北鎌尾根

槍が岳は登山をやらない人でも名前ぐらいは知っているだろう。それほど有名であり,
ある意味で富士山と並ぶ日本の山の象徴的存在である。登山が一般大衆に広がった昭
和初期からこの山をめぐって様々なドラマが繰り返されてきた。この山にあこがれて
挑戦し命を落とした登山家も少なくはない。こうしたドラマの舞台となった有名な尾
根が北鎌尾根である。北鎌尾根は槍に達するいくつかの尾根の中でも最も険しく,明
瞭な登山道がないいわゆるバリェーションルートである。

山を始めた頃僕もこの尾根に憧れいつかはこの尾根から槍山頂を目指したいといつも
心に決めていた。僕がこの尾根に初めて挑戦したのはまだ登山を始めて数年の駆け出
しの頃のある暑い夏の日であった。

富山県中病院に在籍していたその当時5日の夏休みを頂いたのでこれ幸いと計画した。
計画では5日分の食料やテント,写真器材など30k近い重装備で長野県の中房温泉から
入山し北鎌尾根,槍が岳,水晶岳,薬師へと縦走を続けて富山県の折立に下るという
長丁場の行程であった。

中房温泉からは燕岳,大天井岳を通過し稜線から一端貧乏沢に下って北鎌尾根に取り
付いた。2日目沢で5リットル近い水を担いでの道無き北鎌沢を登るつらさは今思い出
してもぞーっとする。北鎌尾根に登り上げるまで2度も道に迷ってしまい大幅に時間
をロスした。結局一日で槍山頂に達するという当初の予定は大幅に狂い槍が岳手前の
独標でビバークするという羽目に陥ったのであった。

この独標の頂は3000mを越す高さにあり岩でゴツゴツした一坪ほどの平坦地である。
強風にでも襲われれば谷まで真っ逆さまという怖い場所であったが,ハラハラドキド
キしながら天候が荒れないように神に祈りながら心細い一夜を過ごした。その甲斐も
あって翌日は文句無しの快晴になり朝焼けで真っ赤に染まる槍が岳の写真を撮影する
ことができた。この時の写真は僕がこれまで山で撮影した写真の中でも最高の出来映
えの一つであった。何枚も写真を取りまくり神に感謝して僕は槍山頂を目指した。

独標からも厳しい不明瞭な岩尾根は続き緊張の連続であった。山頂直下の急な岩場を
こなすと最後はひょこっと山頂の祠の裏に出た。やった,ついに僕の北鎌尾根完登が
なし遂げられた瞬間であった。山頂からは360度の大展望が広がり,穂高,笠,遥か
白山までその景色を堪能することができた。その日は槍を後にして三俣蓮華のキャン
プ場まで足を伸ばし,以後薬師経由で無事富山に下山した。

あの暑い夏の日から既に10年以上がたちいまだに山を続けている。開業医となりもう
長期の休みは取れずあの様な山行はできないが北鎌尾根をやり遂げた自信がある意味
で僕の人生の自信になっているような気がする。

朝焼けの北鎌

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