試験である。

***

自分でまいた種は自分で刈り取らなければならない。生まれたばかりの長男を膝の上であやしながら必至に勉強した。

随分夜泣きにも悩まされたが子供やかみさんを実家に帰す事は決してしなかった。厳しい環境の中でも家族で力を合わせて

国家試験に合格したかったのである。厳しい環境であればあるほどよりファイトが湧くものである。生まれたばかりの

長男を相手に今度は小児科の検診を兼ねた実習を行っていた。だから産婦人科と小児科の試験は特に成績は良かった。

***

かみさんの支えもあり全ての卒業試験を一発で通り,無事卒業式を家族三人で迎える事ができた。あとは国家試験を残すのみ

である。国家試験は事前の全ての模擬試験でA判定を受けていたので余裕であった。東京が試験会場であり合格基準点は60点だった。

試験が終わり自己採点で85点を超えていたのでもう不安は丸でなかった。さあいよいよ就職である。

***

大学を卒業後迷わず地元の国立大学の内科の医局に入る事に決めていた。

こうしていよいよ僕の医師としての波瀾の一歩が踏み出される事になった。

11.大学での研修時代

卒業式の翌日,入局予定の大学の医局から明日歓迎会があるから来るようにと言われた。

医師国家試験の合格発表は2ヶ月ほど先であり少なくとも1ヶ月くらいはのんびりできて

卒業旅行でもしようかと考えていた。 しかし世の中甘くは無かった。

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取り敢えず家族をおいて一人で歓迎会に出ることにした。医局の新人研修医は約18名であった。

ホテルで盛大な歓迎式が行われた。さすが医師の世界はやる事が派手だと感じた。

歓迎会が終われば翌日また関東に戻りのんびりしようと考えていた,が医局長より

歓迎は今日一日だけ,明日から大学病院で研修を行うと告げられた。

ガーン,そんな殺生な卒業したばかりなのに

***

身一つで北陸まで歓迎会にきて白衣はおろか聴診器,本一冊もないのに僕はこの非情さに驚いたが,

これが医者の世界だと納得した。

かみさんに宅急便ですぐ白衣と聴診器を送ってもらう事にして翌日から大学での研修生活は始まった。

アパートからの引っ越しは大学の

後輩に頼んで一日で全部荷造りをして送ってもらう事にした。

結局卒業してまるでゆっくりできずじまいで即社会に出る事になった。

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大学の医局はまさに教授を頂点とする完全なピラミッド社会であった。教授が烏は白いと言えば医局員は

白いと応えなければならないような絶対的な権力をもっていた(少なくとも当時はそうで,今は分からない)

医局には明治時代からの歴代の教授の写真が順に何枚も飾られており,新人には十分威圧感を与えていた。

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僕達新人は受け持ちの患者さんを4名ほど持たされ,朝から晩まで厳しいトレーニングをかせられた。

毎日朝7時前には大学に行って帰宅は深夜1時2時,患者さんの容態が悪ければ泊まり込みが当たり前であった。

全てが新鮮であったが僕達新人に対して看護婦さんたちは厳しかった。

医師としてではなく,半人前として冷たく扱われていた。正直いつか見返してやると思ったりもした。

もちろん国家試験の合格発表があるまで医療行為は御法度だったこともその理由であった。

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研修医にはひとりずつ指導医として先輩(オーベン)が割り当てられ色々な面倒を見てくれる事になっていた。

面倒見の良い先輩に当たれば良いのだがそうでない場合もある。

僕のオーベンはいきなりオーベンはいないものと思えと言うだけで,その通りほとんど何も指導らしい事は

なかった。僕はほとんど見よう見まねで勉強するしかなかった。

毎日毎日医局の雑用と患者さんの治療方針を決めるカンファレンスに

追われ一時の余裕もなかった。研修医たちは皆夜中になると当直室にたむろして互いの辛さを慰めあっていた。

***

それこそ土曜も日曜も朝も昼も夜も無い,早く一人前になりたいと無我夢中で頑張るのみであった。

辛かったが立派な医者になるためだと理解していた。

大学病院の中の研修でも最も辛かったのが教授回診であった。 

白い巨頭で有名な光景だが教授の回りを助教授を始め全医局員が列を成して大名行列の様に回診して回るしきたりである。

この教授回診には担当医が必ず付いて患者の容態を説明する。教授は様々な質問を担当医にあびせる訳だ。

もし返答に戸惑ったり,検査データーを正しく言えなければこれはもう一大事,状況によっては医局員の首も

飛びかねないほどの緊張感の中で行われていた。

***

僕達研修医とて例外では無い。受け答えに戸惑い烈火のごとく怒る教授に半泣きになる医局員を見てもう

僕はビビりまくったものだった。この回診の準備のため僕達は回診前夜,深夜まで予習を繰返すのが日課であった。

今思い出しても正直身震いしてしまうほどの緊張感であった。

その緊張に耐えられず医局を去って行く者もいた。鬱になって病院に来なくなる医局員もいた。

しかし患者の大切な命を預かっているからこそ教授も厳しくしていたのだろう。

今思えばその厳しさのおかげで今の自分があるのである。あらためて感謝したい。

***

5月になって国家試験合格発表の日,予定通り僕は合格していたが研修医の中には不合格になった者もいた。

彼は夜中の内に人知れず荷物をまとめ翌日からもう大学には来なくなった。厳しい現実であった。

もう医療行為は何でもできることになり,更に当直や採血,注射その他検診のアルバイトなど研修医の仕事は更に増えて行った。

***

3月下旬から研修医は大学病院に勤務し半年後の10月になればはれて一般の関連病院に派遣される事になっていた。

もう大学での生活も限界に近く早く関連病院に出たいと誰もが感じていた。しかし僕にとって大変な事態が起きてしまった。

***

当初研修医は糖尿病や高血圧,慢性肝炎など比較的容態の安定した患者さんを主治医として担当していた。生死がかかるような

重症患者は先輩たちが担当する事が多かった。僕も無難に患者さんを退院に導き少しは自信もつき要領も覚えてきた頃だった。

大学の関連病院からとんでもない重症患者が転院されて来ると言ううわさが広まった。大学で重症患者を受け持つ事ほど

辛い事は無かった。それこそ24時間拘束されるからであった。

***

うわさからすぐその患者は救急車で大学病院に搬送されてきた。病名は肝硬変による食道静脈瘤破裂,大量出血が続き患者は

すでに意識が無く完全昏睡状態だった。まさか僕が担当になる事は絶対に無いと考えていたが,医局長から主治医は

YASUHIRO先生,頑張るようにと指示を受けた。あと2ヶ月で大学を去れると喜んでいた矢先にこの試練,僕は全力を尽し

頑張ってみようと心を新たにした。

***

その日を境に僕は自宅に帰れない泊まり込みの毎日が続いた。毎日出血は止まらずしかも出血源もはっきりしない。

毎日輸血の調達と全身管理に明け暮れた。相変わらず患者さんは昏睡状態,毎日家族には病態の説明に追われ

好転しない状況にもがく日々が続いた。正直もうくたくたで気力だけで日々をのりきっていた。24時間心休まる事はなかった。

***

しかし思いと裏腹に肝不全は徐々に進行し止まらない出血も輪をかけ患者さんの容態は益々悪化して行く。

どれだけ頑張っても救えない命もある。数週間後ついに万策尽きて患者さんは他界した。

僕は無力感に嘖まれ,と同時に全てが終わったと抜け殻のようになった。

奥さんから本当によく頑張っててくれたと言う労いの言葉だけが僕の救いであった。

***

医者になって何年もすればそれこそ数え切れないほどの死亡診断書を書く事になる。ただ初めて書く死亡診断書は

誰しも忘れる事は決してないだろう。僕にとって今でも忘れる事のできない記憶である。

***

こうして大学病院での厳しい半年間の研修医生活はもう終わりいよいよ僕達は関連病院へ派遣される事になる。

関連病院は北陸三県にまたがりかなり忙しい病院から暇な病院まであった。以前は研修医がくじを引いて順に

出張病院を自分達で決めていたが色々問題もあったため僕達の年から医局長が研修医の能力や体力を判断して

決める事になった。誰がどこに行かされるか皆ハラハラどきどきであった。

***

できるなら給料が良くてなおかつ充実した研修ができるとても忙しい病院が良いと誰しも思っていた。

ついに発表の日,僕は北陸でも最も忙しい某病院に派遣される事になった。それこそ一晩中救急車がひっきりなしに

やってくる今では想像ができないくらい過酷な病院である。更に僕のハードな研修が続く事になる。

こうして医者になって半年後いきなり救急最前線に立たされる事になった。

12.救急最前線,更に過酷な研修医生活へ

医者になって半年後僕は北陸の某病院への派遣が決まった。すぐに診療部長に挨拶の電話をする。 

うちの病院は当直が大変だから赴任したら1ヶ月間毎日当直に入って勉強して下さいと言われた。

アパートは病院の隣にあった。24時間出動できるようにとの計らいだった。

***

この病院とにかく救急車が嵐のように駆け込む病院だった。この地域には病院はいくつもあるのだが救急車を

受け入れる病院はここしか無かった。かなりの広域圏で救急車がここだけに集中していた。当直医はたった1名

これで内科,外科,小児科その他全ての患者をたった一人で診察しなければ成らないのである。

根本的に医者の数が少なかった。おまけに内科系の研修医は僕一人である。

***

僕達研修医は赴任したらまず1ヶ月間先輩に付いて毎日当直をし,その後は一人でローテーションに入ると言う訳だ。

病院の近くには大きな国道がありとにかく交通事故の患者が多かった。瀕死の重症,それがまとめて何人も来る。

内科とは言っても一通りの縫合処置など救急処置は全てやらなければ成らなかった。自分の専門では無いからとすぐ

他科の先輩を呼ぶ事は御法度になっていた。そんなことをすれば毎日皆当直をしているようなものだから,とにかく

よほどの事が無い限りまず当直医が一人で対処すると言う決まりであった。

***

この地域の特性か昼間は忙しいからと夜しか来ないような人もいて驚いた。

夜間当直室の前には患者さんが大勢並ぶような雰囲気があった。当直があたればまず朝まで寝る事は

できない,しかも次の日は通常勤務である。おまけに土日は待機と365日,24時間戦えますか状態だった。

***

若いうちの苦労は買ってでもしろと言うがとにかく全てが勉強と先輩の当直までも譲ってもらい働きまくった。

医者になったからには当たり前の生活で辛いと思う暇もなかった。20台半ばで若くて体力も気力も十分だった。

厳しい当直業務と先輩たちの愛の鞭のおかげで毎日が勉強で全てを吸収して行った。

内科だけではなく外科的な処置もかなりうまくなっていた。小児を診る事も多くとにかく興味津々で当直を

こなした。仕事だけではなく上司も良い人ばかりでよく飲みに連れて行ってもらった。二人で夜が明けるまで

飲んだ事もあった。しかし次の日も上司はあくび一つせずぴしっと仕事をこなしている。これがプロだと思った。

***

この病院に勤務していた半年間で町を離れたのは夏休みとして一日もらって名古屋に家族で日帰りした

ただこの一日だけだった。僕は猛烈仕事人間になっていた。

ある日の当直で妊婦が自殺を計って運ばれてきた。自分で頸動脈を切りもうほとんど息の無い状態だった。

その処置の間に今度は救急隊から交通事故患者3名を搬送しますと連絡があった。

手一杯で対応できないと言っても救急病院はここしかないのである。3名の内2名は既に息がなく心肺停止状態だった。

残りの一名も瀕死の重症で際どい状態だった。もう僕は四面楚歌のような状態だった。それなのにさらに救急隊から

今からもう一台救急車が向かいますと連絡がある。正直お手上げ状態だった。でもやるしかないのである。

***

この病院に勤務していた半年間にお見送りした患者さんの数も半端ではなかった。運ばれて来る患者は重症ばかりだった。

研修医の僕が体力をかわれて一番厳しい重症を任される事も多く毎日が戦場そのものであった。

多分今の時代の研修医には想像が付かないだろう。しかしながらおかげで僕の医師としての実力は

メキメキ驚くほどついて行った。この病院を半年で退職する頃にはもうほとんどどのような難しい処置でも

何でもできるようになっていた。この半年間は僕にとって5年分くらいの内容の濃い半年であった。

13.消化器専門医としての道へ 

研修医生活を続けながら自分は将来どの専門に進むか考えた。誰でもできるような事よりも

誰もできない事が良い。つまり専門家の極めて少ない分野に的を絞った。

当初から消化器関係に進みカメラを自在に扱えるような医者になりたいと考えていた。

入局当時は周囲には消化器と言っても肝臓や胃を専門にする医者は多かったが大腸に関しては

まだまだマイナーな分野であった。しかしこれからは食生活の欧米化から大腸癌が増えるはずだ。

しかしながら当時大腸カメラを自在に扱える医者は医局にも皆無であった。

この事は僕にとっては極めて好都合であった。

***

この大腸カメラには過去苦い思い出があった。医学部1年生の時ストレスから下痢が続き自分の大学の先生に相談した。

是非一度検査を受けるように勧められ当時ようやく開発されたばかりの大腸カメラの検査モルモットになった。

いざ検査を受けたがはらわたを突き上げるような激痛を1時間近くも耐えさせられこんなに辛い検査は

もう二度と御免だと思った。その時のトラウマがいつまでも頭から離れず,

どうしたら苦痛無く大腸カメラを行うことができるかと言う事を独学で真剣に研究した。

***

胃カメラは単純な手技なので比較的容易に技術は身に付くが,大腸カメラは非常に複雑で難しく,

その技の習得にはかなりの年月を要した。如何に早く,苦痛無く,正確にをスローガンに検査の鬼となった。

富山で一番大きな総合病院に勤務していた時もとにかく独学で大腸カメラに没頭した。

***

地元の病院に就職した際にも当時年間300件ほどしか行われていなかった大腸カメラを数年で県内で一番

数の多い病院に育てようととにかく頑張った。検査がうまくなれば自ずから患者さんは増えて行く,

検査が増えれば手技も更にうまくなる。検査数は飛躍的に増加して数年で年間1500件から2000件

と目標通り県内でも最も検査数の多い病院になり,大腸カメラならこの病院と言う評判も立つようになって来た。

***

大腸カメラの難しさは人によって大腸の長さや走行がまるで異なるため画一的なマニュアルが作り難いと言う事にある。

ある意味でパズルを解くような楽しさと難しさがあるのである。山スキーと同じで深みにハマればハマるほど

益々楽しくなって行くのである。もう僕は人生をこの世界に賭けようと決意し更なる飛躍を求めて独立を考え始めた。

14.開業独立への道へ

同じ病院に5年もいると当然なじみの患者さんは増えて来る。いきなり知らない土地で開業するよりは勤務病院の近くで

開業する方が有利である。僕の場合は自宅も病院の近くだったので開業地を選ぶのに迷う事は無かった。

しかしながら自宅周辺は市内でも開業医が多い激戦地である。何か特色を出さなければ多分成功しないだろうと思った。

ただ胃腸の専門家特に大腸カメラをメインで行う医者は当時市内にもほとんどいなかったのでこれなら大丈夫だと思った。

***

開業の準備はほとんどすべて自分で行った。まずは医院の設計。僕はこれまでどこにも無かったような特色のある医院を

作りたかった。特に大腸カメラを受けに来る患者さんが快適に過ごせるような医院作りである。

大腸カメラを受ける場合洗腸までに半日以上かかるため医院の中でゆっくり過ごせるスペースが必要になる。

そのためゆったりした部屋を用意することにした。洋室、こたつのある和室、リクライニングスペース、庭など

二階にそのスペースを確保した。また館内はトイレの中まですべて床暖房にして素足でも快適に過ごせるようにした。

***

遠方から来るであろう患者さんのためにシャワー室を設けさらにトイレはすべてウオッシュレットで館内に8カ所と数多く

設けた。一般の診療所でトイレが8カ所もあるところなんてまず無いだろう。さらに検査の効率を上げるために内視鏡室も

2部屋設ける事にした。医者一人で内視鏡室が2部屋ある施設も北陸では初めてであった。

***

開業にはできるだけ資金を掛けないと言うのが常識だが僕の発想は逆で、お金は可能な限度まで借りて充実した施設を

作った方が良いと考えた。結果的に多くの患者さんに来てもらえれば借金を返すのも早いのである。勤務医時代にコツコツ貯めた

自己資金5000万に残り数億はすべて借金だった。土地の選定も大通りに面した適地を探し出し交渉の末何とか安く手に入れる

事ができた。バブルがはじけて土地も建築コストも安くなった事が追い風になった。

***

建物を建てる場合最も大切な事はまず信頼のできる設計士を選んで建築会社を何社か競合させる事である。設計士と建築会社

がつるんでしまうと当然コストは高くなるので誠実な設計士を見極められるかどうかが最大のポイントと考えられる。

実際見積もりを取ると同じ図面でも会社によっては値段は倍以上も違った。実に数億円の違いが出るのである。

また建物はできてからのメンテナンスが重要であり、そのような足回りの良い面倒見の良い建築会社かどうか

これも重要である。僕の場合設計士にも建築会社にも恵まれてその後自宅の建築などすべて同じ会社にお任せしている。

***

設計士、建築会社、医療機器、薬その他諸々開業準備は大変であるが多くの方の協力を得ながら人任せにせずすべて自分で

見積もりを取り業者の選定を進めて行った。ただその準備の過程で僕の開業を陰ながら支えてくれた患者さん達にも大変

お世話になった。感謝感謝であり開業後も恩返しをしなければと強く思った。

***

それから開業に際してもう一つ大切な事は優秀で信頼できるスタッフが見つかるかどうかである。志を同じくしてくれる

看護士や事務員がいるかどうかで成功するかどうか決まると言っても過言ではない。ただ給料が良いからと言うだけで

良い人が来てくれると言う程甘くはない。幸い僕の場合は勤務医時代同じ職場で働いていたこの人こそと思うスタッフ

がいたので僕の気持ちをダイレクトに伝え快くスタッフとして来てくれる事になった。看護士二名、事務二名に僕とかみさん

と言う6名でのスタートになった。

***

スタッフと過ごす時間と言うのは家族と過ごす時間よりも長いはずである。スタッフに感謝し自分の家族のように接することが

できるかこれが末永く勤務して頂けるかの鍵となる。開業以来今も10年間働き続けてくれている看護士と事務スタッフには

感謝感謝である。風通しの良い楽しい職場、頑張る時は頑張り、休む時は休む。これは大切な事である。

***

医院の建築が始まると次は診療に際して重要な基本理念が必要になる。いわゆる会社の社是のようなものである。

国で言えば憲法、心の礎となるスローガンを考える事にした。何のために働くのか、医療を行うのか。患者さんとどのように

向き合うのか。これまでの人生経験から次のスローガンを考えて今も医院の院是として会の始まりには必ず職員全員で復唱している。

  1.私たちは自分の為に働きます。    
  2.私たちは患者様の為に働きます。    
  3.私たちは社会の為に働きます。    
   
  . 誇り ・・ 自分の仕事に誇りを持ちましょう。  
  . 奉仕 ・・ 患者様に対して奉仕の心を持ちましょう。
  . 感謝 ・・ 来院して下さる患者様に感謝をしましょう。
  . 協力 ・・ 職員一同協力をしあいましょう。  
  . 挨拶 ・・ 患者様に進んで挨拶をしましょう。  
  . 積極性 ・・ 積極的に仕事をしましょう。  
  . 思いやり ・・ 患者様に対して思いやりの心を持ちましょう。
  . 責任感 ・・ 仕事に対して責任感を持ちましょう。
  . 礼儀 ・・ 患者様に対して礼儀正しくしましょう。
  . 笑顔 ・・ 患者様に対して笑顔で接しましょう。

***

人生楽しくなければ面白くない。開業はしたが仕事一辺倒になって人生を過ごすのは虚しすぎる。開業したら山スキーも楽しみたい。

勤務医時代以上に趣味も楽しみたいと思った僕は水曜、日曜の完全週休二日制として週に二回速攻で山に行ける時間を作る事にした。

ハードな仕事をこなすにはそれなりの体力、気力が必要である。山を通じて気力体力が養えれば一石二鳥なのである。

山と医療は僕の人生の両輪になっている。両方が充実して初めて生きていると言う実感が感じられるのである。

開院は2000年4月、着々と準備は進みいよいよ緊張の開院日を迎える事になった。

 

15.開業生活(前半)

いよいよ明日開業だと思うと色々不安がよぎる。果たして患者さんが来てくれるだろうか。新規開業の場合たいてい一日の患者数

は10名程度、軌道に乗るまでには最低5年はかかると言われていた。誰も来てくれなかったらどうしよう、なんて思ったりもした。

2000年4月8日(金)忘れもしないあの日、玄関を開けたら既に何人もの患者さんがオープンを待っていてくれた。

***

開業後来院して来られる患者さんはすべて新患だから事務作業に手間がかかる。そうこうしているうちに

患者さんは次々に来られ息つく暇も無かった。

勤務医時代のなじみの方も多く来院し、終わってみれば初日だけで54名の新患の患者さんが来院した。

いきなり胃腸のカメラも何件も入り正直てんてこ舞いだった。診療所とは言え患者さんが来てくれてこそなんぼの世界である。

初日としては大盛況だった。このまま行けば何とかなるかもと一日で不安はなくなった。

***

開業して最初の月は一日の平均外来数は50名であった。ほとんどが新患だったからかなり忙しい思いをした。

患者さんの数はその後も順調に増えて行き、1年目は一日平均で63名の外来数だった。2年目で96名、3年目に

一日の外来数は100名を超えて、その後も順調に患者さんは増えて行った。

***

内視鏡検査数も1年目が年間2800件、4年目で5000件を超えるくらいになっていた。

一人で外来も検査もこなすのは大変だが自分を信頼して患者さんが来てくれると思えばそれほど苦にならなかった。

ある時は北海道から、またある時は沖縄からわざわざ飛行機で検査に来られた方もいて驚いた。

遥々遠路来てくれる患者さんの期待には絶対応えなければならない。まさにやるしかないである。

***

遠方から来られる患者さんと言うのはほとんど大腸カメラを目的として来る事が多い。

大腸カメラと言うのは胃カメラと異なり技術的にも難しく、手術の際のリスクも高い。だから患者さんも

病院選びにはより慎重になる傾向がある。特に最初の検査でつらい思いをした場合はなおさらである。

***

大腸と言うのは長さや形状などかなり個人差が大きい、1、2分で盲腸まで挿入できる事もあれば

10、20分かかっても中々挿入できない場合もある。特に腹部手術を過去に受けて癒着の強い場合はかなり

難易度は上がる。これまで誰も成功した事が無いと言う患者さんやどうしてもカメラが入らないから入れて欲しい

と病院から紹介される難しいケースも時々ある。

***

難しいケースでも絶対に諦めないで終点の盲腸までしっかり観察して小さな病変でも見逃さない、特に絶対諦めないと言う

強い気持ちが山と同じで大切なのである。山スキーで滑る時は無意識に勝手に足が動くのと同様に大腸カメラを行う時も

何も考えずに勝手に手が動いてくれている。

***

大腸カメラは胃カメラと異なり検査までの準備や検査時間も余計にかかるので一日にこなせる数も限られる。

一般の病院でさえもあらかじめ予約をして一日の数を押さえるのが普通である。僕の場合、遠方から来られる方も多いので

予約無しで当日検査希望の場合は必ず初診で検査を行うと言うスタイルを貫いた。

このため多い日は大腸カメラだけでも20件を超える日も出て来た。

胃カメラと合わせると実に一日に50件以上の検査をこなすようなとんでもない日も年に何度もある。

これで外来診察も一人でこなすので忙しい月は昼食さえまるっきり取れないような日々が続く。

***

しかし勤務医時代と異なり自分を信じて患者さんが来てくれていると思えばモチベーションは自ずから上がる。

昼食が食べられなくともそれほど苦にはならない。患者さんが来なくて閑散としているよりは忙しい忙しいと言っていられるうちが

華なのである。

***

開業して以来まともに昼休みを取った事さえ無いのだが不景気で苦労している人が多い中忙しく働ける自分は幸せである。

仕事が忙しくなると当然ストレスを解消しようと趣味の世界にも熱が入る。開業後、水、日の週休二日となりさらに入院患者を

持たなくて良いと言う安堵感から山スキーの世界にもますます傾注するようになってしまった。特に激しい山スキーを行うように

なったのはある男との出会いからであった。それは不思議な縁での出会いであった。

 

16.山スキー名人との出会い

山スキーを始めた頃はほとんど単独で北アルプスを中心に滑ってはいたが単独故の限界があった。

正直パートナーがいればと思う事も何度かあったが気力、体力、スキー技術ともに自分に合うような人は中々いない。

***

ある日ネットで知り合った方とメールで山スキーに行く事になったが急遽キャンセルが入り、変わりにその方の友達を

紹介された。年齢、性別、住所などまったく不詳、まあ堅い事は言わない。場所は笹倉温泉発の火打山往復

以前から狙っていた記録の無いハードコースである。待ち合わせは笹倉温泉。

***

その男は夜中にハイエースに乗って現れた。人なっこそうな若者だった。こんにちは@@さん。スキーの帰り

友達からいきなり電話がかかり、迷ったんですが来てしまいましたとの事だった。まだ山スキーには不慣れだが

体力はありますと言うことだった。

***

この男、山スキーを初めてまだ日は浅いがスキー大好き人間でゲレンデのコース外専門のスキーオタクだった。

よーし少し懲らしめてやろうと内心思った。いきなりハイーペースで九十九折を登り上げる。まだシール歩行が

未熟な彼は急な林道を滑りながらも必死になって着いて来る。なかなかやるじゃないか。

***

極めつけは北面台地を過ぎた急な火打への登り、シールで登れば潜らず楽なのに僕はツボ足で行きますと膝上ラッセルをものともせず

ガンガン登って来る。山スキーを知らない馬鹿なやつだと思ったが、そのひたむきなラッセル姿に僕は目が点になった。

僕のシール歩行とほとんど同じペースで結局火打まで登り上げた。すごい体力だった。性格もまじめで決して出しゃばらない

(最近はそうでもなくなって来たが)気持ちのよい好青年だった。

***

登りはまだまだ未熟であったが火打からの彼の滑りに度肝を抜かされた。テールを沈ませどのような悪雪も華麗に滑る。

こんな滑り見た事無い。型にはまらない独創的な滑り、まさに名人芸だった。火打から笹倉温泉に戻るまでに僕はすっかり彼と

意気投合していた。かみさんと初めて出会った時のような衝撃的な出会いであった。

***

人生と言うのは色々な出会いを通じて豊かになって行く。名人は気力、体力ともに抜群で一緒に山に出かけても気を使わなくて

良いことがうれしい。空気のような存在で尚かついざと言う時に頼りになるのが良いパートナーの条件だろう。家庭も、仕事も

趣味も良いパートナーに恵まれる事が大切である。

***

名人はこれまで厳冬期の山スキーの経験がまったくなかったがこれ以降僕と彼は厳冬期を中心にハードな山行にのめり込んで行く。

彼と出会ってから立て続けに北アルプスを中心としたハードなワンディ山行を繰り返している。

山スキーは危険である。最大のリスクはやはり雪崩だろう。どれだけ気をつけていても自然を完全に予測する事は不可能である。

ただ単独よりもパートナーがいればリスクは大きく減らすことができる。単独では成し得ない山行でもパートナーがいれば

可能になる場合も多い。

***

人には仕事や家庭の事情で色々な山行スタイルがある。僕の場合、仕事柄連休は取れないのでどこへ行くのも日帰り山行しか

選択肢は無い。積雪期に北アルプスで日帰り山行を行おうとすれば必然的にスキーの機動力を使わない手は無い。

スキーがあるからこそできる機動力を生かした独創的な山行を行う事が僕の目指すスタイルである。

山スキーの場合まだ報告の無い好ルートはまだまだたくさんあるはずである。

これからも名人と二人で新たなルートを開拓して行きたいと思う。

 

 

以後続く。。。

その後の人生

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